2012年10月25日木曜日

今日のソ連邦 第16号 1986年8月15日 その2

さて、前回の続きです。
同じ号ですし、あまり間を空けるのもなんなので。

まずは表紙にもなっている美術教室の記事。5歳から12歳までの児童が200人ほど通っているとのことですが、なかなか見事な出来ばえの作品です。つーか、自分が8歳や9歳の時って、どんな絵を描いてたかなあ。

コンポジションという言葉がちらほら目につきますが、これは音楽や小説の構成と同じ意味で、ソ連・ロシアの絵画芸術でよく出てきます。教室では「構図」「絵画」「陶芸」「美術史」の4科目がありますが、建築家が先生ということで、「建築とのふれあい」が重視されているのが特長なのだとか。

なんだか堅苦しい教室に聞こえますが、対象となるのはごく普通の子供たちで、別にプロの芸術家や建築家を目指すものではないようです。あくまでも遊びの延長。ちなみに月謝とかの話は出てきません。

次の記事は、モスクワの演劇事情。ソ連の演劇というとチェーホフとかの定番が頭に浮かびますが、現代ソビエトの作品も当然あるわけです。
本誌では4つの劇場・劇団の芝居が紹介されてます。
写真はモスクワ芸術座の「銀婚式」という作品。中心人物は共産党幹部のワジノフとゴロシチャポフ。そして二人を出世させた国家的活動家のブイボルノフの3人です。

母の葬儀のためにモスクワから戻ってきたブイボルノフは、かつての部下たちの仕事ぶりを確かめようと思い立ちますが、そこで見たものは乱脈管理でメチャクチャになった地区の経済。穀物倉庫は空っぽで、決算書には架空のデータと数字が並んでいます。
さらにブイボルノフの旧友であるジャーナリストのポレタエフは、酒に溺れ、すさんだ生活を送っていました。彼はあやふやな嫌疑で刑務所に収監されていたのですが、そこにはワジノフとゴロシチャボフの暗躍がありました。ポレタエフはかねてから地方権力のデタラメぶりを批判しており、彼らにとって目の上のコブだったのです。

劇が進行するにつれ、このふたりが、ブイボルノフの名前を利用して、自分たちだけの独自の権力基盤を築いていたことが明らかになっていきます。
そしてクライマックス。
彼らの元へ、モスクワに戻ったブイボルノフが突如として職務を解任されたというニュースがもたらされます。それが「失脚」なのか、「昇進」なのか、劇では最後まで明らかにされません。
しかし、登場人物たちの行動スタイルと将来の計画は、ブイボルノフの失脚か、昇進かで、まったく違ってくるのです・・・。果たして?

次は、レーニン・コムソモール劇場の「良心の独裁」。
最近、売れ行きが芳しくない、とある青年向け新聞の編集会議が舞台の芝居。1920年代の新聞記事にあった「レーニン裁判(労働者たちが二つの異なる立場で議論する模擬裁判のこと)」を現代に再現しようとする試みの物語。

3本目はエルモロワ記念劇場の「話したまえ!」
フルシチョフのスターリン批判直後の、とある地区委員会が舞台のドラマ。権力にしがみつく老害に立ち向かう、若い党員の物語。タイトルの「話しなさい!」は、誰かにメモを渡されて、しどろもどろの労働者(搾乳婦の女性)に、新たに着任した党書記が言うセリフです。
「話しなさい! 話したいことがあるのでしょう? 話しなさい!」
さて、結果は?

最後は中央児童劇場の「おとしあな №46。 第2の成長」
ふたつの対立する中学生グループのお話。対立の原因は応援してるサッカーチームが違うというだけの他愛ないもの。しかし、ここに第3のグループ(党幹部の子弟たちで、特権階級)が加わり、悲劇が起こります。ハッピーエンドの鍵は一組の恋人。

