2013年4月12日金曜日

今日のソ連邦 第2号 1987年1月15日

今日のソ連邦、1987年の第2号です。
前回は1号であるにも関わらず、新年に関連した記事がほとんどなかったのですが、こちらの号には駐日ソ連大使のソロビヨフさんの新年のご挨拶が載っています。どうやら大使館の仕事始めはこの号からのようです。

続くページには「米国のSALTⅡ逸脱に関するソ連政府声明」なるものが載っています。SALTⅡとは「第二次戦略兵器制限交渉」で、要するにお互いの核兵器を減らそうという取り組みです。
ソ連政府によると、アメリカは1986年に長距離巡航ミサイルを搭載できる131機目の爆撃機を実戦配備した際、その埋め合わせとして同等の能力を持つ「核兵器運搬手段」を解体しなかったとのこと。
これによってアメリカは、条約で1320基と決められた数を上回る核兵器運搬手段を持ったことになり、けしからんというわけです。もっともアメリカは「SALTⅡ」に調印こそしましたが、その後のソ連のアフガン侵攻がけしからんということで議会が批准を拒否。1985年には効力を失っています。 どっちもどっちという気がしますが、この手の綱引きは冷戦時代ではしょっちゅうでした。
ちなみに核兵器の削減交渉で問題になるのは核弾頭の数ではなく、それを運ぶミサイルや航空機、潜水艦などです。やらないよりはマシですが、この手の交渉が成立しても、弾頭自体は全く減っていないどころか、逆に増えていた現実があります。

次は「党地区委員会の第一書記」。
モスクワ北西部にあるゼレノグラード市(モスクワ市の飛び地)の地区第一書記、アナトリー・ラリオノフ氏の仕事ぶりを紹介した記事です。
ソ連は共産党一党独裁の国なので、行政府と政党が一体となっています。しかし、市役所には市長を始めとする市の職員がおり、共産党がどんなポジションで何をしているのかはわかりにくいものがあります。
実際、外国の読者からは「学問には学者が、工場には労働者が、管理部門には権限のある指導者がいる。では共産党は何をしているのだ?」との疑問が寄せられていたようで、記事はこれに答えたものとなっています。
ラリオノフ第一書記の言葉によると、「人体には脳や骨格、筋肉や心臓がある。社会も同じだ。しかし、人間を人間たらしめているのは、創造性や意志を育む精神的基盤である。共産党はまさに社会の精神的基盤としてすべてのことに責任を負っている」とのこと。
おー、なんかいいこと言ってる気がする。

しかし、現実はというとなかなか大変なようです。
アパートの順番待ちはソ連では珍しくもありませんが、そこでラリオノフ第一書記は、大祖国戦争の退役軍人たちの入居を優先するよう指示します。
また、工場を定年退職した老コンスタンチノフが、引退後の楽しみとして果樹園用の土地(当然、数に限りがあります)を労働組合に申請しますが、気難しい性格だったために仲間との折り合いが悪く、同僚たちは「あんな奴に土地を工面する必要はない」と一悶着。
そこで第一書記は老コンスタンチノフと面会し、彼の実直な性格や現役時代の功績を総合的に判断して、土地申請を受理するように働きかけます。
また、ある時はスーパーマーケットの遊歩道がきちんと清掃されていないということで、清掃員たちを適切に指導。さらには、なぜ日当たりが悪く、冷たい風が吹き抜けるアバートの中庭なんかに子供の遊び場を設置したのか?と建設管理局にネジ込み、同アバートに住む市民からは牛乳が配達されてこないとの苦情を受けて配給ステーションにも足を運び・・・。

なんかプリキュアのマナちゃんみたいなことやってますよ生徒会長みたいなことやってますよ、ラリオノフ第一書記。とはいえ、庶民的で人間臭い問題を抱え込んでるのは親しみが持てます。共産党幹部といっても、地区レベルではこんな感じなのですね。

