すっかり更新が途絶えております。
大変、申し訳ありません。
実は今年の秋にPC関係の環境を更新しまして、スキャナーが使えない状態です。そもそも古い機材で、あまり調子もよくありません。来年には新規機材を導入したいと考えてますので、少しは更新ペースも伸びるのではではないかと思います。
それ以外にも今年は色々忙しい日々でした。
現在は多少、落ち着いております。
さて、お仕事情報。
小学館さまの月刊サンデーGX誌上におきまして、「姫ガタリ」というコラムを連載させていただいてます。
神様ドォルズなどで有名な、やまむらはじめ氏が描く「姫ヤドリ」というマンガで設定協力の仕事をさせていただき、ずうずうしくも自分のページまで頂いてしまいました。
1970年代の東欧を舞台に展開するファンタスティックなアクションです。
毎月18日前後に発売されますので、是非お手にとってごらんくださいませ。
ではでは誠に勝手ながら、これをもって2017年に更新とさせていただき
また年末年始のご挨拶に代えさせていただきます。
「今日のソ連邦」はまだ手元に沢山あるので、なるべく頻繁に更新したいなぁ……。遠い目。
2017年12月29日金曜日
2017年9月18日月曜日
今日のソ連邦 1988年12月1日 第23号
どもです。とんでもなく間が開きましたが、何事もなくヌケヌケと生きております。まぁ、スキャナの調子が悪いとか、PCのOSを入れ替えたりとか、暑いとかミサイルとか台風とかありましたが。
さて、今回の今日のソ連邦はなんともキャッチーな表紙です。コスモリョート・ブランにエネルギア・ブースター。打ち上げ準備中の写真です。
何事も秘密主義のゾ産では、こうしたプロジェクトは成功してから発表するのが決まりでした。ましてシャトルは打ち上げるだけでは駄目で、無事に帰還しなくてはいけません。この段階での写真公開は極めて珍しいと言えます。もちろん無事に打ち上げは成功し、帰還も果たしました。しかも無人操縦で着陸までやってのけたのです。
ちなみに「ソ連のシャトルはアメリカのコピー」という記事を時折、目にすることがありますが、1965年に撮影された写真ではガガーリンと共に風洞モデルが写っており、ソ連でもかなり早い時期から研究されていたことがわかっています。
ソ連はそれまで「ソユーズ・ロケットの輸送効率はシャトルを上回っており、シャトルを開発する必要はない」と主張しており、この時まで実現しなかったのも、優先順位が低かったものと思われます。実際、ブランはこのたった一度きりの飛行でお蔵入りしてしまい、アメリカのシャトルも事故が続いて博物館送り。現役はソユーズ・ロケットのみという現実を見ると、米ソの違いなく、シャトルは泡沫の夢だったのだなぁと寂しい気もします。
特に打ち上げどころか、最低限のメンテナンスの予算すらないまま、建物と一緒に崩壊してしまったブランとエネルギアの哀れな姿は泣けてきます。
もっとも、この頃からソ連邦そのものの土台も徐々に傾き始めますから、宇宙開発どころじゃなくなってくるのですが。
本紙では1988年1~9月期のソ連経済全般の指数が掲載されています。どれも横ばいか増加で、住宅供給戸数が大幅なマイナスになっているぐらい。
しかし、「工業生産高」が1986年に対して1987年は3.6のプラス。1987年に対して1988年は4.3のプラスといった具合で具体的な金額はわからず、そもそも指数なら基準となる「1」はいつの話なのか、ということもわかりません。
もしかすると1917年を「1」としている可能性がマジでありますが。
まぁソ連国家統計委員会にかかれば、どんな悲惨な経済指数も大勝利の業績にすることができるらしいのですが、それでもいくつかの恐ろしい数字を見つけることができます。
上半期に国家検査総局によって検査された食肉の5.6%、ソーセージ製品の6.3%、マーガリンの10.9%、砂糖と乳製品の4.3%、魚・果実・野菜の缶詰の10%が不合格だったとか。食糧事情は一向に改善しないどころか、ますます悪化していくのが見て取れます。
他にも国民経済コンプレクスの活動指数なるものもありますが、たとえば機械製造コンプレクスの製品供給契約の遂行率が98%で、遂行できなかった企業の割合が47%。利潤計画の遂行が104.1%のプラスで、実質成長率は6.3%のプラス。
・・・・・・頭がおかしくなりそうです。
ちなみに労働者・職員の月平均貨幣賃金は1987年の201ルーブルに対して、214ルーブル。コルホーズ労働員のそれは147ルーブルに対して155ルーブルと発表されています。
次の話題はリトワ共和国から。現在のリトアニア共和国のことです。画像の街はスネチクス市。1970年代末期に建設された都市で、8キロほど離れたイグナリナ原発の従業員と建設関係者、その家族のために作られた街です。これはチェルノブイリ原発とプリピャチ市の関係と同じで、こうした歴史的・文化的背景を持たない原発城下町はソ連の至るところにありました。
イグナリナ原発はチェルノブイリと同じRBMK-1500型原子炉が2基稼働しており、3号基の建設もすすめられていました。しかし、チェルノブイリ原発事故(1986年)を受けてリトワ共和国閣僚会議は予算支出を一時停止します。(この記事の時点では建設延期というわけですが、翌89年に正式に建設中止が決定されます)
ちなみに1号機と2号機はそのまま操業を続け、ソ連崩壊後もリトアニア共和国の管轄下で電力を供給しますが、EU加盟交渉の過程で廃炉が決定。2004年と2009年に運転を停止しています。現在は隣接地にヴィザナギス原発の建設が予定されていますが、様々な情勢変化の中で決定は二転三転し、果たして本当に完成するのかは怪しい状況です。
次はクリスタルガラスの工芸品で有名な街の記事。モスクワの東230キロにある人口8万の小さな街の名は「グーシ・フリスタルヌイ」。ずばり「グーシ河畔のクリスタルガラス」という名前です。ロシアで最初にクリスタルガラスの生産を初めて街でもあります。
16世紀半ば、モスクワの商人アキム・マリツォフは、豊富な珪砂とアカマツの大森林に目をつけ、ここにガラス工場を建設しました。グーシ・フリスタルヌイはこの時、職人たちを住まわせた小さな集落に付けられた名前です。会社名がそのまま社宅になってるようなものでしょうか。といっても本格的なガラス製品はほとんど作られず、メインは馬車のランプ用のガラスでした。
19世紀に入るとロシア皇帝から製品に国章を付け、宮殿に納品することが認められます。そして1883年にシカゴの万国博で銅メダルを授与されると、一気に生産が拡大します。ソ連になっても貴重な外貨収入源として重視され、日本にも輸出されています。
次はソ連でも人気の日本文学について。今回は川端康成をめぐる日ソ共同シンポジウムとからめた記事です。この記事の原文は日本語で書かれており、執筆者のキム・レーホ氏はシンポジウムのソ連側代表団長です。プロフィールには「キム・レチュン」という名前も併記されており、朝鮮系ソ連人の方のようです。
ソ連では1981年から「現代小説の巨匠たち」というシリーズが刊行されており、川端康成の作品集はその一冊。ロシア語だけでなく、ウクライナ語、ラトビア語、リトワ語、エストニア語、アルメニア語、グルジア語、アゼルバイジャン語、キルギス語に翻訳された短編集も刊行されています。それらすべてを合わせた総部数は100万部に達するとのことで、読書好きのお国柄が伺えます。画像は様々な国で刊行されてる表紙や挿絵を集めたもの。「いかにも」なデザインから抽象的なものまで様々です。
シンポジウムでは川端文学の成り立ちや背景について専門的な議論がかわされましたが、翻訳の問題についても意見交換が成されました。たとえば雪国の冒頭。
原文では
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった」ですが、
記事ではこの文のロシア語訳を再び日本語に訳し直したものが紹介されてます。
「二つの地方のくにざかいにある長いトンネルを抜けて汽車は信号所に止まった。ここから雪国が始まる。夜が明るくなってきた」
