うっとおしい梅雨空を見上げつつ、更新であります。
ごめん。今回、文字多めだ。
今回の表紙はモスクワで開催された美人コンテストで優勝したマーシャ・カリーニナ(17才)の喜びの表情です。といっても、本誌での扱いはこじんまりとしたものでちょっとがっかり。詳細は後ほど。
さて、今号では目次にちょっと違う部分があります。
わかりやすいよう、赤枠で囲んでみましたが、この勲章みたいなイラストは「ソ連対文連友好促進顕章」といいます。創刊30周年を迎え、ソ連邦の情報発信と日ソ間の友好促進に多大な功績があったとして、今日のソ連邦編集部に授与されたのです。
「対文連」というのは「ソ連対外友好・文化交流団体連合会」の略で、日ソ協会なども加盟している団体です。 今日のソ連邦はノーボスチ通信社から記事と写真の提供を受け、モスクワで編集されています。今回の授与のセレモニーもモスクワで行われました。 スタッフは10人弱といったところで、編集長はフェリクス・プラテという男性です。名前、初めて知ったよ。 とはいえ、さすがに版下作業までしているとは思えませんので、日本側でも編集作業はあるのだと思います。こうして印刷された本誌はソ連大使館広報部を通じて日本中にバラまかれ……じゃない、配布されていたのです。
それでは美人コンテストの記事を。といってもたったの2ページなんですが。
6月12日、モスクワでソ連初となる美人コンテストが行われました。もちろん、今までも学校や職場などで非公式なものはあったかもしれません。ですが、こちらは格が違います。
企画・主催はモスクワ市執行委員会(市役所)の文化総局、全ソ・レーニン共産主義青年同盟(コムソモール)、モスクワ市委員会(ソビエト共産党)、モスコフスキー・コムソモーレツ紙編集部、ブルダ・モーデン・モスクワ(ソ連と西独の合弁会社)、国際青年観光局スプートニク。その他一連の組織というそうそうたる顔ぶれ。 正式なイベント名は“モスクワ美人88”。テーマは「女性の美と女性らしさを歌い上げる」というものです。
参加資格は17才以上、27才未満でモスクワ在住の女性。既婚・未婚は問われません。エントリーは2750人。審査基準は人を惹き付けるルックス、端正なスタイル、女性的魅力、所作の美しさ、機転やユーモア感覚、踊れて歌える能力、エチケットのわきまえなどなど。
第一次予選は4月。モスクワ市内のゴーリキー公園で11日間にわたって行われ、まずは185人に絞られました。5月には第二次審査。イブニングドレスや水着姿を競い合い、36人に。
第三次審査は6月10日から12日まで“ルジニキ”スポーツ文化宮殿で行われました。
審査委員は有名作家や人気俳優、著名なジャーナリストなど。会場には1万人もの観衆が詰めかけ、テレビ中継も。内外の注目も集め、実行委員会が発行した取材パスは300。もちろんプラウダ紙の記者もいました。
最終審査に残ったのは6人。
最終審査に残ったのは6人。
彼女たちへ与えられた課題は「100年後。すなわち2088年のモスクワについての自分の考えをプレゼンテーションする」、「自己を宣伝するための広告アイデアを出す」、そして皮肉っぽい諷刺作家たちのクセのある質問にうまく答えてみせること。なかなか手ごわいハードルではありませんか。
そんな激戦を勝ち抜いて栄冠を勝ち取ったのが表紙のマーシャ。身長176センチ、スリーサイズは88、62、93。モスクワ第110中等学校の10年生。日本でいう高校3年生です。目下の目標はレーニン記念モスクワ国立教育大学へ合格すること。・・・って、あっちの新学期は9月なんだから受験目前じゃん!