どれもなかなか興味深いですが、今のロシアでは、ソビエト演劇ってどういう評価なんでしょうかね。

次の記事は、ソ連のアマチュア芸術家の話題。ここに紹介されてる草花は、すべて人工物。79歳のニコライ・コチン(右)が暇つぶしに始めた趣味です。

ちなみに中央の花の鮮やかな青は、KGBなどのソ連の治安機関のシンボルカラーとして有名です。西側の文献ではロイヤルブルーとかペールブルーと表現されていますが、正確には「ヤグルマギク色」なのです。それにしても、ロシアのお年寄りは風格ありすぎだ。

最後の記事はロシア語散歩から「クマをなぜ“蜂蜜食い”と呼ぶか?」です。
これ、大好きな話。

えーと、ロシア語でクマのことをメドベージ(Медведь)と言います。
これ本当は「蜂蜜を食う奴」という意味。現ロシア首相のメドベージェフさんの名前でもありますが、彼も、「熊おじさん」ではなく、本当は「蜂蜜大好きおじさん」なのです。そういえば大統領はプーさんだ。

ではなぜ、こう呼ぶようになったか?
ロシアでは熊は畏敬の対象でした。森の中で出会ったら、100パーセント助からないからです。だから彼らが森の中で、その名を口にすることは絶対にありませんでした。うっかり言ったら「呼んでしまう」からです。とはいえ、名無しというのも不都合です。そこでロシア人たちは「蜂蜜=мед(ミョード)を食べる奴」というニックネームをつけたのでした。

ちなみに、この習慣は森の外でも人々に染みついていました。おそらくロシアの子供たちは「いい子にしてないとメドベージに食べられるぞ」などと言われたに違いありません。それは都市でも変わらず・・・近代化しても変わらず・・・革命が起きても、ソ連が崩壊しても変わらず・・・。

気づいた時には「熊」という言葉は消滅していました。

今、ロシア語の辞書で「熊」を調べても「メドベージ」しか出てきません。知り合いのロシア人たちに聞いたことがありますが、彼らも「熊」という単語を知りません。「メドベージ」だけが残ったのです。

禁忌が消滅させた言葉。
わたしには、この上なく魅力的な物語に感じられます。

しかし! この話には続きがあります。
熊という単語は、本当に消滅してしまったのか? この単純な疑問に果敢に挑んだ言語学者がいたそうです。彼は文字通りロシアじゅうを歩き回り、そしてシベリアのド僻地で、ついにその単語が生き残っていたことを突き止めたのだそうです!

ただ、残念なことに、その肝心の単語がわかりません。ぐぬぬぬ・・・・。
確かにニュースになったそうなのですが、ロシアでも関心は低かったみたいです。使い慣れた言葉を今さら変えても……ということなんでしょうか。
わたしも、知りたいような知りたくないような・・・・。

今回はこんな感じで。
でわでわ~。



2012年10月19日金曜日

今日のソ連邦 第16号 1986年8月15日 その1

今日のソ連邦。今回はなにやらカラフルで楽しげな表紙ですが、この詳細は次へということで。あと、帯に書かれた「第12次 五ヶ年計画とソ連極東」や「ドン河畔のまちロストフ」の特集記事も、内容が地味なのでカットします。
今日のソ連邦という広報誌、表紙での扱いが中身に反映されるのかというと、必ずしもそういうわけでもないようです。

さて、今回まず目に飛び込んでくるのは、1985年からソ連が一方的に中止を宣言した「核実験モラトリアム」の記事。これはあらゆる種類の核爆発を中止し、く核廃絶への道筋をつけようという、ゴルバチョフ書記長の政策です。

当初は「アメリカが核実験をしない限り、ソ連も核実験はしない」という主張でしたが、アメリカはその後も核実験を続けました。ソ連はそんなアメリカの姿勢を非難するとともに、3回に渡ってモラトリアムを延長。核廃絶に真剣に取り組んでいる、という姿勢をアピールしたのです。

“ソ連は、兵器に頼らずに、平和を愛する手本を示して、他国の立場に影響を及ぼすために、あらゆるチャンスを生かそうという意図や善意を改めて発揮した”

もっともこの時、すでにソ連経済はガタガタで、核実験どころではありませんでした。ソ連は平和外交に転じることでアメリカにも軍縮を促し、相対的に戦力差を縮めようと考えていたわけです。