となるのだそう。それまで国境は「コッキョウ」と読まれていましたが、「クニザカイ」と読むことで、その語義を理解するよう務めたとのこと。
しかし、その一方でキム氏は「この訳には時間の感覚が欠けている。国境の長く黒いトンネルを抜けたその瞬間に現れた雪国の世界の瞬間美が打ち消されてしまっている」とも批判してもいます。「信号機が止まった後にみる雪国の感覚はまた異なったもので、ここでは散文詩が蒸発してしまっている」と。なるほどニュアンスはだいぶ違います。どこの国でも翻訳は大変なのですね。
最後はアレクサンドル・グゼーエフの「ソ連極東の四季」という絵画。ロシアでは一年は夏から始まります。新学期も9月から。
ところでこのグゼーエフという人、別に巨匠というわけではなく、有名というわけでもありません。ハバロフスク出身のグゼーエフ(40)は同市の美術家同盟にも登録されていない人物。といってもアマチュアではなく、芸術生産工房でデザイナーとして働いています。商店のショーウィンドーをデザインし、看板のイラストを描き、先輩画家のためにカンバスの下塗りも引き受ける。要するに職人なわけです。
しかも本業以外で描いた絵は全部タダ。「タクシー運転手になった方が稼げる!」と主張する奥さんから離婚(これだけで党員じゃないこと確定)されてしまいますが、本人は黙々と絵を描いています。
グゼーエフはノボシビルスク州スズノ村出身。5才の時から絵を描き始め、中等学校高学年の時に地区文化会館の画家イワン・コフコの弟子になります。中学卒業後は徴兵されて極東の部隊に配属されますが、ここでも絵を描き続けます。それが将校たちの目に止まり、歩兵中隊ではなく将校クラブの美術主任に回されます。
除隊後も文化会館で「実入りの悪い仕事」に従事しますが、ある時、転機が訪れます。先輩の画家が病気になり、地元の郷土博物館に収めるはずの絵が描けなくなってしまったのです。グゼーエフは例によって無償で代役を引き受けますが、その絵がソ連共産党ハバロフスク地方委員会の財務部長ミハイル・シェミシャンの目に止まります。
彼の依頼で委員会の建物に飾る絵を描くわけですが、それがここで紹介されている「四季」というわけです。彼の絵はその後、キューバのラウル・カストロや中国の政府代表団にも贈られるほどに。ソ連ではちょっと珍しいタイプのサクセス・ストーリーです。
では、今回はこんなところで。
でわでわ~。
さて、今回の今日のソ連邦はなんともキャッチーな表紙です。コスモリョート・ブランにエネルギア・ブースター。打ち上げ準備中の写真です。
何事も秘密主義のゾ産では、こうしたプロジェクトは成功してから発表するのが決まりでした。ましてシャトルは打ち上げるだけでは駄目で、無事に帰還しなくてはいけません。この段階での写真公開は極めて珍しいと言えます。もちろん無事に打ち上げは成功し、帰還も果たしました。しかも無人操縦で着陸までやってのけたのです。
ちなみに「ソ連のシャトルはアメリカのコピー」という記事を時折、目にすることがありますが、1965年に撮影された写真ではガガーリンと共に風洞モデルが写っており、ソ連でもかなり早い時期から研究されていたことがわかっています。
ソ連はそれまで「ソユーズ・ロケットの輸送効率はシャトルを上回っており、シャトルを開発する必要はない」と主張しており、この時まで実現しなかったのも、優先順位が低かったものと思われます。実際、ブランはこのたった一度きりの飛行でお蔵入りしてしまい、アメリカのシャトルも事故が続いて博物館送り。現役はソユーズ・ロケットのみという現実を見ると、米ソの違いなく、シャトルは泡沫の夢だったのだなぁと寂しい気もします。
特に打ち上げどころか、最低限のメンテナンスの予算すらないまま、建物と一緒に崩壊してしまったブランとエネルギアの哀れな姿は泣けてきます。
もっとも、この頃からソ連邦そのものの土台も徐々に傾き始めますから、宇宙開発どころじゃなくなってくるのですが。
本紙では1988年1~9月期のソ連経済全般の指数が掲載されています。どれも横ばいか増加で、住宅供給戸数が大幅なマイナスになっているぐらい。
しかし、「工業生産高」が1986年に対して1987年は3.6のプラス。1987年に対して1988年は4.3のプラスといった具合で具体的な金額はわからず、そもそも指数なら基準となる「1」はいつの話なのか、ということもわかりません。
もしかすると1917年を「1」としている可能性がマジでありますが。
まぁソ連国家統計委員会にかかれば、どんな悲惨な経済指数も大勝利の業績にすることができるらしいのですが、それでもいくつかの恐ろしい数字を見つけることができます。
上半期に国家検査総局によって検査された食肉の5.6%、ソーセージ製品の6.3%、マーガリンの10.9%、砂糖と乳製品の4.3%、魚・果実・野菜の缶詰の10%が不合格だったとか。食糧事情は一向に改善しないどころか、ますます悪化していくのが見て取れます。
他にも国民経済コンプレクスの活動指数なるものもありますが、たとえば機械製造コンプレクスの製品供給契約の遂行率が98%で、遂行できなかった企業の割合が47%。利潤計画の遂行が104.1%のプラスで、実質成長率は6.3%のプラス。
・・・・・・頭がおかしくなりそうです。
ちなみに労働者・職員の月平均貨幣賃金は1987年の201ルーブルに対して、214ルーブル。コルホーズ労働員のそれは147ルーブルに対して155ルーブルと発表されています。
次の話題はリトワ共和国から。現在のリトアニア共和国のことです。画像の街はスネチクス市。1970年代末期に建設された都市で、8キロほど離れたイグナリナ原発の従業員と建設関係者、その家族のために作られた街です。これはチェルノブイリ原発とプリピャチ市の関係と同じで、こうした歴史的・文化的背景を持たない原発城下町はソ連の至るところにありました。
イグナリナ原発はチェルノブイリと同じRBMK-1500型原子炉が2基稼働しており、3号基の建設もすすめられていました。しかし、チェルノブイリ原発事故(1986年)を受けてリトワ共和国閣僚会議は予算支出を一時停止します。(この記事の時点では建設延期というわけですが、翌89年に正式に建設中止が決定されます)
ちなみに1号機と2号機はそのまま操業を続け、ソ連崩壊後もリトアニア共和国の管轄下で電力を供給しますが、EU加盟交渉の過程で廃炉が決定。2004年と2009年に運転を停止しています。現在は隣接地にヴィザナギス原発の建設が予定されていますが、様々な情勢変化の中で決定は二転三転し、果たして本当に完成するのかは怪しい状況です。
次はクリスタルガラスの工芸品で有名な街の記事。モスクワの東230キロにある人口8万の小さな街の名は「グーシ・フリスタルヌイ」。ずばり「グーシ河畔のクリスタルガラス」という名前です。ロシアで最初にクリスタルガラスの生産を初めて街でもあります。
16世紀半ば、モスクワの商人アキム・マリツォフは、豊富な珪砂とアカマツの大森林に目をつけ、ここにガラス工場を建設しました。グーシ・フリスタルヌイはこの時、職人たちを住まわせた小さな集落に付けられた名前です。会社名がそのまま社宅になってるようなものでしょうか。といっても本格的なガラス製品はほとんど作られず、メインは馬車のランプ用のガラスでした。
19世紀に入るとロシア皇帝から製品に国章を付け、宮殿に納品することが認められます。そして1883年にシカゴの万国博で銅メダルを授与されると、一気に生産が拡大します。ソ連になっても貴重な外貨収入源として重視され、日本にも輸出されています。
次はソ連でも人気の日本文学について。今回は川端康成をめぐる日ソ共同シンポジウムとからめた記事です。この記事の原文は日本語で書かれており、執筆者のキム・レーホ氏はシンポジウムのソ連側代表団長です。プロフィールには「キム・レチュン」という名前も併記されており、朝鮮系ソ連人の方のようです。
ソ連では1981年から「現代小説の巨匠たち」というシリーズが刊行されており、川端康成の作品集はその一冊。ロシア語だけでなく、ウクライナ語、ラトビア語、リトワ語、エストニア語、アルメニア語、グルジア語、アゼルバイジャン語、キルギス語に翻訳された短編集も刊行されています。それらすべてを合わせた総部数は100万部に達するとのことで、読書好きのお国柄が伺えます。画像は様々な国で刊行されてる表紙や挿絵を集めたもの。「いかにも」なデザインから抽象的なものまで様々です。