その流れというわけではありませんが、モスクワの第370幼稚園の記事。ソ連における就学前教育は3種類あり、0歳児から3歳未満を預かる保育園、3歳から7歳未満を預かる幼稚園、両者が一体となった保育幼稚園があります。
日本でも幼稚園や保育園、保育士の数が足りないことが問題になっていますが、ソ連でも同じ問題に直面しています。もっとも全ての親が子供を幼稚園に入れるわけではないようです。
夫婦共働きが当たり前のソ連ですが、たとえ専門家がいる幼稚園であっても子供を他人に委ねたくはない、と考える人もいるようで。
ちなみにカリキュラムは身体を丈夫にする体操、社会性を育む、集団でのお遊戯、情操教育のための音楽やお絵描きといった具合で、日本とあまり変わらない感じです。
第370幼稚園は朝の7時30分から夜7時30分までの12時間保育体制。家庭環境によっては一日3食をここで食べる幼児もいるようで、給食制度も充実しています。ある日のメニューは
朝食・オートミール、ココア、バター&チーブのオープンサンド。
昼食・トリ肉入りスープ、カテージチーズのダペカンカ(ハンバーグ風に焼いたもの)、フルーツのコンポート、
昼寝のあとのおやつを挟んで、夕食・ケフィール(ヨーグルト)、ビーツのコロッケ、プラムとサワークリーム。
夕食が軽めですが、ロシアでは昼食が正餐で、これは幼稚園でも軍隊でも同じです。

さて、前回は省略してしまったのですが、この年からソ連を構成する15の共和国の特集記事が連載されてます。第1回はロシアでしたが、今回はウクライナ。
ロシア、ウクライナ、ベラルーシをまとめて東スラブと呼びますが、この3つの共和国の区別がキチンとできれば、いっぱしのソ連通です。自分は、ちょっと自信がないなあ。ともあれウクライナが美人の産地であることは知っています。あとはボルシチにニンニクが入ること、かな?
農地に恵まれており、一面のヒマワリ畑が有名。しかし、一番名高いのはサクランボの果樹園で、これがないとウクライナの農村とは言えないんだとか。
道沿いにはトーポリ(セイヨウハコヤナギ)が植えられ、広々としたステップが地平線まで広がります。遠くにはカルパート山脈、その前を流れる銀色のきらめきはドニエプル河、というのが典型的なウクライナのイメージなのだそう。えーと、よもや4号戦車と村を焼くドイツ兵を連想するような読者は、このブログにはおりますまいな?

最後は「ソ連アニメ映画の50年」という記事。
1月に「おーい、待てぇ!」を紹介しましたが、今回はチェブラーシュカとか、ノルシュテインとか、おなじみの名前も出てきます。
今では日本の「アニメ」も通用することが多いですが、本来のロシア語ではアニメーションは「Мультипликация=ムリチプリカーツィヤ)」と言います。これはラテン語の「ムリチプリカチオ」が語源で「増やす」という意味なのだそうです。一枚の絵を動かすためには沢山の動画が必要なわけで、この辺からきたのかもしれません。
ソ連におけるアニメの歴史は1920年代にさかのぼり、1922年にニュース映画「キノ・プラウダ」に短い風刺アニメを入れるようになったのが最初とされています。この頃はまだペーパーアニメだったようですが、1934年に「全ソ国立映画大学付属実験アニメーション工房」が設立されると、セルロイド製の動画用紙が使われ始めます。

さて、日本もそうですが、ソ連も最初の頃はディズニーの強い影響を受けていたそうです。しかし、アメリカ流のアニメが主流になることに危機感を覚えた当時の作家たちは、アニメでも哲学的メッセージやドラマ性、叙情性を追求すべきという方向に向かっていきます。
1936年6月10日、「全ソ・アニメ映画スタジオ設立に関する映画写真産業総局の指令」が公布。ここにソ連最初のアニメ専門会社が誕生します。ソ連じゃ、アニメ会社も物々しい手続きで設立されますな。
2枚目の画像はソ連の第一線で活躍するアニメーターたち。スタジオの雰囲気もそうですが、あちらのアニメ製作スタッフもなんとなく日本の同業者と似た雰囲気をかもしだしてます。

今回はこんな感じで。
ゲームラボの連載も引き続きよろしくです。

でわでわ~。


2013年3月13日水曜日

今日のソ連邦 第1号 1987年1月1日

今日のソ連邦、1987年の正月号です。
すっかり季節外れですが、ご容赦ください。実際、新年のご挨拶とかその手の記事はほとんどありません。 今回の特集はレニングラード。1987年は10月革命の70周年にあたる年なので、革命の舞台を総力で特集しています。

