2012年9月28日金曜日

今日のソ連邦 第14号 1986年7月15日

9月ももう終わりですが、なんとか2度目の更新。
いきなり宇宙飛行士が表紙ですが、今回は宇宙開発ネタではありません。詳しくは後段に讓るといたしまして、またアレコレとネタを拾い読み。

まずは「アジア平和の船」がナホトカを訪れたとの記事。
なんとなくピースボートを連想してしまいますが、代表の岩井章氏で調べると、小田実氏とか、ベ平連つながりの人たちが企画したもののようです。ソ連極東・北朝鮮・中国をめぐるというもので、230人という大所帯。

今日のソ連邦では、日本とのさまざまな交流が記事になるのですが、よほどの有名人か、要人でもからんでない限り、一般のマスコミが取り上げることはまずありませんでした。

対するソ連も、労働争議や平和団体のデモなどは、どんなに規模の小さなものでも報道していたそうで、当時のソ連の人たちの多くが「日本はデモと争議の国」と思っていたそうです。まぁ、広い意味でのイベントと思えば、当たらずとも遠からずか?


記事の集会の様子も楽しげで、どこかお祭のようです。
ハチマキ・腕章・横断幕の三点セットで「団結、がんばろう!」のシュプレヒコールは日本の労働組合の定番。


メガネのフレームとかに時代を感じてしまいます。写ってる人には悪いですが、雰囲気的に秋葉原で荒稼ぎしているカラシニコフによく似た名前のアイドル軍団のファンに見えなくもありません。

ちなみに塩とパンの歓迎はロシアの伝統。捧げられたら、ほんの少し口に入れて、お礼を言うのが礼儀なのです。

続く話題は、またしても第27回ソ連共産党大会ネタ。
トリアッチ市のボルガ自動車工場(VAZ)で働くバラショフさん一家の物語です。残念ながら一家の記事は割愛。
なかなか立派な工場の画像。レトロなゲームセンター。そして、どことなく野暮ったいマネキン。といっても、これは服を売ってるわけではなく、ホームメイドのお店。
モノ不足のソ連では、型紙の本が結構なベストセラーで、女性たちはオシャレのために腕を奮ったのです。

広い敷地に並んでるクルマは大衆車のジグリ、その輸出モデルのラーダ。在モスクワの日本人たちにも、安いジグリを愛用する人たちが少なくなかったとか。ただ、一度故障すると、困るのがスペアパーツ。これが大都市モスクワでも手に入らなくて、大変苦労したそう。

そこで編み出された裏技が、隣国フィンランド。ソ連はフィンランドにクルマを輸出していたのですが、それには一定数のスペアパーツも用意する必要があり、ソ連では手に入らないパーツも、フィンランドのディーラーにテレックスを打てば、すぐに調達できたそうです。

ちなみにキャプションにあるニーワとは「ラーダ・ニーヴァ」のこと。
右の広告は、今日のソ連邦ではなく、80年代の東京モーターショーで配布されていたものです。ニーヴァは当時のソ連車の中では例外的に評価が高く、今も日本で時々見かけます。

でもUAZやGAZとはちがい、軍とはあまり縁がないメーカーのようで。
ロイ・シャイダー主演の「対決」という映画があって、そこにソ連軍っぽく塗装したニーヴァが出てたのですが、これが似合わないなんてもんじゃありませんでした。
逆に考えると、ニーヴァはソ連の基準では垢抜けていたデザインだったのかもしれません。

次は表紙になっているキエフの電気溶接研究所の特集。

幹線石油パイプラインは溶接部に沿って壊れた。
割れ目は超音速の速さで広がる。その結果、この区間全体がだめになり、供給が途絶し、大きな損失が出る”
 
“容積3000立方メートルのタンクの溶接継手が壊れた。侵食環境……タンクにはアルカリが貯蔵されていた……に耐えられなかったのだ。その結果は貴重な原料が失われ、環境に損害を与え、大きな損失が出る”