シンポジウムでは川端文学の成り立ちや背景について専門的な議論がかわされましたが、翻訳の問題についても意見交換が成されました。たとえば雪国の冒頭。
原文では
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった」ですが、
記事ではこの文のロシア語訳を再び日本語に訳し直したものが紹介されてます。
「二つの地方のくにざかいにある長いトンネルを抜けて汽車は信号所に止まった。ここから雪国が始まる。夜が明るくなってきた」
となるのだそう。それまで国境は「コッキョウ」と読まれていましたが、「クニザカイ」と読むことで、その語義を理解するよう務めたとのこと。
しかし、その一方でキム氏は「この訳には時間の感覚が欠けている。国境の長く黒いトンネルを抜けたその瞬間に現れた雪国の世界の瞬間美が打ち消されてしまっている」とも批判してもいます。「信号機が止まった後にみる雪国の感覚はまた異なったもので、ここでは散文詩が蒸発してしまっている」と。なるほどニュアンスはだいぶ違います。どこの国でも翻訳は大変なのですね。
最後はアレクサンドル・グゼーエフの「ソ連極東の四季」という絵画。ロシアでは一年は夏から始まります。新学期も9月から。
ところでこのグゼーエフという人、別に巨匠というわけではなく、有名というわけでもありません。ハバロフスク出身のグゼーエフ(40)は同市の美術家同盟にも登録されていない人物。といってもアマチュアではなく、芸術生産工房でデザイナーとして働いています。商店のショーウィンドーをデザインし、看板のイラストを描き、先輩画家のためにカンバスの下塗りも引き受ける。要するに職人なわけです。
しかも本業以外で描いた絵は全部タダ。「タクシー運転手になった方が稼げる!」と主張する奥さんから離婚(これだけで党員じゃないこと確定)されてしまいますが、本人は黙々と絵を描いています。
グゼーエフはノボシビルスク州スズノ村出身。5才の時から絵を描き始め、中等学校高学年の時に地区文化会館の画家イワン・コフコの弟子になります。中学卒業後は徴兵されて極東の部隊に配属されますが、ここでも絵を描き続けます。それが将校たちの目に止まり、歩兵中隊ではなく将校クラブの美術主任に回されます。
除隊後も文化会館で「実入りの悪い仕事」に従事しますが、ある時、転機が訪れます。先輩の画家が病気になり、地元の郷土博物館に収めるはずの絵が描けなくなってしまったのです。グゼーエフは例によって無償で代役を引き受けますが、その絵がソ連共産党ハバロフスク地方委員会の財務部長ミハイル・シェミシャンの目に止まります。
彼の依頼で委員会の建物に飾る絵を描くわけですが、それがここで紹介されている「四季」というわけです。彼の絵はその後、キューバのラウル・カストロや中国の政府代表団にも贈られるほどに。ソ連ではちょっと珍しいタイプのサクセス・ストーリーです。
では、今回はこんなところで。
でわでわ~。
2017年4月6日木曜日
今日のソ連邦 1988年10月15日 第20号
どもです。
4月に入って桜も満開……と思ったら花見をする時間もないまま過ぎ去っていこうしております。なにしろツィッターが手軽なもんで、こっちの方がついつい後回しになってしまいます。
でも、やる時はやらねば。
というわけで今回の「今日のソ連邦」は、リトワ共和国(リトアニア)のシャウリャイという街の特集が組まれております。2013年7月の更新でソ連の切手を紹介した時、リトワ共和国のシャウリャイ市750周年記念のものがありましたが、そのシャウリャイです。
伝説によると現在のタルショス湖のほとりに人々が住み着いたのが始まり。ある者は森で狩りをし、ある者は湖で魚をとっていました。最初は小さな集落が点在していただけですが、人口が増えて「町」が出現すると、名前をつける必要が出てきました。すると森で狩りをしていた射手たち(リトアニア語で“シャウレ”)が、武器で漁師たちを脅し、町の名を強引に「シャウリャイ」と決めてしまいます。
漁師たちは湖の向こう岸にある小さな地域だけを、自分たちの職業の名前で呼ぶことができました。ジュミナンテというその地名は、現在、シャウリャイ市の「漁師通り」という名前に名残をとどめています。
だけど、その湖でとれる魚は、とても美味なことで評判になり、その後、何世紀にもわたってポーランドやリトアニアの王侯貴族の食卓を彩ります。漁師たちは森の狩人よりはるかに有名で豊かになったとのこと。
そんなわけで昔の人はこう言いました。「人生は力だけですべてが決まるわけではない」と。
もちろん、これはあくまで地元の昔話のひとつ。別の伝説ではリトワ公ザガロに仕えた大弓部隊(こちらもシャウレ)に敬意を評して町の名前になったというものもあります。
余談ですがリトアニアがまだソ連じゃなかった1920年代、ユスタス・パレツキスという男が「新しい言葉」という雜誌を出版しておりました。この雜誌、「シャウリャイ市の幽霊の生活から」という奇妙なコーナーを連載しており、そこには市内で幽霊を見た・出会ったという記事が満載。目撃地点の詳細な住所も書かれていたそうです。
ちなみに、このユスタス・パレツキス。後にリトアニア・ソビエト社会主義共和国の初代大統領になります。なるほど「人生は力だけですべてが決まるわけではない」と。
カラーページはそんな町の様子。コスプレしてる女性たちは「湖水まつり」に登場する水の妖精。ピノキオの壁画は預金を呼びかけるスローガン。利息は鼻みたいにぐんぐん伸びるんですかね? でもそれウソじゃ? ステンドグラスはシャウリャイ市750周年を記念して映画館に取り付けられたもの。1236年にリボニア騎士団の侵略から町を守った“サウレの戦い”が描かれています。
続くカラーページはシャウリャイ市でもっとも大きな工場の内部。テレビを生産しています。しかし、記事では、この工場が大問題を抱えており、ソ連の社会でもっとも重要視される生産計画(ノルマ)を達成できなかったことが述べられています。
事の発端は、180人もの女性従業員が一斉に辞表を提出したこと。そうでなくとも人手不足だった工場はパニック状態に。とうとう操業以来初となる生産ノルマの達成不能という事態を引き起こしてしまいます。
これはつまり、ここで働くすべて労働者が基本給に加算される割り増し金を受け取れず、企業の社会的発展基金(従業員の福祉目的)には1カペイカも入らず、さらに納期までに製品を出荷できなければ多額の罰金が課せられるということを意味します。
原因はあまりにもムダが多いこと。とっくに時代遅れで、ソ連市民でさえ見向きもしないテレビが延々と生産されていました。部品メーカーは納期も中身もデタラメで、不要な部品、使えない部品ばかりが届く始末。従業員は頻繁に異動するため、熟練工が育たず、新人労働者の賃金は低いまま。にも関わらず、監督官庁からの指示は高圧的で「いかなる犠牲を払っても生産第一!」「儲かろうが、儲かるまいが、生産せよ!」の繰り返し。
つまるところ現場の工場には何の権限もなく、労働者は自社製品に対する誇りを失い、品質やブランドに無関心になっていったのでした。まぁ、末期状態のソ連ではよくある話なのですが、こういった話があからさまに語られるようになったのがグラスノスチ(情報公開)であり、これをなんとかしようというのがペレストロイカなわけです。
そのペレストロイカを必死で進めているゴルバチョフ書記長ですが、画像はソ連お得意のイラストなのか写真なのかよくわからない肖像画。ゴルバチョフ氏といえば、頭のアザがトレードマークですが、見事に消されています。もっとも、ゴルバチョフ氏はこの手の修正を好まない人だったらしく、後に広く普及したカラー写真は修正されてないものになりました。
次はロシア人が大好きなキノコの話題。キノコは炒めてもよし、マリネや塩漬けにしてもよし、前菜にもなるし、スープにもソースにもなる。プディングにしてもいいし、トマトやカボチャの詰め物にしてもいい!