レニングラードはかつてのロシア帝国の首都。もちろん最初はサンクト・ペテルブルグという名前があったわけですが、革命直後にペトログラードとなり、最終的にレニングラードになりました。
ロシア革命の父レーニンの名を冠した名前です。現在はサンクト・ペテルブルグに戻りましたが、レニングラードの名前は、より大きな行政単位である「レニングラード州」に名残を留めています。
記事によると、そのレニングラードにある「キーロフ工場」の新型トラクター試運転の日に、ゴルバチョフ書記長がいきなり抜き打ち訪問したとあります。ここで書記長は自らトラクターの運転席にのぼり、テストドライバーに話しかけています。

「ブレーキは大丈夫だろうね?」
「もちろんですよ」
「じゃ、どうして動かさないんだね? エンジンをかけて走ってみようじゃないか」
トラクターは敷地内を一周して止まります。
「どうかね、具合は?」と書記長はたずねます。
「すばらしいですよ。ただざっくばらんに言わしてもらえば、たまだ少し検討しなきゃならん問題が残っています」
「じゃ、ひとつ検討して、良心に恥じないものを仕上げてもらいたい。それを我々は待っているよ」

こうして書記長の電撃的な工場訪問は終わります。この頃からゴルバチョフ氏の行動は加速度的にダイナミックなものになっていきます。

さて、メインの記事はというと、もっぱらレニングラードという都市の景観の美しさに焦点が当てられています。たしかに歴史的建造物が多く、美術館なども沢山ありますから、観光案内みたいな記事になるのは当然かもしれません。

「レニングラードの24時間」という記事では、この街のとある一日がかいつまんで紹介されています。

・午前1時。「パルチカ」パン工場でパンの出荷が始まる。レニングラードには14のパン工場があり、パン屋や食堂に一括納入しているのです。
・午前4時。500台の清掃車が町中に繰り出し、道路清掃とゴミ収集を実施。
・午前5時。市電、路線バス、トロリーバスの始発が動き出す。料金はすべて一律で距離に関係なく5コペイカ。
・午前7時20分~8時。母親たちが出勤前に、自分の子供を保育園や幼稚園に預けに来る。
・午前9時。学校の始業ベルが鳴る。
・午前11時。エルミタージュ美術館が開館。観光客を飲み込みはじめる。
・正午。ペトロパブロフスク要塞で「お昼のドン」。この伝統は17世紀にさかのぼる。ちなみにこの記事の書かれた1987年の時点で正午の空砲に使われているのは、1945年のベルリン攻防戦で実際にドイツの国会議事堂に砲火を浴びせた152ミリ榴弾砲だとのこと。さすが・・・物持ちがいい。
・午後2時。各地の工場から午前の生産分の出荷が始まる。レニングラードにはカラーテレビ、カメラ、靴、時計などの工場がある。午後7時30分。市内の劇場、歌劇場、コンサートホールなどの開演時間。
・午後11時。映画スタジオ「レン・フィルム」でプーシキンの伝記映画の撮影が終了する。

こんな感じでレニングラードの1日が終わります。
ちなみに左の写真はエルミタージュへの入場待ちの行列。ソ連で行列というと即、モノ不足を連想しますが、観光名所の行列なら胸を張って紹介できるというものです。もっとも西側の報道関係者の中には、こういう写真をトリミングして「商店に並ぶソ連市民」とキャプションを付けて配信する者もいたそうで、どこにも横着者はいるんだなあという感じ。

実際、ソ連の市民生活とはどんなものだったのか?  てなわけで、この号からは「これがわたしたちの暮らしです」というコーナーが始まっています。
図書館職員で主婦のダリア・ニコラエブナを案内役に、夫のセルゲイ(43)、娘のタチアナ(16)、息子のイーゴリ(10)をの家族を通して、ソ連の一般市民の生活を知ってもらおうという趣向。まぁ、ある程度のゴマカシや宣伝は承知の上で紹介します。

第一回目は「朝食・昼食・夕食」。朝はソーセージ、サワークリームやハチミツを塗った揚げパン。そして紅茶。夫セルゲイは新聞を読みふけり、「あー」とか「うー」としか言いません。この辺、日本と大差ない感じ。息子のイーゴリは学校に遅刻しそうで、揚げパンをジャンパーのポケットに突っ込もうとして怒られてます。
娘のタチアナはダイエット中らしく「紅茶だけでいい」と素っ気ない様子。というのも学校でも午前の給食というものがあり、15コペイカ(約35円)の給食費で、サラダ、カツレツ、白パン、牛乳またはココアが供されるとのこと。なるほどスタイルを気にする年頃としては問題です。