ところで、この記事にはもうひとつの側面があります。ページをめくって次に現れるのが、この年の4月に起きた「チェルノブイリ」関連の記事なのです。

本誌では事故の経緯やその後の対応が紹介されていますが、その前に、核実験モラトリアムの記事をもってくる構成にすることで、事故がもたらしたソ連へのマイナスイメージを弱めようという、編集意図が見て取れます。ついでに言うと、チェルノブイリの記事の次は、広島原爆に関する記事です。

ざっと見たところ、事実関係に関しては、今とさほどの差異は感じないという印象です。ソ連当局としては、事故はあくまでも「不幸な偶然」によるもので、技術に欠陥があるわけではない、と主張していることがわかります。興味深いのは、アメリカの原子力機関の研究員の証言を持ち出して、主張の補完をしている点。ほんの数ページ前ではアメリカを非難していたのに・・・。

では、ここで本誌が紹介しているソ連の当時の対応策を見てみます。

まず、原発周辺30㎞地帯からの人々の疎開計画が緊急立案された。実際には、この地域の人々に直接の脅威はなく、放射線計測値は毎時10-15ミリレントゲンであったものの、万一に備えて疎開させることが決定された。

日常生活では融通性が足りないといって、
しばしば辛辣に批判されていた組織中央集権制が、
この場合はモノを言った。

最短時間内に、2172台のバス、1786台のトラックが確保され、約4000人の運転手が動員された。疎開者の新しい土地での受け入れが組織され、ホテル、国民宿舎、サナトリウムが確保された。その結果、チェルノブイリから近いプリピャチ市の4万人の市民は、約3時間で疎開を完了した。

町や村からの疎開はもっと複雑だった。農民は春の農作業の盛りに村を去ることを望まなかった。それでも放射線の高い地帯に入っていた50の町村から、26,000人が疎開した。

新しい場所では転入者のために住居、3回の無料の食事が提供され、各人に200ルーブルの手当てが当てられた(当時のソ連では1ルーブル=1000円ぐらいの見当です)。

村では菜園用の土地が割り当てられた。疎開者の大多数は、最初の数日間で現地当局が提供した仕事に就いた。疎開した人々はだれも疎開のために1コペイカも支払わなかった。

しかし、非常事態によってもたらされた様々な要求を、すべての指導者が満たすことができたわけではなかった。結論は、事故と関連したすべての問題と同様、速やかに断固として下された。
ふたりの企業の指導者が解任され、ひとりは党から除名された。もうひとりは党の厳しい処分を受けた。確かに場所によっては足並みの乱れもあった。しかし、これらの手落ちは中央集権的指導部のおかげで直ちに正された。

一方、事故の収拾はどのように行われたのでしょう?
記事では「4号炉に対する攻撃」という表現で説明されています。

空には内部に鉛の板を張ったヘリコプターが飛び回り、地上では放射線防護機能を持つ装甲車が走り回っていた。原発から12㎞のところにヘリポートが設けられた。
毎日、日の明るい間じゅう、パイロットたちは事故を起こした原子炉の噴火口を塞ぐために200メートルの高度から、砂、大理石の粉末、白雲石、鉛、ホウ素の入った袋で原子炉を“爆撃”した。

いささか長い引用になってしまいました。
疑おうと思えば、いくらでも疑える記事ですが、信憑性については、今なら十分に検証可能だと思います。それにしても、有無を言わさぬ中央集権体制が、強制的に事態を収拾していくくだりは、思わず納得してしまうものがあります。ソ連共産党すごい。

加えて言うなら、ソ連は軍事超大国として、つねに核戦争を意識していました。
工業地帯や都市が核攻撃された場合、さらには原子力発電所そのものが核攻撃された場合の想定などが、なかば強迫観念のように整備されていたはずです。

チェルノブイリ事故の対応策は、その場でいきなり考え出されたものではなく、あらかじめ準備されていた核戦争のマニュアルを応用したと考えるべきでしょう。世の中、何が役に立つかわからない、という話ですが、元をたどっていくとなんとも複雑な気分です。


今回の更新は、いささか堅苦しい内容になってしまいましたが、
「その2」はもっと気楽なものにしますです。

でわでわ~。