今では東京の各地でも本格的なロシア料理が食べられるようになりましたが、それでも残念なのがキノコのバリエーションの少なさ。
東京に住むロシア人たちも、この点では祖国ロシアに圧倒的なアドバンテージがあると考えているようです。もちろん日本でも地方にいけば様々な種類のキノコに出会えるのですが、流通量の少なさはお話しになりません。
もちろんロシア人もお店で買ったりすることは少なく、ソ連時代はシーズンになると森に入ってせっせと集めていました。ロシア人たちは「キノコにとってどんな土壌が一番ふさわしいのか、どんな木のそばにどんなキノコが生えるのか」を熱心に学びます。たとえばヤマドリタケはアカマツやトウヒ、ナラの木の近くの乾燥した場所。キンチャヤマイグチはヤマナラシとシラカバが生えている林の草地。ハラタケ科のハニー・アガリクは腐ってボロボロになった古い木の切り株に、といった具合。
ロシア人がキノコ狩りに熱狂するのは、味もさることながら、お小遣い稼ぎになるから。雨の多い8月から9月にかけて、森を管理する共同組合は農村に出張所を置き、キノコの買い取りをするのだそうです。
「休暇の時は出費がつきもの。でも、美しい場所で休養しながら、同時に家計も補充できますよ!」とはプスコフ州(レニングラードから150キロ)のとある共同組合のキャッチコピー。実際、どれほど稼げるのかというと、1985年に記録されたプスコフ州の収穫量第一位は、なんと600キログラム。4人家族の一家がクルマで運び込んできたそうです。買い取り額はキロ1ルーブルで、合計600ルーブル。これは平均賃金の3カ月分になります。なるほど、必死になるものです。
さてキノコの記事に毒キノコの話題は出ませんでしたが、こっちは強烈な記事。
なんと「今日のソ連邦」にKGB議長のインタビュー記事が掲載されました。1988年9月2日付けのプラウダの記事の抄訳です。
画像を拡大しても見ることができますが、大した長さでもないので、この際、書き出します。
翻訳の問題もありますが、意味不明な独特な言い回しもあるので、日本で官僚答弁を駆使しなければならない人も参考になるかも?
タイトルは「ペレストロイカと国家保安委員会の活動」 ~チェブリコフ議長に聞く。
■KGBの主要任務
・・・あなたはソ連国家保安委員会(KGB)に長いこと勤務され、1982年から議長となられた。KGBの主要な任務はなにか?
「まず、我々の組織名の中心にある“保安”という言葉にご注目いただきたい。わが社会主義国家、わが社会の安全を保障することこそが、我々の主要な任務だ。我々はもちろん、たとえばソ連軍とは別の領域で安全を確保している。まずは外国の秘密諜報部の諜報・破壊活動、ならびに我が国の現体制の破壊と撲滅をめざす国内の反ソ・反社会主義分子の敵対行動を適宜に摘発、阻止することに全力を注いでいる。KGBの主要任務のひとつは国境警備だ。
ソ連の法によって、祖国への背信行為、スパイ活動、テロ行為、破壊工作、密輸、特に大規模な為替操作規則違反、その他一連の国事犯に関する事件の捜査がKGBに課せられている。
KGBにはまた、我が国におけるあらゆる種類の秘密通信への西側秘密諜報部の無線電子盗聴に対する科学技術的防衛、秘密通信の安全・管理の組織的原理の作成が課せられている。
以上に挙げたことがKGBに課せられた任務のすべてではなく、任務は他にも沢山あることは言うまでもない。そのうちのいくつかについては、この対談の途中で触れると思う」
・・・全国でペレストロイカが実施されている。全国党協議会はこれをさらに徹底させる目標を立てた。これに関して、KGB内ではペレストロイカはどんな状態にあるのか、お聞きしたい。
「KGB指導部は根本的に重要な問題、つまり社会にできつつある新しい環境、新しい政治的・精神的空気のもとで働く各職員の能力を常に視野の中に据えている。
プロとしての能力と法律知識を維持し、各職員によるソビエト法の精神と条項の無条件厳守を保障するためにいろいろなことが実施されている。
KGBの各機関には、基本的には高等教育を受けたものが入る。彼らは労働の学校、ソ連軍での勤務、社会活動、党活動を体験してきている。
将来の働き手たちは職員として編入された後、KGB機構の学校の一つで専門教育と法律教育を受けてから国家保安機関の各支部に派遣される」
・・・社会で進行している民主主義のいっそうの拡大のプロセスは、あなたの始動する機関の活動にどのように反映しているか?
「民主主義と公開性の拡大の過程では、我々の活動が社会の民主主義と公開性の拡大のプロセスと有機的に結び合わさった時に初めて、現在の条件のもとで我々に課せられている任務を十分に果たすことができるものと確信している」(この人が何言ってるのかわかりません! 誰か解説して!※ブログ主より)
・・・KGBと公開性……この二つの言葉を並べるのはちょっと変なような気がしないでもない。この点はどのようにお考えか?
「わたしはこの質問を待っていた。何もおかしなことはないと言える。我々は公開性を、勤労者と積極的に結びつく形態の一つと見なしている。なぜなら、我々の活動を国民に理解してもらいたければ、もっと我々の活動を公開しなければならないからだ。
国の社会・政治生活のすべての分野で根本的な改革が行われている今、現段階の国家保安機関の活動を明らかにする補助的手段として、保安機関員の活動の様々な面を世論に知らせることが必要になってきたと思う。
■資本主義国の諜報・破壊工作
・・・現在、資本主義諸国の秘密情報機関の活動について言えることは何か? ソ連の国家安全保障のために具体的にはなにが行われているか?
「国際情勢のある程度の温暖化にも関わらず、帝国主義の一定の層は対決の方針を捨てていない。彼らはソ連に対する軍事的優位の実現、ソ連共産党の内外政策の信用の失墜、わが国家・社会体制の破壊と弱体化の方針を推進し続けている。資本主義諸国の秘密情報機関はお互いに密接に連携し合いながら事に当たり、対ソ諜報・破壊活動を強めている。
・・・具体例を挙げることはできないか?
「我々は、外国の秘密情報機関がスパイを使って、我が国の国防省、KGB、対外経済関係省、外務省、その他一連の官庁、重要な国民経済施設に浸透しようとしている確かな資料を手にしている。この2年半の間にKGB各機関は、スパイ活動をしていた資本主義諸国秘密情報機関の有害なエージェント20人あまりを摘発・起訴している。
1986~87年には、外交官の身分にそぐわない活動によりNATO諸国の外交官および新聞記者50人あまりがソ連から退去させられ、そのうちの何人かはスパイ行為の現行犯で拘留された」
・・・秘密情報機関の技術手段の利用について言えることは?
「米国をはじめとする一連の資本主義諸国の諜報機関は、なかでも現代宇宙・電子工学の分野における最新の成果を積極的に活用している。ソ連国内でも米国秘密情報機関の活動には、スパイ活動と科学技術進歩との共生が見られる。ここ数年間にKGB各機関によって、米国やその他の西側の情報機関が我が国の機密に浸透するために使用してきたきわめて高価なで複雑な電子装置が少なからず取り除かれた。次が典型的な例だ。
ソ連の沖合60㎞のオホーツク海の海底では、ソ連通信省の海底ケーブルから情報を盗聴するための米国製諜報装置を積み込んだ重量6トンの深海用大型コンテナ2個が発見され、除去された。この諜報装置システムには、ケーブルからの放射をキャッチする特別装置、盗聴した情報を記録する電子プログラム・システム、多回線磁気記録ブロック約100個、環境を放射能汚染しかねないプルトニウム238を使った原子力電源を備えていた。このシステムは海底ケーブルを伝って送られるすべての情報を一年間にわたって記録するように設計されていた。またビーコンも備えられており、米国情報機関はこれによって、収録した情報を回収するためにこれを素早く発見することができた。
先進資本主義諸国においてだけでも、それらの秘密情報機関はここ3年半の間にソ連市民や代表部に対して6000件あまりの挑発行為をしている。これには爆破も、放火も、ありとあらゆる暴力行為もある。ソ連人の懐柔、帰国拒否の勧誘、誘拐、不法逮捕・監禁が常習的になってきた。きわめて危険な性質を帯びてきたのは、ソ連市民に対して、人間の神経状態に影響を与える特別の薬剤を用いるようになったということだ」
■国境警備の現状
・・・ソ連国境の警備はKGBの管轄なので、読者に代わってお聞きしたい。現在の国境の情勢は?