実際、この記事。食料不足の気配はカケラもありません。昼食は職場の食堂で食べるし、そこで夕食の食材を買うこともできるのです。ソ連人の平均カロリー摂取量は、世界平均より1000キロカロリーも多いのだとか。いや、町で見かけるスコープドッグのようなオバサンを見れば納得ですが。まぁ、脂質と糖質が圧倒的に多いのでしょうなあ。
今夜のディナーはオーブンで焼いたジャガイモ料理。一日の出来事をおしゃべりしたり、テレビで刑事ドラマ(もちろんミリツィアが主人公)を見たり。特に特別なことのない一家団欒です。

しかし、ちょっと意外だったのが、夕食が終わって夜も更けたという時に、娘のタチアナがプイッと出かけてしまうこと。息子のイーゴリは「お姉ちゃんはデートだよ」とこともなげ。親たちも「ふーん、そうなのか」です。16才の娘がデートと称して夜、堂々と出かけちゃうって、ソ連じゃ普通なんでしょかね?

最後はレニングラードとその周辺都市にある宮殿の修復にたずさわる技師たちの記事。金箔の修復技師たちが、彫像に黙々と金箔を貼っていきます。
この人物、かなり凝り性のようで、ツヤの加減が違う複数の金箔を用いて、髪の毛、肌、指の爪などにそれぞれ風合いの違いを表現しているのだそう。しかし、そんな彼らの努力も金箔の厚さを確かめようとコインで引っかく不心得者がいるせいで大変だとか。
マナーの悪い見学者はソ連も例外ではないようです。
サンクト・ペテルブルグにはまだ行ったことがないので、いつか訪れて、彼らの仕事の成果を見てみたいものです。

では、今回はこの辺で・・・お知らせです。

2013年3月から、三才ブックスさまの月刊誌『ゲームラボ』にてソ連ネタのコラムを連載することとなりました。もしかすると、この酔狂なブログが一因かもしれませんです。マンガ家の速水螺旋人さんとご一緒ですので、かなり濃くなりそう。まずは3月中旬発売の4月号からスタートです。 


是非是非よろしくお願いしまーす。

2013年2月21日木曜日

艦船模型の展示会 ~2013~

去年に引き続き、また艦船模型の展示会のお誘いを受けました。
このブログでもなにげに人気な「ミンダナオ会」さまの定例展示会です。
今回は「今、やってるから」といきなり電話で呼び出されました。もちろんカメラを持って出かけましたですよ。

今回は「戦艦 バトルシップ」の歴史を振り返るというもので、力作がところ狭しと展示されています。大きな船はやっぱり見栄えが良くて、迫力がありますね。


会場入口ではいきなり「ミサイル巡洋艦キーロフ」に出迎えられます。1/350のトランペッターのキット。ソ連海軍が建造した戦後最大の水上戦闘艦です。見ていると、ソ連艦艇の空撮で有名な柴田三雄氏の作品を思い出します。

キーロフの隣には我らが大日本帝国海軍の「戦艦金剛」。ずらりと並んでいるのは、ひとつひとつが水兵のフィギュアです。登舷礼を再現しています。見ているこちらが観閲艦というわけです。

拡大してみます。登舷礼というのは海軍の儀礼のひとつで、航行に影響しないすべての乗組員が甲板に整列して、相手に敬意を示すというものです。それにしても細かいです。1/350というと、ひとつひとつのパーツが大きくなる分、作り易そうな気もしますが、実際はそれだけ手を加えないとスカスカな印象になってしまうので、かなり手間がかかるとのことです。

会場内でかわいらしい軍艦を見つけました。アメリカの「モニター」です。南北戦争の頃に建造されました。それまで舷側に並べていた大砲を旋回砲塔に収めた画期的な設計で、その後のすべての軍艦のご先祖様にあたります。


こちらも歴史に名を残す軍艦。イギリスの「ドレッドノート」です。ドレッドノート級という言葉の元になった艦で、これより以前を「前ド級艦」、より大きなクラスを「超ド級艦」と呼びます。日本語では「弩(おおゆみ/いしゆみ)」の文字を当てています。