音速を超えて亀裂が走るというのはすごいですが、これらの問題を解決したのが、キエフのE・O・バトン記念電気溶接研究所。表紙のは宇宙飛行士は真空チェンバーの中で宇宙空間用の溶接機を試験している様子です。
当時のソ連は電子機器をはじめ、工作機械や土木機械などを西側から輸入することができませんでした。そんな時に直面した問題を解決したのがこの研究所で、ゴルバチョフ書記長も視察しています。
溶接機K-700-1はガンダムのビームサーベルを開発しているところにしか見えないなぁ。


最後はヤクーチア特集からカラーページを。
札幌で開催されたヤクーチア展にあわせた企画です。

あとなにげに極地発電船がカッコいい。



























最後は第27回ソ連共産党大会をイメージしたロゴでも。
特に意味はありませんが、なんとなく。

それではまた~。


2012年9月14日金曜日

今日のソ連邦 第10号 1986年5月15日

ご無沙汰しております。
8月をまるごと空けてしまいました。といっても華麗に夏のバカンスを楽しんでいたわけではなく、バタバタしてるうちに夏カゼをこじらせて、ぐったりしていたという情けない話であります。涼しくなってきたらなんとか平常運転に戻したいと思いますが。

さて、今回の表紙はなんとも地味です。日ソの国旗を前に、おじさんふたりがにこやかに談笑。優雅なデザインのグラスと、これまた地味なデザインのミネラルウォーターの瓶が、いい対称になってます。

今回もなかなか盛り沢山なのですが、この時期のソ連にとって一番重要だったのは、なんといっても2月末から3月初旬にかけて開催された「第27回・ソ連共産党大会」( Имени XXVII съезда КПСС = イメーニ XXVII セズダ・カーペーエスエス) です。この号にも関連した記事が沢山出ています。


しかし、それとは別に突発事態も発生するわけで・・・・。それが4月14日から15日にかけて発生したアメリカ軍のリビア空爆でした。

85年12月にローマとウィーンの空港で爆弾テロが起き、86年3月には西ベルリンのディスコで爆弾テロが発生。これらをリビアの仕業と断定したアメリカが空母部隊を差し向けて、空爆に至ったというものです。

作戦はカダフィ大佐本人の殺害を目的としたものだと言われています。わずか15分間の攻撃で、レーザー誘導爆弾を含む300発の爆弾が投下され、48発のミサイルが発射されたとのこと。

当然、ソ連を始め、東側諸国は激しく反発したのですが、ゴルバチョフ書記長は政府声明と親書を出しただけで、米ソ関係が深刻に損なわれるようなことにはなりませんでした。そういえば「親書」なんて言葉も、ちょっと前に話題になってたなあ。

今、カダフィ大佐はこの世にいません。ソ連も崩壊し、ゴルバチョフ氏もただの人。しかし、アメリカとリビアの関係とはいうと・・・・。こんな時に、この記事を紹介することになろうとは、なんとも複雑な気分ですね。


さて、気を取り直して次の記事。表紙にも見出しが出ている「モスクワで近視が直った」という話題です。ちょっとグロ気味の写真が出てますが、どうかご勘弁を

視力矯正手術というと、今ではレーシックが主流みたいですが、この頃は「放射状角膜切開術」というものが行われていました。RK手術と言った方がわかりやすいかもしれません。


この道の第一人者がフョードロフ博士。
後にソ連の人民代議員になり、ソ連崩壊後は客船をまるごと病院にして世界各地で手術を行うという豪快なことをしていた人です。この人の技術は「つくば科学万博」でも紹介され、それに目をつけた日本の商社が「視力矯正手術ツアー」なるものを企画。表紙のおふたりは商社の社長さんとフョードロフ博士です。

今回の記事はその第一号となった人たちの話をレポート。
12日間のツアーは検査・手術費用を含めて91万5000円。対象年齢は18歳から40歳(40歳以上の人でも回復程度について合意すれば可能)まで。ただし、近視が急速に進行している人、角膜炎、白内障、網膜損傷がある人、その他、内科的な疾患、精神的な疾患がある人は不可となっています。特に糖尿病の人はダメと記事では念押ししてます。