ちなみにマーシャを始めとする上位入賞者にはソ連の各種団体、外国スポンサー(イブ・サンローランなど)から高価な賞品が贈られました。また、最終審査に残った6人全員に順位に応じた賞金が贈られました。
最後にこうしたイベントに批判は無かったのか?ですが、記事はそこにも触れています。
西側の習慣ともいえるイベントをコピーする必要があるのか? 高価な賞品や外国企業との契約などがコンテストに不健全な投機的思惑を発生させ、ユーモアあふれる明るいショーから競馬場的な雰囲気を醸しだすものになってしまうことはないのか? なによりもコンテストの参加者たちは年齢的に若く、人格的に成熟しているとは言い難い。そんな彼女たちにコンテストでの勝利は道徳的マイナスになりはしないか?などなど。
プラウダ紙は「我々はこうした問題に初めてぶつかるわけだから、 特に責任をもってこれらの問題解決に当たらなければならない」と述べています。
次はなぜかもう一つの表紙。ゴルバチョフさんです。
さては第19回全国党協議会という重要事項を紹介する号でありながら、指導者を表紙にしなかったことを誤魔化そうと・・・(ウソ)
えーと、この党協議会。基本的には党大会と同じものです。党大会が5年に1度の定例開催であるのに対し、党協議会は必要に応じて開催できるとされています。第27回ソ連共産党大会からまだ2年しかたっていませんから、これは1991年に開催されるはずだった第28回ソ連共産党大会を前倒しして開催したものとも言えます。
党大会が通常国会だとすれば、党協議会は臨時国会のようなものでしょうか。ただし、この国会はソビエト共産党員限定です。
「自由選挙で選ばれた代議員によって構成される」という真の意味の国会は、このあと誕生する人民代議員大会まで待たなければなりません。というより、この党協議会で決定されたのが、まさにその人民代議員の創設だったのです。
これによってペレストロイカは一気に加速します。
ゴルバチョフが追いつけなくなるほどに。
対する保守派の反撃も激しくなっていきます。
ゴルバチョフが抵抗できなくなるほどに。
次は「KGBの発表とコメント」というギョッとするような話題。(写真なし)
これは「論拠と事実から」という記事で紹介されたものです。論拠と事実とはロシア語で「Аргументы и Факты」という週刊新聞のこと。全ソ協会「ズナーニエ(知識)」が発行し、総発行部数は900万部以上。とても人気があり、現在のロシアでも活動をしています。
今日のソ連邦では論拠と事実の紙面の中から、海外の読者の興味を引きそうな話題をピックアップして載せてくれています。
「KGBの発表とコメント」は、1988年の春から論拠と事実の紙面に新設されたコーナーのこと。国家保安委員会(KGB)の活動や歴史、有名な情報部員の伝記に対する一般国民の大きな関心に応えるためとされています。これも民主化。これもグラスノスチ。
記事はまずKGBからのご挨拶から。
「党によって厳しく統制され、方向づけられているKGBの活動は、まず何よりも帝国主義諸国の特務機関による経済分野のスパイ行為、イデオロギー分野の破壊工作の機先を制することにある。
この種の活動の具体的な事実、KGBの活動原則、その活動のペレストロイカ、法の厳守措置、過去からの結論とその教訓についてお知らせし、読者の質問に答え、事実、事件、経過に対して正しい、客観的な見方をすることがしばしば必要とされる事柄についてコメントしていくつもりである。」
ただのご挨拶なのに、なんでこんな高圧的で恐いんだ、こいつら・・・。
で、具体な中身はというと。
「しばらく前にKGBは、外国のある会社の代表が非合法に機密文書の写しを手に入れ、それをソ連から運び出そうとしている、という確実な情報を入手した。この機密文書には、ソ連通信工業省に所属する諸企業の輸入設備の需要と、その購入のために支出された外貨の情報が含まれていた。
この文書を国外に持ち出す試みは未然に阻止された。