さて、超ド級戦艦と言ったら、やっぱり「戦艦大和」です。というか、艦船模型に手を出して、大和を作ったことがない人がいたら会ってみたいものですが。で、「ミンダナオ会」でも皆さんが作っています。でも、同じ艦を並べてもつまらないということで、同型艦の「武蔵」や、戦艦として完成した状態の「信濃」、果ては未成艦や計画艦に至るまで、日本海軍が考えた全ての大和型が勢ぞろいしました。
この大和はちょっと別格。いつも誘ってくださる軍事評論家の斎木伸生氏の作品です。なんと15年ぐらい前に組み立てたという「ニチモ」のキット。作りにくさ(?)は今とは比べ物にならないのに、これでもかとディティールアップされています。
斎木氏が「ブログに載せろ。褒め讃え、絶賛せよ」と言うので(笑)、さらに拡大。実際、1/700で、よくここまで作ってあるものです。
これまた後部甲板に搭載された水偵。コクピットの風防は、1/700であるにも関わらず、わざわざ透明プラ版の絞り出しで作ってあるんだとか。わかります?
こちらは大和に搭載されている17メートル内火艇。陸や僚艦との行き来に使われます。司令官や艦長などの偉い人が利用するので、小さくても立派な内装が施されていたそうです。これも1/700。わざわざスクリューまで作ってあります。展示用の土台の布地のケバが巨大ですが、それだけ小さいということです。
別の場所にあった大きなサイズの大和も。建造中の様子を写した有名な写真と似たようなアングルを狙ってみました。といっても、こちらは改装後なので、左右両舷の副砲は撤去されています。艦橋のレーダーは大和に欠かすことのできない特徴で、これさえ描いてあれば、どんなラクガキでも「戦艦大和」と主張できたものです。
最後はやっぱりソ連海軍。キーロフ級4人姉妹です。といっても、ロシアでは軍艦は男性名詞で、女性に例える習慣は無いらしいのですが。左から「アドミラル・ウシャコフ」(1番艦・キーロフ)、「ピョートル・ヴェリキー」(4番艦・ユーリー・アンドロポフ)、「アドミラル・ナヒーモフ」(3番艦・カリーニン)、「アドミラル・ラゼリェフ」(2番艦・フルンゼ)です。カッコ内はソ連時代の旧艦名です。実際には、この4隻が一堂に会することは無かったのですが、そんな光景をもし見ることができたなら、わたし鼻血出して失神してます。


えー、そんな感じで、ちょっとあれこれごまかした感じの2月でしたが、3月からはまた平常運転に戻したいです。その頃にはお知らせなんかもあるかもです。

でわでわ~。




2013年2月14日木曜日

バレンタイン・デー

晴れ後くもり。
気温、摂氏7度。
湿度52%。
北北西の風、風力2。

たけのこの里うめー。

2013年1月27日日曜日

今日のソ連邦 第24号 1986年12月15日 その2

前回の続きです。
ちょっと駆け足というか、手抜きなんですが、まぁ、更新は更新ということで。
この号では1917年前夜のロシア ~神秘主義と現実~という特集が組まれています。ロシア革命の前日譚というわけです。
めんどくさいので、中身を細かく書くことは控えますが、記事ではもっぱらラスプーチンにスポットをあて、彼に代表される神秘主義に耽った帝政ロシアの中枢が、いかに破滅への道を歩むかが、少々過激な言葉でつづられています。

ソ連では、とにかく帝政ロシアは悪の帝国。皇帝は気が弱く、権威のない人間で、その妃アレクサンドラはヒステリックな浪費家。ラスプーチンに至っては「怪物」「狂人」「汚らわしい奴」「偉大な道化師」「ドイツ諜報機関の便利なペダル」、さらには「終始酔っぱらっている無学な山師」と、言いたい放題。そういえばロシア語は悪口が豊富なことでも有名な言語で、激しい罵り方のことを「7階建ての罵詈雑言」などと呼ぶそうです。
しかし、興味深い記述もあります。

「昔から指摘されていることだが、
神秘主義の波が発生するのは、まず社会的危機の時期である。
これまで定着していた社会秩序や伝統的な見解が崩壊するとき、
反動勢力は蔵の中から古いものを動員する。これが神秘主義を発生させる元になる」

実は、ソ連社会にも、この言葉の意味を実感する時が訪れるのですが、それはまたの機会に。ちなみに画像の左上は、当時の風刺画です。うっすらと文字が書いてありますが、これは最上段から下に向かって

我々は諸君の上に君臨する(最上段)
我々は諸君を統治する(2段目)
我々は諸君をだます(3段目)
我々は諸君を撃つ(4段目)
我々は諸君のために食べる(5段目)
我々は諸君のために働く。我々は諸君を扶養する(最下段)