「基本的には安定している。安定が続いているのは、ソ連の進めている外交方針に大いにあずかっている。共通する国境の警備に関しては社会主義諸国と共同行動を進めている。最近、中華人民共和国との国境関係は大いに改善された。フィンランドとの国境状態は社会制度の異なる国家間の善隣と相互理解の模範となっている。
その反面、ある人々がソ連国境近くに緊急の火種を作り出そうとしているのを見過ごすことはできない。
外国諜報機関のスパイを合法・非合法に我が国に潜入させ、テロリスト、民族主義組織の密使を潜入させ、スパイ・破壊工作資金、過激な行動を煽る宣伝材料を送り込もうとする試みが続いている。たとえば化学物質、放射性物質、麻薬などの物資を非合法に国内に持ち込んだり、ソ連経由で運搬したりする、特に危険な形の密輸が後を絶たない。これはソ連の国際的責任の立場からも許すことはできない。
国際テロリズムの急増を考慮するなら、国境警備隊の活動で現在とくに重要なのはテロリストをソ連に侵入させ、破壊・テロ工作資金をソ連に送り込もうとする試みを防ぐことだ。
国境警備隊は税関と共同で密輸との闘いを進めている。ソ連国境では、年間平均総額1400万~1600万ルーブルの密輸品数十万点が差し押さえられている。ここ数年、ソ連国境警備隊員たちは国境通行検問所以外の地点で国境を突破しようとした武装密輸業者たちを一度ならず取り押さえている。このようなケースだけでも、この5年間に2トンを超える麻薬が押収された。
・・・ペレストロイカはと国境警備隊に影響を与えたか? その活動に何か新しいことが生じたかどうか?
「もちろんだ。ここではペレストロイカの眼目は、国境警備の信頼性を維持しながら、たえず拡大し続けている我が国の国際関係のためのもっとも有利な条件を作り出すことだ。国境通行検問所の数は増えており、通関手続きは簡素化され、人と貨物の通過を早めるためのその他の措置が講じられている。
社会主義諸国との国境では、これらの国の国境警備隊員と共同の旅客・輸送機関監視制度が定められ、国境に接する地域住民の通行手続きは簡素化されている。
国境地帯におけるソ連国民の活動制限を撤廃するため、ソ連の関係機関と共同で国境地帯縮小の措置が講じられている。国境地帯への乗り入れと異動の手続きが簡素化されている。このプロセスは続くだろう」
以上で、インタビューはおしまいです。1988年のインタビューということですが、なんか今も昔もあまり変わってないような。
最後はソ連の美術館が収蔵するロシアの名画を紹介するページ。ヴァシリー・ペロフの「トロイカ」です。画家の本名はワシリエフですが、彼はペロフと名乗ります。ロシア語でペンを意味するペローをもじったのだそう。きれいな字を書くことからつけられたあだ名でした。
題名の「トロイカ」は本来は三頭立ての馬車のこと。ここでは何を意味するかは明らかです。1866年に描かれた時には「水を運ぶ徒弟たち」という副題が付けられていたそうです。
この頃はちょうど農奴制度が廃止された頃なのですが、それで農民の生活が楽になるわけでなく、親たちは養えない子供たちを人身売買同然で都市部へと送り出していました。
ペロフはこの絵を描くにあたってモデルを探していたと言います。
街頭や市場を歩き回り、ようやくイメージに会う少年を見つけることができました。ペロフはすぐに一緒にいた母親にお金を差し出し、絵のモデルになって欲しいと頼みますが、相手は村から祭を見に来た普通の農婦だったのでびっくりし、画家が何を頼んでいるのか理解できなかったといいます。そこでペロフは自分のアトリエに母子を連れていき、人買いでないことを納得してもらったのだとか。
それから4年。絵はとっくに完成し、パーヴェル・トレチャコフの私設画廊に売れていました。後のトレチャコフ美術館です。そんなある日、ペロフは留守中にひとりの農婦が何度か訪ねてきたとの報告を受けます。それはモデルになった少年の母親でした。
ペロフは農婦を見つけ出しますが、その表情を見てすべてを悟ります。少年は病気でこの世を去っていたのでした。農婦はすべての財産を売払い、なけなしのお金で「トロイカ」を売ってもらおうとペロフの元を訪ねてきたのでした。しかし、すでに絵は売れた後です。ペロフはトレチャコフの画廊に農婦を連れていきました。彼女は「トロイカ」の前にひざまずき、長い間、祈りを捧げていたそうです。ペロフは彼女のために少年の小さな肖像画を描き、贈ったそうです。
今回はこんなところで。
でわでわ~。
4月に入って桜も満開……と思ったら花見をする時間もないまま過ぎ去っていこうしております。なにしろツィッターが手軽なもんで、こっちの方がついつい後回しになってしまいます。
でも、やる時はやらねば。
というわけで今回の「今日のソ連邦」は、リトワ共和国(リトアニア)のシャウリャイという街の特集が組まれております。2013年7月の更新でソ連の切手を紹介した時、リトワ共和国のシャウリャイ市750周年記念のものがありましたが、そのシャウリャイです。
伝説によると現在のタルショス湖のほとりに人々が住み着いたのが始まり。ある者は森で狩りをし、ある者は湖で魚をとっていました。最初は小さな集落が点在していただけですが、人口が増えて「町」が出現すると、名前をつける必要が出てきました。すると森で狩りをしていた射手たち(リトアニア語で“シャウレ”)が、武器で漁師たちを脅し、町の名を強引に「シャウリャイ」と決めてしまいます。
漁師たちは湖の向こう岸にある小さな地域だけを、自分たちの職業の名前で呼ぶことができました。ジュミナンテというその地名は、現在、シャウリャイ市の「漁師通り」という名前に名残をとどめています。
だけど、その湖でとれる魚は、とても美味なことで評判になり、その後、何世紀にもわたってポーランドやリトアニアの王侯貴族の食卓を彩ります。漁師たちは森の狩人よりはるかに有名で豊かになったとのこと。
そんなわけで昔の人はこう言いました。「人生は力だけですべてが決まるわけではない」と。
もちろん、これはあくまで地元の昔話のひとつ。別の伝説ではリトワ公ザガロに仕えた大弓部隊(こちらもシャウレ)に敬意を評して町の名前になったというものもあります。
余談ですがリトアニアがまだソ連じゃなかった1920年代、ユスタス・パレツキスという男が「新しい言葉」という雜誌を出版しておりました。この雜誌、「シャウリャイ市の幽霊の生活から」という奇妙なコーナーを連載しており、そこには市内で幽霊を見た・出会ったという記事が満載。目撃地点の詳細な住所も書かれていたそうです。
ちなみに、このユスタス・パレツキス。後にリトアニア・ソビエト社会主義共和国の初代大統領になります。なるほど「人生は力だけですべてが決まるわけではない」と。
カラーページはそんな町の様子。コスプレしてる女性たちは「湖水まつり」に登場する水の妖精。ピノキオの壁画は預金を呼びかけるスローガン。利息は鼻みたいにぐんぐん伸びるんですかね? でもそれウソじゃ? ステンドグラスはシャウリャイ市750周年を記念して映画館に取り付けられたもの。1236年にリボニア騎士団の侵略から町を守った“サウレの戦い”が描かれています。
続くカラーページはシャウリャイ市でもっとも大きな工場の内部。テレビを生産しています。しかし、記事では、この工場が大問題を抱えており、ソ連の社会でもっとも重要視される生産計画(ノルマ)を達成できなかったことが述べられています。
事の発端は、180人もの女性従業員が一斉に辞表を提出したこと。そうでなくとも人手不足だった工場はパニック状態に。とうとう操業以来初となる生産ノルマの達成不能という事態を引き起こしてしまいます。
これはつまり、ここで働くすべて労働者が基本給に加算される割り増し金を受け取れず、企業の社会的発展基金(従業員の福祉目的)には1カペイカも入らず、さらに納期までに製品を出荷できなければ多額の罰金が課せられるということを意味します。
原因はあまりにもムダが多いこと。とっくに時代遅れで、ソ連市民でさえ見向きもしないテレビが延々と生産されていました。部品メーカーは納期も中身もデタラメで、不要な部品、使えない部品ばかりが届く始末。従業員は頻繁に異動するため、熟練工が育たず、新人労働者の賃金は低いまま。にも関わらず、監督官庁からの指示は高圧的で「いかなる犠牲を払っても生産第一!」「儲かろうが、儲かるまいが、生産せよ!」の繰り返し。
つまるところ現場の工場には何の権限もなく、労働者は自社製品に対する誇りを失い、品質やブランドに無関心になっていったのでした。まぁ、末期状態のソ連ではよくある話なのですが、こういった話があからさまに語られるようになったのがグラスノスチ(情報公開)であり、これをなんとかしようというのがペレストロイカなわけです。
そのペレストロイカを必死で進めているゴルバチョフ書記長ですが、画像はソ連お得意のイラストなのか写真なのかよくわからない肖像画。ゴルバチョフ氏といえば、頭のアザがトレードマークですが、見事に消されています。もっとも、ゴルバチョフ氏はこの手の修正を好まない人だったらしく、後に広く普及したカラー写真は修正されてないものになりました。
次はロシア人が大好きなキノコの話題。キノコは炒めてもよし、マリネや塩漬けにしてもよし、前菜にもなるし、スープにもソースにもなる。プディングにしてもいいし、トマトやカボチャの詰め物にしてもいい!