捜査の過程でソ連通信工業省の中央研究所職員V・ラズーチンとV・シプントが、その文書を外国人に手渡したことが判明した。取り調べの結果、ふたりは常習犯であることも判明した。
今年の5月12日、モスクワ市裁判所は、V・ラズーチンとV・シプントの刑事事件を審理したのち、ロシア連邦共和国刑法第76条・第1項(職務上、知り得た機密情報を外国機関に手渡すこと)、および第173条(収賄)によって規定された罪を犯したかどで有罪判決を下した。
しかし、彼らの反省の態度と捜査協力に鑑み、それぞれに対して「財産没収と国民経済建設場への強制的な労働参加をともなう自由剥奪3年の刑」を、執行猶予つきで宣告した。
この件は残念ながら例外ではない。
機密情報と引き換えに物質的利益を得る目的で外国市民との接触を試みるソ連市民の犯罪はこの数年間に何度も摘発されている。さらには贈り物(正確には賄賂)に目のない者が、外国の特務機関の目に止まり、彼らの挑発に乗せられる事例も含む」
記事を読む限り、紹介された事件は西側企業による産業スパイ的なもののようです。
次の記事は「科学者から聖職者へ」
エブゲニー・ゲルツェスキーはベロルシア共和国(現ベラルーシ)のミンスクに住む39才。妻ナタリアと娘クセニアとの3人家族。
彼はもともとベロルシア科学アカデミー遺伝学・細胞学研究所の研究員でした。専門は農作物の染色体に対する中性子の影響。
そんな彼がロシア正教の司祭になったのはまさに「天啓」だったそうで。
ある日曜日、当時26才だった彼は、まったく偶然に生まれて初めてミンスク大聖堂にふらりと立ち寄った。そして足を踏み入れた瞬間「ここにしか自分の居場所はない」と悟ったのだとか。
うーむ・・・。ソ連の基準でも立派な奇人・変人です。というのもソ連では圧倒的多数の人々が無神論者だからで、当然のことながらゲルツェスキーの友人、知人はこぞって彼を思い止まらせようとしました。
ある友人は「宗教にうつつを抜かせるのはヒマな奴だけだ。研究職の君が聖職者になる時間なんてない」といい、別の友人は「遺伝学は前途洋々な分野で、活躍の機会はますます広がる」と説きます。両親は「息子が宗教の世界に入ったら、家族全体の社会的地位に悪影響をおよぼすかもしれない」と心配しました(記事では「当然、そんなことはなかった」とフォローするのを忘れていません)。後に妻となるナタリアとはまだ友人関係でしたが「文字通り、寝耳に水」で困惑しきり。それでも彼女は反対を口にすることはなく、彼の好きにさせてあげたそうです。愛やなぁ。
かくしてゲルツェスキーは信仰の世界に飛び込みます。
驚いたのはミンスク大聖堂の司祭長。見知らぬ若者がやってきて神学アカデミーへの紹介状を書いてくれと言ってきたのだから当然です。それでもアントニー府主教は律儀に紹介状をしたためてくれ、ゲルツェスキーはレニングラード神学アカデミー入学。5年後に卒業するとほどなくミンスクに戻り、司祭長になっています。
キリスト教つながりで「ロシア絵画の傑作」より。
アレクサンドル・イワノフ作「民衆の前にあらわれたキリスト」。
縦540センチ×幅750センチという大作で、1837年から57年まで20年もかけて描かれました。
主題であるキリストは画面の奥にいます。右端にはその姿を見てギョッとしているかのようなローマの騎兵。手前の群衆は実は奴隷です。この絵はトレチャコフ美術館に収蔵されているそう。
最後はレイアウト的になんとなく貼りそびれた党協議会の休憩時間の様子。せっかくスキャンしたのでもったいないから貼ります。
ソ連邦英雄である金星メダルをつけた人や、社会主義労働英雄であるの金の槌鎌メダルをつけた人。名誉労働勲章や民族友好勲章をつけた人がいます。
こちらもいわゆる群衆絵画のようです。
今回はこんなところで。
でわでわ~。
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