あれこれ色々なネタでお茶を濁してきましたが、心を入れ替えて、本来のネタに戻りますです。たぶん・・・。
まずは奇妙な表紙から。一見、ヨットの乗組員ですが、何か変。船は港に係留されているのに舵輪を握っていたり、六分儀を持っていたり、双眼鏡であらぬ方向を見ていたり。実は彼らは「クレド」という名のロック・グループ。よく見ると手すりにグループ名のペナントが付いています。同名のグループはイギリスなどにもありますが、彼らはラトビア共和国のグループです。
ラトビアの画家グナルス・クロリスがヒロシマをテーマに描いた「白いツルの国」という作品を見た同国の作曲家ライモンド・パウルスは、その印象を7つの曲にまとめます。しかし、これを通常のピアノや弦楽器で表現することには限界があると感じ、クレドのリーダー、ワルジス・スクイニンに相談したのだそうです。クレドは反核をテーマにしたロック組曲「叫び」を作り上げ、ソ連のバルト海沿岸地方で開催される音楽コンクール「リエバヤの琥珀」で発表したのだそう。
今回、そんなクレドの楽曲を見つけることができました。1987年にリリースされた曲をここで聞くことができます。ソ連崩壊の混乱で活動を休止していたようですが、2000年ごろには復活したようです。現在どうなっているのかは不明ですが、ラトビアではかなり有名なグループのようです。
次はモスクワで活動する児童美術アトリエ「創造クラブ」の記事。一般住宅を開放し、4才から12才までの子供たちを受け入れています。月謝は6ルーブルですが、子供が沢山いる家庭などの場合は免除されます。
アトリエは毎日開かれており、年に2回、子供たちによる発表会が行われます。発表会では、必ずどこかの国がテーマになるのが決まりで、写真を見る限り、今回は日本とインドがテーマになったようです。
ちなみにキャプションにある「あいびき」はツルゲーネフの短編を二葉亭四迷が訳したものらしいです。ロシアの文学作品なんだから、そのまま演じれば良さそうなものですが、わざわざ日本語に翻訳されたものをベースに、これまた日本風に演じるというのが面白いです。
キモノとかメイクと小道具とかは、子供たちが独自に調べて工夫をこらしており、それ自体が学習というわけです。なかなか艶やかな雰囲気が出ていますが、それにしても小学生が「あいびき」なんて演じちゃっていいんでしょうか。
次はスポーツ大会の話題。エストニア共和国のタリンで開かれた「女子ジョギング大会」の記事。これはエストニアの雜誌「ヌイウコグデ・ナイネ」が主催したもので、健康推進キャンペーンのひとつとして実施されました。
このヌイウコグデ・ナイネという雑誌名、日本人にはあまり馴染みのない響きですが、実は日本版も出ていた「ソビエト婦人」のエストニア版です。綴りは「Nõukogude naine」。わたしも知りませんでしたが、エストニア語でソビエトはヌイウコグデというのですね。というわけでエストニア語でソビエト社会主義共和国連邦というと「Nõukogude Sotsialistlike Vabariikide Liidu」。略称もCCCPでもなければUSSRでもなくNSVLとなります。
お次は前回の続き。第19回全国党協議会から。この大会は「官僚主義との闘争」と位置づけられ、記事にも「最悪の敵」とか「社会的偽善」とか、過激な言葉が並んでいます。もっとも改革にブレーキをかける具体的な個人名が名指しされているわけではなく、あくまでも「官僚主義」が槍玉。なんとなくどこぞの首都のお役所のような話になっております。
そんな中、注目を集めたのが「他に道はない」という一冊の本。党協議会開催の直前にプログレス出版所から発行されました。著者は34人にも及び、その中には反体制物理学者アンドレイ・サハロフ氏の名前もあります。本文だけで700ページという大著ですが、「最近のソ連の本ではもっとも大胆で面白い」と、海外のソ連研究者からも注目された本です。
記事ではその中のひとり、タチアナ・ザスラフスカヤのエッセーに焦点をあてています。エッセーといっても、この本の冒頭を飾るもので、約1万2000語という長いもの。その中で彼女は、ソ連市民を10の社会グループに分類し、それぞれが示している(内包している)ペレストロイカへの態度を、8つの立場に置いています。一覧表になっていますが、社会階層はなんとなくわかるものの、立場というのが、よくわかりません。本文によりますと・・・。
【先導者】というのは、言うまでもなくゴルバチョフに代表されるペレストロイカに積極的な指導者と、彼に従って率先して行動していく人たちです。
【賛同者】は似ていますが、ちょっと違います。多くの場合、大きな困難と失望を経験してはいるものの、自己の信念は変えていない人たちのことです。ソ連でも何度も改革が叫ばれたけれど、その都度、失敗に終わっています。それでも希望を失っていない人たちということでしょうか。