今では東京の各地でも本格的なロシア料理が食べられるようになりましたが、それでも残念なのがキノコのバリエーションの少なさ。
東京に住むロシア人たちも、この点では祖国ロシアに圧倒的なアドバンテージがあると考えているようです。もちろん日本でも地方にいけば様々な種類のキノコに出会えるのですが、流通量の少なさはお話しになりません。
もちろんロシア人もお店で買ったりすることは少なく、ソ連時代はシーズンになると森に入ってせっせと集めていました。ロシア人たちは「キノコにとってどんな土壌が一番ふさわしいのか、どんな木のそばにどんなキノコが生えるのか」を熱心に学びます。たとえばヤマドリタケはアカマツやトウヒ、ナラの木の近くの乾燥した場所。キンチャヤマイグチはヤマナラシとシラカバが生えている林の草地。ハラタケ科のハニー・アガリクは腐ってボロボロになった古い木の切り株に、といった具合。
ロシア人がキノコ狩りに熱狂するのは、味もさることながら、お小遣い稼ぎになるから。雨の多い8月から9月にかけて、森を管理する共同組合は農村に出張所を置き、キノコの買い取りをするのだそうです。
「休暇の時は出費がつきもの。でも、美しい場所で休養しながら、同時に家計も補充できますよ!」とはプスコフ州(レニングラードから150キロ)のとある共同組合のキャッチコピー。実際、どれほど稼げるのかというと、1985年に記録されたプスコフ州の収穫量第一位は、なんと600キログラム。4人家族の一家がクルマで運び込んできたそうです。買い取り額はキロ1ルーブルで、合計600ルーブル。これは平均賃金の3カ月分になります。なるほど、必死になるものです。
さてキノコの記事に毒キノコの話題は出ませんでしたが、こっちは強烈な記事。
なんと「今日のソ連邦」にKGB議長のインタビュー記事が掲載されました。1988年9月2日付けのプラウダの記事の抄訳です。
画像を拡大しても見ることができますが、大した長さでもないので、この際、書き出します。
翻訳の問題もありますが、
タイトルは「ペレストロイカと国家保安委員会の活動」 ~チェブリコフ議長に聞く。
■KGBの主要任務
・・・あなたはソ連国家保安委員会(KGB)に長いこと勤務され、1982年から議長となられた。KGBの主要な任務はなにか?
「まず、我々の組織名の中心にある“保安”という言葉にご注目いただきたい。わが社会主義国家、わが社会の安全を保障することこそが、我々の主要な任務だ。我々はもちろん、たとえばソ連軍とは別の領域で安全を確保している。まずは外国の秘密諜報部の諜報・破壊活動、ならびに我が国の現体制の破壊と撲滅をめざす国内の反ソ・反社会主義分子の敵対行動を適宜に摘発、阻止することに全力を注いでいる。KGBの主要任務のひとつは国境警備だ。
ソ連の法によって、祖国への背信行為、スパイ活動、テロ行為、破壊工作、密輸、特に大規模な為替操作規則違反、その他一連の国事犯に関する事件の捜査がKGBに課せられている。
KGBにはまた、我が国におけるあらゆる種類の秘密通信への西側秘密諜報部の無線電子盗聴に対する科学技術的防衛、秘密通信の安全・管理の組織的原理の作成が課せられている。
以上に挙げたことがKGBに課せられた任務のすべてではなく、任務は他にも沢山あることは言うまでもない。そのうちのいくつかについては、この対談の途中で触れると思う」
・・・全国でペレストロイカが実施されている。全国党協議会はこれをさらに徹底させる目標を立てた。これに関して、KGB内ではペレストロイカはどんな状態にあるのか、お聞きしたい。
「KGB指導部は根本的に重要な問題、つまり社会にできつつある新しい環境、新しい政治的・精神的空気のもとで働く各職員の能力を常に視野の中に据えている。
プロとしての能力と法律知識を維持し、各職員によるソビエト法の精神と条項の無条件厳守を保障するためにいろいろなことが実施されている。
KGBの各機関には、基本的には高等教育を受けたものが入る。彼らは労働の学校、ソ連軍での勤務、社会活動、党活動を体験してきている。
将来の働き手たちは職員として編入された後、KGB機構の学校の一つで専門教育と法律教育を受けてから国家保安機関の各支部に派遣される」
・・・社会で進行している民主主義のいっそうの拡大のプロセスは、あなたの始動する機関の活動にどのように反映しているか?
「民主主義と公開性の拡大の過程では、我々の活動が社会の民主主義と公開性の拡大のプロセスと有機的に結び合わさった時に初めて、現在の条件のもとで我々に課せられている任務を十分に果たすことができるものと確信している」(この人が何言ってるのかわかりません! 誰か解説して!※ブログ主より)
・・・KGBと公開性……この二つの言葉を並べるのはちょっと変なような気がしないでもない。この点はどのようにお考えか?
「わたしはこの質問を待っていた。何もおかしなことはないと言える。我々は公開性を、勤労者と積極的に結びつく形態の一つと見なしている。なぜなら、我々の活動を国民に理解してもらいたければ、もっと我々の活動を公開しなければならないからだ。
国の社会・政治生活のすべての分野で根本的な改革が行われている今、現段階の国家保安機関の活動を明らかにする補助的手段として、保安機関員の活動の様々な面を世論に知らせることが必要になってきたと思う。
■資本主義国の諜報・破壊工作
・・・現在、資本主義諸国の秘密情報機関の活動について言えることは何か? ソ連の国家安全保障のために具体的にはなにが行われているか?
「国際情勢のある程度の温暖化にも関わらず、帝国主義の一定の層は対決の方針を捨てていない。彼らはソ連に対する軍事的優位の実現、ソ連共産党の内外政策の信用の失墜、わが国家・社会体制の破壊と弱体化の方針を推進し続けている。資本主義諸国の秘密情報機関はお互いに密接に連携し合いながら事に当たり、対ソ諜報・破壊活動を強めている。
・・・具体例を挙げることはできないか?
「我々は、外国の秘密情報機関がスパイを使って、我が国の国防省、KGB、対外経済関係省、外務省、その他一連の官庁、重要な国民経済施設に浸透しようとしている確かな資料を手にしている。この2年半の間にKGB各機関は、スパイ活動をしていた資本主義諸国秘密情報機関の有害なエージェント20人あまりを摘発・起訴している。
1986~87年には、外交官の身分にそぐわない活動によりNATO諸国の外交官および新聞記者50人あまりがソ連から退去させられ、そのうちの何人かはスパイ行為の現行犯で拘留された」
・・・秘密情報機関の技術手段の利用について言えることは?
