2016年5月21日土曜日

今日のソ連邦 1988年7月15日 第14号

ども、お久しぶりです。座骨神経痛をやらかし、ゴールデンウィークが丸ごとムダになりました。まぁ、旅行の予定とか無かったからいいけど(泣いてなどいない)。

さて、今回は華やかで懐かしい顔ぶれの表紙です。
この日、モスクワ・ボリショイ劇場の貴賓席に現れたのは、青いドレスのライサ夫人、その横で手をふるレーガン大統領。上を見上げるゴルバチョフ書記長、白いドレスのナンシー夫人。今年の3月にナンシー・レーガン夫人が鬼籍に入り、現在も存命中なのはゴルバチョフ氏だけになってしまいました。さすがに寂しいですねぇ。


両首脳の会談は、実際には5月29日から6月2日までと、かなり前に行われているのですが、速報性を重視する西側メディアと違い、会談内容とか共同声明とかの評価が定まらないうちは記事にしないのが、いかにも社会主義国の広報誌です。本文ページの特集記事も「客を見送って」の見出しから始まります。

ゴルバチョフ・レーガンの首脳会談はジュネーヴ、レイキャビク、ワシントンD.C.に続き、4回目。この会談でINF(中・短距離ミサイル)全廃条約の批准書が交換され、歴史的な核軍縮が始まりました。
ちなみにレーガン大統領といえば、ソ連を「悪の帝国」と呼んだ人物です。
ロシアには「言葉はスズメじゃない。飛び出したらつかまらない」ということわざがありますが、この一件はソ連のメディアで繰り返し取り上げられ、この時の訪問でもソ連側の記者から「今でもそう思っているか?」という質問が投げかけられました。
ここで彼は、過去の自分の発言をはっきりと否定してみせるのですが、このやりとりがクレムリン宮殿の名物のひとつである「大砲の王様」の前だったことにソ連のメディアはある種の象徴的な意味を見出したようでした。
もっとも、この時のレーガンは翌年1月に任期切れを控え、政治の表舞台から去ろうとしていました。記事では「ゴルバチョフ書記長は、ホワイトハウスの主の交替によって不可避的に中断される対話を、誰と復活しなければならないか考えないわけにはいかない」と述べています。

見開きのカラーページには、首脳会談の合間を塗って交流にいそしむナンシー夫人の様子が紹介されています。
右上の写真は歓迎夕食会の様子。晩餐会ではなく、夕食会という表記に注意です。ソ連=ロシアでは伝統的に午餐(昼食)が正式な食事ということもありますが、晩餐会という表現が「資本主義的」と見なされたのかもしれません。
実際、写真をよく見ますとゴルバチョフもレーガンもディナージャケットではなく、普通のスーツにネクタイなのがわかります。

余談になりますが、第3回首脳会談が行われたホワイトハウスでの晩餐会でも、レーガン以下、アメリカ側の出席者全員がタキシードにブラックタイだったのに対し、ゴルバチョフはスーツ姿のままでした。オシャレなことで有名なゴルビーですが、この時の態度が「無粋である」として、ファッション誌「VOGUE」がベストドレッサー賞の授与を見送ったという逸話があります。


次の記事は「アカデムゴロドク」の特集。
アカデムゴロドクは正式名称を「ソ連科学アカデミー・シベリア部ノボシビルスク学術センター」といいます。ノボシビルスクといえばガルパン声優のジェーニャさんの地元として有名ですが、その郊外に22のソ連科学アカデミー研究所、6つの特別設計事務所が集中する区画があり、科学技術図書館、試験工場、実験生物学ステーションなどが併設されています。住民は1万人におよぶ科学者・技術者とその家族。医学アカデミーの研究施設やその他の省庁の実験施設も置かれています。

いかにも理系が集中していそうですが、実際には社会学や経済学など人文科学系の人材も揃っており、ペレストロイカで打ち出された経済自由化構想なども、アカデムゴロドク出身の学者によって提言されたものだそうです。このことからノボシビルスクはペレストロイカのゆりかご。アカデムゴロドクはその頭脳と呼ばれているのです。
記事によるとアカデムゴロドクでは、ペレストロイカの推進を受けて、純粋科学にとどまらず実用面での完成度にも目が向けられているとのこと。独立採算制の企業「ファーケル」が生まれ、アカデムゴロドクの様々な研究成果から実用的に利用できるアイデアをすくいあげ、ソ連各地の企業に売却する事業を行っています。

ところで、なぜシベリアのド真ん中に科学の殿堂のような都市が作られたのか? きっかけはフルシチョフ時代で、当時の自由闊達な空気が新天地シベリアと相性がよかったのだといいます。
これはブレジネフ政権になってから思わぬ効果を生みました。モスクワから3000キロも離れていたおかげで、中央政府の保守的な空気が流れ込みにくく、停滞の時代にあってもその影響は少なくて済んだのです。

もちろんアカデムゴロドクにも問題はあると記事は書いています。皮肉にもその原因はペレストロイカで、優秀な人材が次々と “モスクワ送り” になり、研究を牽引する力が弱まることが懸念されているとか。うまくいかないものですねぇ。

次もペレストロイカ関連記事。エストニア共和国のピャルヌ地区というところを統括しているエストニア共産党・地区党書記のお話。
ピャルヌ地区はバルト海沿岸にある保養都市で毎年、ソ連全土から大勢の人々が余暇を楽しみにやってきます。面積でもエストニア最大の行政地区で、牛乳と食肉の最大の産地。農業と観光の町というわけです。