しかし、時がくれば民衆は怒り立ち、
背をぴんと伸ばし、そして皆で肩を寄せ合って
強い力で、このばかでかい代物をひっくり返すだろう

とあります。
とはいえ皇帝一家を処刑したことで、ソ連は長らくマイナスイメージを背負い込むことにもなります。ロシア連邦になって、皇帝とその家族の遺骸が発掘され、ミサが執り行われることになろうとは、想像もできなかったでしょうね。

次はモスクワ防衛戦45周年記念ということで「カチューシャの最初の砲撃」という記事。
ソ連軍の代名詞とも言える自走式多連装ロケットランチャー「カチューシャ」の開発者の物語です。開発するけど、すぐ死んじゃうので3ページで終わります(不謹慎)。
記事を要約するのは、ちょっともったいない気がしたので、まとめてアップします。いささか大きなサイズですが読んでいただけるとありがたいです。ノンブルがありますが、左、中央、右の順です。(アップロードし直しました)

最後の記事はアフガニスタンからソ連軍6個連隊が撤退を開始したというニュース。
まぁ、泥沼状態の戦場から旗を丸めて逃げ帰るわけですが、記事ではあくまでも「アフガニスタン国内の情勢が安定したのでソ連軍がアフガニスタン政府を支援する必要性がなくなった」というトーンでまとめられています。


写真は戦車の砲口にカバーを付けて撤退準備をする兵士。アフガンカと呼ばれる戦闘服姿ですが、祖国に帰れるとあってさすがに嬉しそうです。
ちなみにこの写真、なんと見開きです。今日のソ連邦で軍人や兵器が大きなサイズで掲載されることは珍しいのですが、あまり書くことがなかったからなのかもしれません。

次の写真にも「アフガニスタン政府の要請で同国に駐留していたソ連軍兵士」と、いささかくどいキャプションがついています。やはりアフガンカを着ていますが、襟に兵科章がついていません。戦闘服自体、なんとなくキレイに見えますし、襟のカラーも真っ白。帰国にあたって新品を支給されたのかもしれません。

下の写真はソ連に向かう戦車部隊。
地続きですから、自走して帰ります。国境を越えると、帰国歓迎式典の会場が準備されていて、そのままセレモニーに参加することになるのですが、息子の帰国を待ちきれない母親たちが待ち構えていて、そのまま連れ帰って行ってしまうことも珍しくなかったそう。
軍のお偉いさんが演説しているのに、櫛の歯が欠けるように兵士がいなくなっていき、ソ連の権威が地に落ちたことを証明してしまったのでした。

今回は手短になりましたが、この辺で。
では、また。

2013年1月21日月曜日

今日のソ連邦 第24号 1986年12月15日 その1

どもです。
世間ではすっかり正月気分も抜けましたが、この号の紹介が間に合えば、より新年の幕開けにふさわしいブログになったかもしれません。いや、去年のうちに1回余分に更新するだけでよかったはずなのですが。
でも、ロシアの旧正月(ユリウス暦)は1月14日だし、日本の旧正月も2月10日なんで、とりあえず改めまして、あけましておめでとうございます。

さて。表紙はモスクワで開催された日本産業総合展の様子。
三菱のパソコンはMSXの8ビット機種でしょうか。当時はココム(対共産圏輸出統制委員会)が、コンピュータの対ソ輸出を厳しく制限しており、16ビット以上の機種は輸出を許されませんでした。

この他にも会場ではヤマハの電子楽器やニッサンのフェアレディZ31、ソニーのビデオカメラとか、当時のモスクワ市民にはあまり縁がなさそうなモノがどっさり展示されていました。
 
当時のソ連の人々にとって、日本製品は憧れの的だったのですが、かといって、こうした見本市に誰もが自由に来ることはできなかったようです。
普通の一般市民に見えても、実際は当局から選ばれた、あるいは許可された人間だけが来場を許されていました。

西側との技術格差を広く実感されるのは好ましくないと思われていたからでしょうか。でも日本は比較的、優遇されている方で、なんでも「日本人は朝から晩まで働いているから、これだけのものを作りだせるのだ」という説明がしやすかったからなんだとか。
褒められてるんでしょうけど、素直に喜べない感じもしますな。