「米国をはじめとする一連の資本主義諸国の諜報機関は、なかでも現代宇宙・電子工学の分野における最新の成果を積極的に活用している。ソ連国内でも米国秘密情報機関の活動には、スパイ活動と科学技術進歩との共生が見られる。ここ数年間にKGB各機関によって、米国やその他の西側の情報機関が我が国の機密に浸透するために使用してきたきわめて高価なで複雑な電子装置が少なからず取り除かれた。次が典型的な例だ。
ソ連の沖合60㎞のオホーツク海の海底では、ソ連通信省の海底ケーブルから情報を盗聴するための米国製諜報装置を積み込んだ重量6トンの深海用大型コンテナ2個が発見され、除去された。この諜報装置システムには、ケーブルからの放射をキャッチする特別装置、盗聴した情報を記録する電子プログラム・システム、多回線磁気記録ブロック約100個、環境を放射能汚染しかねないプルトニウム238を使った原子力電源を備えていた。このシステムは海底ケーブルを伝って送られるすべての情報を一年間にわたって記録するように設計されていた。またビーコンも備えられており、米国情報機関はこれによって、収録した情報を回収するためにこれを素早く発見することができた。
先進資本主義諸国においてだけでも、それらの秘密情報機関はここ3年半の間にソ連市民や代表部に対して6000件あまりの挑発行為をしている。これには爆破も、放火も、ありとあらゆる暴力行為もある。ソ連人の懐柔、帰国拒否の勧誘、誘拐、不法逮捕・監禁が常習的になってきた。きわめて危険な性質を帯びてきたのは、ソ連市民に対して、人間の神経状態に影響を与える特別の薬剤を用いるようになったということだ」
■国境警備の現状
・・・ソ連国境の警備はKGBの管轄なので、読者に代わってお聞きしたい。現在の国境の情勢は?
「基本的には安定している。安定が続いているのは、ソ連の進めている外交方針に大いにあずかっている。共通する国境の警備に関しては社会主義諸国と共同行動を進めている。最近、中華人民共和国との国境関係は大いに改善された。フィンランドとの国境状態は社会制度の異なる国家間の善隣と相互理解の模範となっている。
その反面、ある人々がソ連国境近くに緊急の火種を作り出そうとしているのを見過ごすことはできない。
外国諜報機関のスパイを合法・非合法に我が国に潜入させ、テロリスト、民族主義組織の密使を潜入させ、スパイ・破壊工作資金、過激な行動を煽る宣伝材料を送り込もうとする試みが続いている。たとえば化学物質、放射性物質、麻薬などの物資を非合法に国内に持ち込んだり、ソ連経由で運搬したりする、特に危険な形の密輸が後を絶たない。これはソ連の国際的責任の立場からも許すことはできない。
国際テロリズムの急増を考慮するなら、国境警備隊の活動で現在とくに重要なのはテロリストをソ連に侵入させ、破壊・テロ工作資金をソ連に送り込もうとする試みを防ぐことだ。
国境警備隊は税関と共同で密輸との闘いを進めている。ソ連国境では、年間平均総額1400万~1600万ルーブルの密輸品数十万点が差し押さえられている。ここ数年、ソ連国境警備隊員たちは国境通行検問所以外の地点で国境を突破しようとした武装密輸業者たちを一度ならず取り押さえている。このようなケースだけでも、この5年間に2トンを超える麻薬が押収された。
・・・ペレストロイカはと国境警備隊に影響を与えたか? その活動に何か新しいことが生じたかどうか?
「もちろんだ。ここではペレストロイカの眼目は、国境警備の信頼性を維持しながら、たえず拡大し続けている我が国の国際関係のためのもっとも有利な条件を作り出すことだ。国境通行検問所の数は増えており、通関手続きは簡素化され、人と貨物の通過を早めるためのその他の措置が講じられている。
社会主義諸国との国境では、これらの国の国境警備隊員と共同の旅客・輸送機関監視制度が定められ、国境に接する地域住民の通行手続きは簡素化されている。
国境地帯におけるソ連国民の活動制限を撤廃するため、ソ連の関係機関と共同で国境地帯縮小の措置が講じられている。国境地帯への乗り入れと異動の手続きが簡素化されている。このプロセスは続くだろう」
以上で、インタビューはおしまいです。1988年のインタビューということですが、なんか今も昔もあまり変わってないような。
最後はソ連の美術館が収蔵するロシアの名画を紹介するページ。ヴァシリー・ペロフの「トロイカ」です。画家の本名はワシリエフですが、彼はペロフと名乗ります。ロシア語でペンを意味するペローをもじったのだそう。きれいな字を書くことからつけられたあだ名でした。
題名の「トロイカ」は本来は三頭立ての馬車のこと。ここでは何を意味するかは明らかです。1866年に描かれた時には「水を運ぶ徒弟たち」という副題が付けられていたそうです。
この頃はちょうど農奴制度が廃止された頃なのですが、それで農民の生活が楽になるわけでなく、親たちは養えない子供たちを人身売買同然で都市部へと送り出していました。
ペロフはこの絵を描くにあたってモデルを探していたと言います。
街頭や市場を歩き回り、ようやくイメージに会う少年を見つけることができました。ペロフはすぐに一緒にいた母親にお金を差し出し、絵のモデルになって欲しいと頼みますが、相手は村から祭を見に来た普通の農婦だったのでびっくりし、画家が何を頼んでいるのか理解できなかったといいます。そこでペロフは自分のアトリエに母子を連れていき、人買いでないことを納得してもらったのだとか。
それから4年。絵はとっくに完成し、パーヴェル・トレチャコフの私設画廊に売れていました。後のトレチャコフ美術館です。そんなある日、ペロフは留守中にひとりの農婦が何度か訪ねてきたとの報告を受けます。それはモデルになった少年の母親でした。
ペロフは農婦を見つけ出しますが、その表情を見てすべてを悟ります。少年は病気でこの世を去っていたのでした。農婦はすべての財産を売払い、なけなしのお金で「トロイカ」を売ってもらおうとペロフの元を訪ねてきたのでした。しかし、すでに絵は売れた後です。ペロフはトレチャコフの画廊に農婦を連れていきました。彼女は「トロイカ」の前にひざまずき、長い間、祈りを捧げていたそうです。ペロフは彼女のために少年の小さな肖像画を描き、贈ったそうです。
今回はこんなところで。
でわでわ~。
2017年2月19日日曜日
艦船模型の展示会 ~2017~
毎年恒例のミンダナオ会展示会です。今回のテーマは「冷戦期の艦船」。
第二次世界大戦末期のヤルタ会談から1989年のマルタ会談における
冷戦終結宣言までを世界各国の海軍艦艇で振り返るという企画です。
といってもメインはやはり米ソ超大国の海軍がメインです。
※2017年2月20日、追記編集。 |
まずはひときわ目立つフルハル・モデルから。ウォーターラインに対する用語
で船底からスクリュー、舵なども再現した艦船模型のことです。まずはアオシ マのミンスク。多くの艦船模型ファンから惜しまれつつ閉店したNAVY BARの オーナーの手になる作品です。自分もこいつをじっくり眺めながらグラスを傾 けた思い出があります。 |
ミンスクがソ連空母の代表格ならアメリカはもちろんエンタープライズです。
キットは近代化工事の最終仕様をキット化したものです。日本にも馴染みの 深い空母でしたが、現在は退役してしまいました。でもアメリカを代表する 有名な艦名ですから、また別の艦に受け継がれることでしょう。 |
冷戦時代とは、すなわち核の時代です。中でも戦略ミサイル原潜は極めて
重要な戦力でした。これは「レッドオクトーバーを追え!」で有名なタイフーン
級。ソ連海軍ではアクラ型と呼んでいました。ドラゴンモデルのキットで 艦首の潜舵を動かすと魚雷発射管から魚雷がヒョコヒョコ飛び出すギミック がついています。ちなみにミサイル発射の場面はオリジナル。 |
なお実際のタイフーン級はスクリューを囲む巨大なシュラウドリングを備えて います。しかし、当時はソ連艦艇の喫水線下の形状なんてわかるはずもあ りませんでした。 |
