今日のソ連邦、1987年の3号です。
表紙を飾るのはウズベク共和国で当時建設中だった太陽炉のコンセントレーター(集光装置)。手間の白と黄色のタワーに集熱機、すなわち太陽炉の本体があるというわけです。
ところで、ウズベク共和国に限ったことではありませんが、ソ連崩壊後に独立した中央アジアの国々の多くが「~スタン」という国名に変更されています。
これはペルシャ語で「~の場所」とか「~の土地」という意味だそうで、国家の独立性を強調しているものでしょう。といってもウズベキスタンの公用語がペルシャ語というわけではないんですけどね。
もちろん、このブログではソ連時代の表記に基づいて記述しております。
話を戻しますと、この太陽炉はウズベク共和国の首都タシケントに近い、テンシャン山脈の麓に建設されたもので、正式名称を「研究・生産冶金コンプレクス」と言います。
「コンプレクス」とは複合施設のことでソ連の科学・産業面のニュースでは、非常に多く目にする言葉です。日本だと「コンプレックス=劣等感」みたいなイメージがありますが、これもそもそも誤用で、精神・心理学においてもコンプレクスは「感情複合」を意味し、特に劣等感に限定された用語ではありません。
また脱線しました。
この冶金コンプレクスは太陽光線を集中させることで炉内に摂氏3500度もの高温を作り出せる施設です。焦点が合う場所に材料を置くだけで自然に溶けてくれるので「るつぼ」が不要で、環境にも特別な制約がありません。さらに焦点距離からズラすだけですぐに冷却装置に放り込むこともできるので、瞬間的な冷却が可能。
これらの利点によって高純度の合金を大量に作ることができる他、高熱にさらされる宇宙船の再突入カプセルに使われる材料などを試験することもできます。
鍵となるのは当然、太陽。
この地方は年間300日以上の晴天日があり、一日あたり8時間から10時間の連続稼働が可能と見積もられています。
巨大な帆を思わせる集光装置の鏡面は面積1000平方メートル。この鏡に向かって、62枚のヘリオスタットが配置されています。ヘリオスタットは1枚あたり50平方メートル。たえず太陽を追尾し、光エネルギーを集光装置へと反射させます。
この集光装置も一般的にはパラボラ型が主流ですが、ここでは円錐形の複雑な形をしたものが採用されています。集光の効率がよく、構造が簡単で、施設全体を軽量化できるメリットがあります。ただ、光の入射角度には慎重な計算が必要で、このタイプはウズベクの他はフランスに1基あるのみなのだそうです。
なお、この太陽炉の現在の様子はこちらで見ることができます。
案の定というか、やっぱり使われてる気配がないなあ・・・。
そのウズベク共和国ですが、実は地震国でもあります。というわけで、この号ではソ連における地震予知についての記事もあります。
かつてはソ連の科学者たちも、詳細なデータを集めて分析すれば、かなりの確率で地震が予知できるはずだと思っていた時期があったそうです。
しかし、時間とともに科学者たちの態度は懐疑的になっていき、現在では地震予知の局限化が主流になっているとのこと。つまり地震が発生しそうな場所を特定し、最大震度を見積もり、次の地震発生までの時間を予測するというもの。
ソ連は、このやり方で効果が上がっていると主張していますが、要するに危険な場所を避けて都市計画やインフラ整備をするというもので、広い国土面積があるからこそできる芸当です。もちろんソ連だって耐震建築やら、さまざまな防災計画などが研究・立案されています。それがどれぐらいの効果を上げたかは、別の機会にご紹介するとしましょう。
ところで、今回はやたらウズベク共和国関連の記事が多いです。
こちらは共和国を紹介する記事。中央の女性たちが手にしているのはウズベクで「白い黄金」と呼ばれる綿花。ウズベク社会主義共和国の国章にも使われています。
農業国で野菜や果物に恵まれ、ブドウの品種だけでも150種類におよび、炊き込みご飯のピラフ(プロフ)、ウドンによく似たラグマンなどを食べます。
次の特集は、いきなりロシアに戻ってプーシキンです。1987年はプーシキン没後150年ということで、ソ連でも大きな盛り上がりを見せました。というか、ロシア人のプーシキン好きは異常。
決闘で受けた傷がもとで亡くなったというのもドラマチックで、ロシア人を引きつけてやまないのでしょうか。
ちなみにプーシキンの玄孫にあたる人は、日本文化の研究家なのだそう。セルゲイ・クリメンコさんという方で、大祖国戦争ではモスクワの高射砲部隊に所属。終戦後はモスクワ外語大学の日本語学科に入学し、その後はモスクワ放送の日本部で定年まで務めたのだとか。
意外なところで意外なつながりがあるものです。
もっとも、プーシキンの子孫は200人を越えてるそうなので、ひとりぐらいはこういうこともあるのかな。
最後はソ連宇宙開発の父「セルゲイ・コロリョフ」の特集。
世界初の人工衛星スプートニクを打ち上げ、世界初の有人宇宙船ボストークを打ち上げ、死の直前までソ連の宇宙開発をリードし続けた人物で、こちらは生誕80周年です。
このコロリョフという人、相当にアクの強い人物であることが知られています。さすがのソ連でもこの点を認めないわけには行かないようで、このあたりが普通の人物伝とは違うところです。
コロリョフはつねに一番でいたがった人であり、功名心が強く、高圧的だった。
それは全てに・・・話し方、動作、歩き方にさえ感じられた。
だが、私たちが世界古典文学の無数の例によって、
否定的な資質としてステレオタイプ化している功名心も、高圧的な態度も、
コロリョフの個性の中にあっては、それを否定的なものと呼べないように奇妙に変形しているのだった。
うむ。イヤな奴だけど褒めないわけにはいかない筆者の苦悩が伝わってくる文章です。
ただ、彼は手にした権力を個人的な目的のために使ったわけではなく、あくまでも計画を前進させるために行使したのは事実のようです。プロジェクトを進めるためには徹底的にトップダウンの方式を貫かないと、ソ連では何も進まないことを自覚していたのでしょうか。
もちろん権限には責任がともないます。
彼はしばしば責任の最高の措置を自ら引き受けた。
負荷にぴったり100パーセント耐える、すなわち強度に余力が無いユニットに関して
赤えんぴつで書類に断固「可!」と書けるのは彼だけだった。
さらにはこんなこともあったそうです。
月探査機の着陸システムを検討する会議で、地質学者や天文学者も交えての議論。
月の表面は固いのか、柔らかい塵に覆われているのか、
それによって仕様も設計も部品の強度もすべてがちがってきます。
当時はまだアポロが着陸する前なので、誰も月面がどうなっているのかはわかりません。
会議はすっかり行き詰まってしまいます。
もし柔らかければ、探査機は塵の中に沈み、固ければ着陸装置は壊れてしまう。
誰もが恐れて、書類にサインしようとしません。
しかし、コロリョフは、出るはずのない結論をいつまでも待つような人物ではありませんでした。
「それでは、月は固いという前提で機械を設計しよう」
「でも……」と専門家のひとりがさえぎった。
「誰がそれを請け合うことができるのですか?」
「私だ」とコロリョフは簡単に答えて、白い紙を取ると勢いよく書いた。
“月は固い。セルゲイ・コロリョフ ”
今回はこんなところで。
ゲームラボのコラムも引き続き、よろしくお願いしまーす。
でわでわ。