そんなわけで特集その1。
今回は年末号になるわけですが、新年の挨拶を兼ねています。今日のソ連邦は隔週発行なので、1月1日号の方が良さ気ですが、まぁ元日に読者の手元に届くわけもなく。
で、1987年は卯(うさぎ)年ということで、「おーい、待てぇ!」(Ну, Погоди! =ヌー、パガディー!)の作者であるヴィアチェスラフ・コチョーノチキンさんがわざわざ描き下ろしイラストと漫画を寄稿してくれてます。

でも・・・正直言って・・・微妙・・・・・・。

キモノ、ゲタ?、ツリ目、あと合掌って・・・。まぁ、日本人もロシア人を描く時はコサックダンス、ウォッカ、戦車ですから、偉そうなことは言えません。とはいえ、このゲタ・・・なんだか寿司に見えてくるなあ。

この「おーい、待てぇ!」は、ソ連で絶大な人気を誇るアニメです。
元々は児童向け雜誌「ゆかいな回転木馬」に掲載されていた漫画で、1969年にアニメ化されました。小さいけれど賢いウサギと大きいけど間抜けなオオカミの追いかけっこを描いた作品です。
最後は決まってオオカミがひどい目にあい、よれよれの姿になりながらウサギに呼びかけます。「おーい、待てぇ!」と。

当時のソ連でもキャラクターグッズが展開され、カレンダーやTシャツ、絵ハガキ、オモチャやバッジなどがあります。制作はメルヘンの家と呼ばれるアニメ・スタジオ「ソユーズムリトフィルム」。
かの国ではアニメーターも国家公務員なのであります(ドヤ)。


エピソード・ゼロとでも言うべきパイロット版。


こちらが正式な第1話。民警が無駄に正確だ・・・。

ロシア語タイトルで検索すれば、たくさんの動画を見ることができます。


特集その2は次回へ。
ではでわ~。

2013年1月6日日曜日

今日のソ連邦 第18号 1986年9月15日


どもです。
時間のあるうちに更新しておかないと。で、前回の続きです。
誰も覚えてないグッドウィル・ゲームスがまだ特集されてます。
表紙は平均台の競技。
オクサナ・オメリヤンチクというソ連の選手です。
ロシア語における女性の姓は語尾にaがつく、というのは日本でもそれなりに広まってきた法則ですが、彼女はオメリヤンチカではありません。結構、例外があるのですね。(追記…彼女はウクライナ人らしいです)
ちなみに彼女は女子体操個人総合で3位に入賞しました。


この大会では6つの世界新記録、8つの大陸新記録、90以上の各国の新記録が出たそうで、結果はそれなりだったようです。
ちなみに世界新記録の内訳は
・水泳男子個人800メートル自由形=7分50秒64 ウラジーミル・サリニコフ(ソ連)
・自転車競技男子団体4000メートル追い抜き=4分12秒830 A・クラスノフ、S・フメリニン、V・シプンドフ、V・エキモフ(ソ連)
・陸上競技7種女子=7148点 ジャッキー・ジョイナー=カーシー (米国※日本で有名なフローレンス・ジョイナーさんとは別人です)
・自転車競技男子スプリント200メートル計時=10秒224 ミハエル・ヒュブナー(東独)
・陸上競技男子棒高跳び=6メートル01 セルゲイ・ブブカ(ソ連)
・自転車競技女子スプリント200メートル計時=11秒489 エリカ・サルミャエ(ソ連)
となっております。(国籍は当時のもの)


では、次の特集。
ソ連で盛んな低温工学に関する記事です。相変わらず大雑把な環境で精密な作業をしている感じのソ連の研究所ですが、ホコリとか大丈夫なんかな。
さて、ここで言う低温工学とは「極低温工学」のことでマイナス153度C以下の温度のもとで起こる現象と、そうした環境を作る装置の開発に関する研究のことです。
ソ連ではピョートル・カピッツァなる人物がその嚆矢とされていますが、彼が最初の低温装置を開発したのは1939年から40年にかけて。まさに独ソ戦が始まろうとしている頃です。
装置で作られた液体窒素は冶金工学の分野に変革をもたらしたとあります。
高炉の場合、生産性は1.5倍になり、コークス消費量は25%の削減に成功。ソ連が早くから冶金の分野で発展をとげ、主に戦車の装甲などに生かされたことは有名な話ですが、低温工学の発展が支えていたのかもしれませんね。
なお、この記事では超伝導についても触れられていますが、日本ではこの手の話題は最近、聞かないなぁ。あと「人類は古くから低温の有効性について気づいていた。打撲症の治療で患部を冷やすのは昔から行われていることだ」ともありますが、それって低温工学なんでしょか? まぁ、例えとしてはわかりやすいですけど。