【同盟者】は改革の個々の側面、たとえば協同組合の拡充など、それまでのソ連社会にはなかったビジネスチャンスに個人的な興味は持っているけど、ペレストロイカ構想そのものにまで全面的な確信を抱くには至っていない人たちが入ります。
【擬似賛同者】は深い道義上の原則も、しっかりとした政治的信念も持っていない人たちのこと。彼らはどんな主人にも仕え、どんな真実も肯定し、上司からの好意と昇進が約束されるなら、いかなる課題もこなす人たち。「はいはい、ペレストロイカ。ペレストロイカね」って人たちです。
【傍観者】はペレストロイカは必要だと感じているけれど、ソ連社会にはそれを実現するための力も手段もないと考えている人たち。彼らはペレストロイカの賛同者にシンパシーを抱いてはいるけれど、彼らが勝利することはないだろうと考えています。
【中立主義者】はペレストロイカの対する自分の態度を決めていない、社会的に無気力な人たち。彼らは個人的な興味に没頭し、十分な文化的・社会的経験を積んでいません。中立という言葉が、まさに毒にも薬にもならない階層という意味で使われていますが、実際、ソ連では中立はあまりいい意味では使われない言葉だったりします。
【保守主義者】は言うまでもなく、ペレストロイカのもっとも大きな障害です。彼らは社会のあらゆる主要な側面で改革にブレーキをかけようとしてます。もちろん様々な特権や既得権益を享受している層でもあります。
【反動主義者】は保守派と同様、ペレストロイカを受け入れようとはしていませんが、理由はもっと深いものです。保守主義者はペレストロイカに対抗してスターリン型の「兵営社会主義」を信奉していますが、反動主義者は、およそいかなる社会主義的価値観とも無縁の存在です。
1980年代末期のソ連の社会の分析結果としてはなかなか興味深いものです。
最後はモスクワ放送の日本人アナウンサー、清田彰氏の記事。
ソ連最高会議幹部会令により民族友好勲章が授与されたという内容です。新聞のモスコフスカヤ・プラウダは、いつもの調子で「祖国の褒賞」という決まり文句で、このニュースを報じていますが、今日のソ連邦は「ちょっと考えれば見出しは別のものになっただろう。セイタ・アキラは100パーセント日本人なのだから」とチクリ。
清田彰氏は、1922年岡山市生まれ。父親は岡山市役所につとめる公務員でしたが、暮らし向きは楽ではありませんでした。1939年、山口市の商業高校1年だった時に軍に召集され、工兵連隊、歩兵連隊と渡り歩くうちに満州の長春にある主計学校に入ります。その後はソ満国境にほど近い連隊に異動。そして1945年9月にソ連軍と交戦状態に入ります。(今日のソ連邦、ちゃんと9月と表記してますよ。)
最初の激突から数日後、彼は捕虜となり800人ほどの仲間とともに収容所へ送られます。近くにはアムール・スターリという巨大製鉄所があり、 清田さんたちは石炭やセメントの荷卸し、森林での伐採作業などに従事します。製鉄所が近くにあったということは、すでに鉄道が建設されていた地域だったわけで、その意味では幸運だったのかもしれません。
清田さんはその間、ロシア語に興味を持つようになっていました。収容所の警備兵がマホルカ(きざみタバコ)の包装紙として使っていた新聞紙を拾い、通訳が持っていて辞書を借りて勉強を始めます。辞書は一冊しかなかったので、清田さんが勉強するのは通訳が寝ている時だけでした。
そんな彼にソ連軍のボリソフ上級中尉が声をかけます。彼は温厚で親切で、捕虜たちとタバコを分け合いながら、ソ連のことを色々話してくれたそうです。
清田さんはそんな彼
1948年にハバロフスクの放送局に日本語担当アナウンサーとして配属されますが、原稿は自分で翻訳しなければなりません。彼は地元の子供と机を並べて中学校に通い、5年かけて卒業します。その後、30才になってモスクワ大学の経済学部に入学し、モスクワの放送局から日本向けラジオ放送をすることになります。
この放送をたまたま聞いていた叔父さんが、清田さんが生きていることを知り、手紙を寄こします。家族は全員無事でした。しかし、その頃には清田さんはロシア人女性と結婚しており、娘も生まれていたのでした。それでも一時帰国を果たし、日本から家族を招くこともあったそうです。
画像は映画に出演した清田さん。当時は日本人の役者なんてそう簡単に呼べるわけないですから、彼のような存在は貴重だったのでしょうね。探せばDVDが見つかるかもしれません。
今回はこんなところでしょうか。
でわでわ~。
六本木ヒルズ展望台 東京シティビューにて開催中の「空想驚異展」もよろしくです。