手順は問診から始まり、検眼計を使って目の表面の湾曲度を計測。自動検眼計でジオプトリーを計測。さらに視野、角膜の厚さ、眼内圧などが検査されます。食事に制限はないが、当然、アルコールは禁止。それ以外は普通に観光を楽しむこともOK。手術本番は、フョードロフ博士が考案した「コンベヤー・システム」で実施されます。

この「コンベヤーシステム」というのは画像に出てる通り、ベッドに寝た患者が5人の外科医から順番に処置を受けるというもの。5人の医師は「切り込み箇所指定」「周辺部切り込み」「中心部切り込み」「刻み目の深さ調整」「洗浄と抗生物質注射」の5つの工程を役割分担しており、手術時間は10分程度で終わります。医師がヘッドフォンをつけていますが、実はこれ音楽を聞いているのだとか。

で、これでなんで視力が回復するのかというと、切り込みを施された部分が眼内圧によって曲がり、その結果、角膜を通過する光線の屈折率が変わって、像が網膜に正しく焦点を結ぶから、なのだそうです。よくもまぁ、考えたものです。

手術直後は、霧がかかったように見えるが、1~3週間で視力は回復し、矯正もされているとのこと(注:ここに書いた内容は、あくまでも当時の記事にもとづくものです) 
今では日本でも視力矯正手術は特に珍しくもないですが、最初はこんな感じだったんですねぇ。

以前、ウラジオストックに旅行にいった時、わたしを除く全員がメガネをかけていたため、ロシア人のガイドさんから「どうして手術しないの?」と聞かれたことがあります。その人も手術経験者。目をよーく見せてもらいましたが、光の加減で、かすかに切れこみの痕が目の表面に見えたことを覚えています。



次の記事は、カーチャ・ルイチョワという女の子の話題。前回「日本のサマンサちゃん」と呼ばれた女の子の記事を紹介しましたが、この子は「ソ連のサマンサちゃん」です。
その下は、原子力砕氷ラッシュ船の記事。ソ連の商船隊(モルフロート)も原子力船を運用しており、船体に原子核をデザインしたマーキングをしてあります。

ついでにコロメンスコエの歴史建造物の特集記事なんぞも。あと巻末にはロシア人の名前に関するコラムがあったので、内容をかいつまんで。


昔のロシアでは女の子には花の名前を、男の子には動物の名前をつけたそう。たとえば「レフ」は「ライオン」のこと。「ウォルフ(オオカミ)」も好まれた名前で、強そうだから病気や事故から守ってくれるだろうという願いが込められてるとか。目の大きな子は「グラース(目)」、あまり泣かない静かな赤ちゃんには「スミーレン(おとなしい」など、外見の印象が名前になることもあります。

子だくさんの家庭では日本と同様に「ペールヴィ(一郎)」、「フタローイ(二郎)」、「トレチャーク(三郎)」と名付けました。また、厄除けで悪魔や悪霊が無視してくれるように娘に「ニェクラチシーワ」とか「ウローダ」と名付けることもあったそうです。どちらも「醜い女」という意味だとか。

もちろん美しさを意味する立派な名前もあり、それは主に貴族の間でよくつけられました。「リュバーワ(愛しい)」、「ルイベチ(白鳥)」、「ナジェーヤ(希望)」「ラーダ(可愛い)」など。
男の子には「ボグダン(神によって授かった)」、「リュボミール(世界で愛される)」、「ウラジーミル(世界を支配する)」、「スヴャトスラーフ(聖なる栄光)」などがあります。

また、太陽崇拝は古代スラブ人も例外ではなく「ヤール(太陽)」から「ヤロスラーフ(太陽に栄光あれ)」、「ヤロポールク(太陽の戦士)」などがあり、「クラスノヤルスク(美しい太陽)」のように地名になったものもあります。

それ以外だとは、ロシア正教の聖人の名前がよく名付けられたそうですが、ソ連成立後は外国語起源のものも多く、日本人にとってポピュラーな「イワン」も、実際はドイツ人の「ヨハン」やスペイン人の「ファン」、チェコ人の「ヤン」やフランス人の「ジャン」、英米人の「ジョン」やグルジア人の「ワノ」などの同類で、起源をたどると、すべて古代フェニキア人の同じ名前に行き着くのだそうです。

では、また~。