でも永久凍土はずっと温度が上の方なので、この記事には出てきません。ソ連=シベリア=寒い=永久凍土かと思ったんですが。
余談ですが、日本でも永久凍土の研究成果は日常的に利用されています。永久凍土は水を通さない性質があるので、地下鉄工事などでは冷却ボルトを土壌に打ち込み、地面を凍らせてしまいます。そうすることで坑道に水が吹き出す心配をせずに、トンネル掘削ができるというわけです。

お次はリトワ(現在のリトアニア共和国)で復活しつつある農村芸能についての話題。
失われつつある民族文化の復活というのは、どこでも行われていることですが、ソ連でも例外ではなかったようです。でもリトアニアの農村から急速に伝統芸能が廃れていった時期というのが、20世紀初頭って・・・年代をぼやかしてるけど、それって社会主義革命の頃じゃないのかなあ。
農村と農民を急激に集団化していったら、そりゃ伝統芸能も無くなるような気がするんですが、同志スターリン、どうなんでしょう?(命知らず)
それはそうと、この劇団、果たして今もリトアニアで存続しているのでしょうか?

最後は恒例のロシア語散歩。
今回は地名の隠れた意味です。
ソ連にはアクサイという名の川が4つあるそうです。
そのうちの二つは北カフカス、残りはカザフスタンとキルギス。同名の街も3つあり、キリギス、ボルゴグラード(旧スターリングラード)、ロストフ・ナ・ドヌーの近郊です。
どれもチュルク語系の名前で、アクは白、サイは川という意味なのだそう。
川の名前はその特長から名づけられることが多く、チーハヤ(音無川)、ブールナヤ(激流)、スラートカヤ(甘川)などがあります。典型的なのがアクサイのように色から命名される例で、ベーラヤ(白川)、クラースナヤ(赤川)、チョールナヤ(黒川)などがあります。
もっとも水質から来る色とは限らないようで、ベーラヤは濁流であることが多く、チョールナヤは流れがわからないほど穏やかな川か、冬でも凍結しない川のことを指します。白い雪景色をバックにすると、川が黒く見えるからだと言われています。
流れの状況や周囲の景色で命名されるということは、一本の大河が地域によって違う名前になるということでもあります。

湖はシベリアに何百とありますが、これらはすべてライダ(ヤクート語で湖沼)と呼ばれます。数が多いのでいちいち名前を付けてられないようです。ロシア平原にある湖も単純にオーゼロやオゼルコー、オゼルツォーなどと呼ばれます。
ちなみにバイカル湖はチュルク語で「豊かな湖」という意味。でも地元のブリヤート・モンゴル人は「ダライノール(聖なる湖)」と呼んでるそうです。エベレストとチョモランマの関係みたいなものでしょうか。

ソ連には大河が沢山ありますが、昔は運河がなかったため、船乗りたちは船を陸にあげて別の川に運んでいました。この時の曳き船作業をロシア語でボーロクと言います。ここからボロコラムスク、ボロークなどの街の名前ができました。
また、黒海からバルト海へつながる通商水路が、かつてスモレンスク市の近くにありました。船乗りたちはこの街に到着すると船底にタール(スモール)塗り直すのが恒例だったようで、スモレンスクの名前はここから来ています。
最後に「ウラル」の語源について。
エカテリーナ2世の時代、この地域一帯で大規模な農民蜂起が起こりました。口火を切ったのはヤイク川の近くに住んでいたヤイク・コサックで、指導者はエメリヤン・プガチョフ。有名な「プガチョフの反乱」です。しかし蜂起は失敗に終わり、プガチョフは処刑され、農民たちの多くが流刑されました。
エカテリーナ2世は、この血なまぐさい農民蜂起の記憶をぬぐい去るために、最初の蜂起の場所であるヤイツキー市とヤイク川の改称を命じます。
1775年、ヤイク川はウラル川になり、周辺の山々もウラル山脈となります。この名前はこの地域に住むマンシ族やバシキール族の言葉で、単なる「山」という素っ気ない名前なのだそうです。

今回は、こんな所で。
でわでわ~。