とはいえ! モノには限度があります。これはミンダナオ会に展示 されたものではなく、記憶を頼りにネットで見つけた画像ですが、 スクラッチではありません。一体、何の資料を見たのか見当もつ きませんが、こんな謎の物体がくっついたタイフーン級の模型が 販売されていました。うーん・・・謎・・・・・・。 |
続いてはタイフーン級のライバル、アメリカのオハイオ級です。ソ連に比べ
ると、なんてすっきりしたデザインなのでしょう。乗ったことはありませんが、
居住性も給料もこっちの方がいいに違いありません。 |
これはソ連初の原子力潜水艦。西側ではノヴェンバー級として知られてい
ます。アメリカに追いつくため、かなりムチャな設計をしており、お世辞にも 安全性が高いとは言えませんでしたが、ソ連海軍の潜水艦として、初めて 北極点に到達するなどの偉業を達成しました。この航海の艦長だったウラジ ーミル・チェルナヴィンは、後にソ連最後の海軍司令官となります。 |
一方、アメリカもアメリカで血迷っていました。潜水艦から発射できる有翼
の巡航核ミサイル「レギュラス」を開発し、配備していたのです。冷戦とは
全面核戦争の一歩手前の状況に過ぎず、よくもまぁ、こんな時代を人類は 無事にくぐり抜けてきたものです。 |
ミサイル巡洋艦キーロフ級。全部で4隻作られましたが、現在は4番艦の
ピョートル・ヴェリキーだけが稼働しています。ステルス性を考慮した設計で
レーダー反射面積(RCS)は駆逐艦程度しかないと言われています。 |
こちらは日本の海上自衛隊。護衛艦「あまつかぜ」です。ミサイルの百貨店
みたいなキーロフ級とは比較になりませんが、日本で最初に艦対空ミサイル
装備した画期的なフネです。 |
アメリカの原潜シーウルフです。静粛性、速力、潜航深度など、あらゆる面
で世界最強という高性能艦ですが、お値段の方も世界最強で、結局3隻で
建造が打ち切られてしまいました。現在は廉価版のヴァージニア級が量産 されています。 |
ソ連のアクラ級潜水艦。アメリカのシーウルフは元々この艦に対抗するため
に計画されました。それほどまでに、かつての常識を覆す高性能潜水艦だっ
たのです。とはいえ、昨今の予算不足で実戦任務についてる艦は少ない
という話です。
|
ちなみにアクラ級には楽しいギミックが満載です。これは救命イカダの展開シ ステム。パネルが外れると、中から折り畳まれた救命イカダが自重で落下。 海の上で自動的に膨らむという仕掛け。まぁ、これが機能するためには艦が 浮上していることが前提になるわけですが。 |
浮上できない場合の脱出方法がこちら。司令塔が分離
してレスキューチェンバーになります。これ全員乗れるの かしらん。 |
これは船体内部に収納されている小型の補助推進装置。レッドオクトーバー
の無音推進装置を連想してしまいますが、おそらく湾内を低速で航行する時
など、舵の効きが悪い場合に使うのではないかと推測されます。
|
ではウォーターラインの展示に移りましょう。日本でもなじみ深いアメリカの
空母ミッドウェーです。右が改装前。左が改装後。中央エレベーターを廃止 して側面に移動するも、まだ足りずに増設。甲板をアングルドデッキに変更 して、スチームカタパルトを装備。新造した方がいいんじゃないかと思う 魔改造ぶりです。 |
実際、戦後間もなくの空母は第二次世界大戦当時のシルエットと現代の 空母の中間点という感じで実に面白いものです。レーダーなどの電子装置 類も大袈裟。艦載機も渋くて泣けてきます。 |
対するソ連空母のアドミラル・クズネツォフ。飛行甲板のド真ん中に対艦
ミサイルを搭載し、カタパルトではなくスキージャンプで艦載機を離陸させる
など、独自の設計思想と言えば聞こえいいものの、やはり当時のソ連海軍 の苦しい内部事情が色々と伺える艦です。 |
やはりソ連海軍は水上打撃部隊こそ花形。というわけでキーロフ級1番艦
と4番艦の比較。実際の艦の真上を飛ぶのは大変危険なので、それが自国
向けの宣伝目的だとしても滅多にありません。まして他国の航空機となると 警告射撃とかを受けます。そんなわけで模型の展示会ならではの眺め。 同型艦と言いつつも搭載兵器には細かな違いがあることがわかります。 |
もちろんトチ狂った兵器もあるわけでして。このエコー級ミサイル潜水艦は
その代表格。まぁ、前掲のレギュラスの後継者と言えなくもないのですが、
ミサイルは排気を逃がすために大きくエグれた船体とか箱型のランチャーが
丸ごと持ち上がるシステムとか、いろいろ斜め上。
|
さらに狂ってるのが誘導方式。模型でも再現されてますが、実物の画像。
なんとセイル前部がクルリと反転して中からレーダーが出現。ミサイル 本体が目標をとらえるまで、誘導電波出しっ放しで浮上していなければ
ならないのです。いやぁ……(エコーだけに)。
|
まぁ、血迷っていたのは米ソだけではありません。これはフランス海軍の
防空巡洋艦コルベール。ミサイル無し。バルカン砲もなし。艦砲射撃のみ
で対空戦闘を行うという漢のフネです。「加減しろ莫迦!」と。 |
次の試練は朝鮮戦争。敗戦した日本は軍備を放棄し、戦争を否定したはず でしたが、大国の思惑でその理念は早くも覆ります。1950年に朝鮮半島に 派遣され、機雷掃海にあたったのが日本特別掃海隊。この時、戦死者1名を 出していますが、これは第二次世界大戦最後の戦死者なのか、冷戦時代の 最初の戦死者なのか、考えさせられます。 |
さらに日本人と核兵器の関係はヒロシマ・ナガサキで終わりませんでした。
1954年、ビキニ環礁での核実験で生じた死の灰を浴びたのが第五福竜丸。
海外でも「ラッキー・ドラゴン・ナンバー5」で知られています。そしてドラゴンは ゴジラと名前を変えて日本に上陸してきました。なお、実物の第五福竜丸は 東京・江東区の夢の島公園に展示・一般公開されています。 |
冷戦は、言葉だけでは、なんとなくおとなしい印象がありますが、現実は
あと一歩でホンモノの全面核戦争を引き起こすところでした。1962年の
キューバ危機です。展示ではキューバにミサイルを持ち込もうとしたソ連の 貨物船レニンスキー・コムソモールを見ることができました。白いシートの 下にミサイルが隠されています。 |
そんな中、トンキン湾事件が起こります。1964年、ベトナム沖で情報収集を
していたアメリカの駆逐艦マドックスが北ベトナムの哨戒艇から攻撃を受け
て反撃。これを機にアメリカはベトナム戦争へ本格介入していきます。 |
1968年にはプエブロ号事件が発生。北朝鮮沖で情報収集をしていたアメリカ
の情報収集艦プエブロ号が朝鮮人民軍海軍に拿捕されてしまいます。今でも
プエブロ号はピョンヤンに係留され、米帝に対する朝鮮人民の勝利の象徴と して観光名所になっているそうです。 |
冷戦とは、あくまでも便宜上の言葉です。ガチの戦闘が無かった日は、事実上
ありません。1971年、第三次印パ戦争の最中、インド海軍のフリゲート「ククリ」
が、パキスタン海軍のダフネ級潜水艦「ハンゴール」に撃沈されます。これは 戦後初の潜水艦による戦果で、ハンゴールは現在もパキスタンで記念艦として 保存・展示されているそうです。 |
「日本が戦争を避けても、戦争が日本を避けてくれるとは限らない」
その言葉が現実になったのが山城丸の事件です。1973年、イスラエルと
シリアの間で発生したラタキア沖海戦の流れ弾に当たった貨物船山城丸 が炎上。犠牲者は出ませんでしたが、船は喪失しました。ちなみに攻撃 に参加したイスラエル海軍ののエイラートは、後にエジプト海軍の攻撃で 沈没。これは対艦ミサイルによる最初の戦果として知られています。 |
その頃、日本では海上自衛隊が試練に直面していました。これまた1974年
に発生した第十雄洋丸事件です。東京湾内で衝突事件が発生しタンカーが
炎上。どうしようもないので海上自衛隊が砲撃と魚雷によって撃沈するという ものでした。問題はタンカーがなかなか沈まなかったこと。 |
艦船模型でふりかえる冷戦時代は以上です。なんか回を追うごとに画像の
枚数が増えているのですが、それでも沢山の力作を紹介しきれませんでした。
ちなみにこの画像は革命記念日のスペシャルペイント・・・というのはウソで
架空の設定です。でも、今のロシア海軍ならやりかねないかも。
今回はこんなところで。 でわでわ~。 |