写真の人物は地区委員会第一書記のワルテル・ウダム氏。それまでにも各地の地区で第一書記をつとめ、ピャルヌ地区の第一書記になって10年になります。
若い頃から彼は、エストニア共産党の中で「変人」として扱われていました。牛乳の生産性をあげるために自ら搾乳機の講習会へ通い、夜遅くまで機械の操作を練習し、ついには機械の分解や組み立てまでできるようになったからです。
「第一書記なのに、まるで工場長」のような仕事をする彼は、他の地区の書記たちから冷やかしの対象となります。「ウダムは党活動家ではなく、経営者だ」と揶揄する者もいました。

それ以前にも彼は、あやうく書記を解任されそうになったことがあります。それはフルシチョフの時代。
1960年代初頭、時の指導者フルシチョフは「トウモロコシの奇跡」というアイデアに取りつかれていました。シベリアでもウクライナでもウラルでもトウモロコシの栽培が奨励され、その波はエストニアにも押し寄せます。
当時のエストニアの党幹部たちは出世欲のためか、それとも単なる無知なのか、特に深く考えることなくフルシチョフの指示に従いました。乳牛のために整備された数千ヘクタールの牧草地が掘り返され、その面積は全農地の15パーセント以下に制限されてしまいます。当然、乳牛たちは深刻なエサ不足に陥り、牛乳の生産量は激減。それでもフルシチョフの大号令は止まりません。ウダムは回想します。

「みんなが仲良く  “畑の女王” (当時のトウモロコシはこのように大げさに呼ばれていた)のために行進している時、歩調を乱すのは容易なことではありませんでした。今でこそ  “反トウモロコシ主義者”  という言葉は自慢できますが、当時は反抗者に貼られたレッテルだったのです」

ウダルはモスクワからやってきた党幹部から圧力をかけられます。
もう5月も終わりだというのに幹部は、牧草地を掘り返してトウモロコシを蒔けと命令。ちなみに寒冷地でのトウモロコシの種まきは4月中旬。ウダルは「これは大変な冒険になる」と直感し、のらりくらりと即答を避けて、結局、種まきをしませんでした。
もちろん、タダで済むはずがありません。首都タリンの共産党大会でウダルは「経済的な過ちだけでなく、政治的な過ちも犯している」と非難されます。どうしてクビがつながったのか、ウダルは記事でも多くを語りませんでした。

「現在に目を向ければ、モスクワの農工委員会はまだ各地の自然的、社会的差異や、幾世紀来の伝統を考慮せずに、単一の指令台から指揮する同じやり方で活動していることがわかります」

この記事は、当時のフルシチョフ政権に面従腹背の党幹部がいたという事実を、ソ連当局が評価した形になっているのが興味深いです。図らずもペレストロイカの未来と重なります。これより後、ゴルバチョフの指示をのらりくらりと拒む党幹部でソ連はあふれかえることになるのですから。


最後はヴァツラフ・ヴォロフスキー (Воровский, Вацлав Вацлавович) の記事。ヴォロフスキーは1919年、ソビエト政権最初の全権代表としてスウェーデンに赴任した人物。つまり最初のソ連大使です。
彼は1871年、世襲貴族の家柄に生まれました。23才の頃にはすでに共産主義に傾倒し、帝政ロシアで革命活動を始めています。26才の頃には革命思想のプロパガンダ活動と非合法文献配布の罪で逮捕されています。
貴族出身の革命家というのは、実はあまり珍しくないのですが、それでも困惑する人は少なくなかったようです。
彼はレーニン宛の手紙の封蝋に自分の家の指輪を使って封印していました。国境で郵便物の検査に当たっていたコミッサール(政治委員)のチモチェーエフは、レーニン宛の手紙に貴族の紋章が押されていることにどうしても納得がいかず、自分でレーニンのもとへ届けたと言います。

スウェーデンでの勤務ぶりも、当時の外交官(それも大使)とは思えぬ型破りなものでした。そもそも大使館が普通の住宅。訪問するとドアを開けるのはヴォロフスキー大使本人。執務室には幼い娘のためのベビーベッドが置いてあり、その横で書類を作成するのも大使自身。
しかし、当時の人々が一番驚いたのは、各種の公式書類や査証(ビザ)の発給が無料だったことでした。現在でも、たとえばアメリカへ旅行する場合、観光目的でも160ドルほどの手数料を取られます。

ヴォロフスキーの最期は、この時代の革命家に相応しいものでした。1923年5月10日、スイス・ローザンヌのホテルで銃撃されたのです。犯人は白系ロシア人で元チョコレート工場主だったモリス・コンラジ。彼をそそのかした黒幕はツァーリの軍隊に所属していた元大佐でファシスト連盟のメンバー、アルカージ・ボルーニン。ソ連では「ホテル・セシルの惨劇」として有名な事件だといいます。彼の遺体はクレムリンの壁に妻とともに埋葬されています。

一番下の画像はヴォロフスキーに交付されたソ連最初の外交旅券で、1917年12月23日に作成されたもの。
「この旅券で人民委員会議(ソビエト政府は)、ソビエト外交代表B.ヴォロフスキーを遅滞なく通貨させ、彼に援助を与えるよう外国官吏に要請し、ロシアの官吏に対しては命令するものである」とあります。


今回はこんなところで。
でわでわ~。


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