2017年4月6日木曜日

今日のソ連邦 1988年10月15日 第20号

どもです。
4月に入って桜も満開……と思ったら花見をする時間もないまま過ぎ去っていこうしております。なにしろツィッターが手軽なもんで、こっちの方がついつい後回しになってしまいます。
でも、やる時はやらねば。

というわけで今回の「今日のソ連邦」は、リトワ共和国(リトアニア)のシャウリャイという街の特集が組まれております。2013年7月の更新でソ連の切手を紹介した時、リトワ共和国のシャウリャイ市750周年記念のものがありましたが、そのシャウリャイです。

伝説によると現在のタルショス湖のほとりに人々が住み着いたのが始まり。ある者は森で狩りをし、ある者は湖で魚をとっていました。最初は小さな集落が点在していただけですが、人口が増えて「町」が出現すると、名前をつける必要が出てきました。すると森で狩りをしていた射手たち(リトアニア語で“シャウレ”)が、武器で漁師たちを脅し、町の名を強引に「シャウリャイ」と決めてしまいます。

漁師たちは湖の向こう岸にある小さな地域だけを、自分たちの職業の名前で呼ぶことができました。ジュミナンテというその地名は、現在、シャウリャイ市の「漁師通り」という名前に名残をとどめています。

だけど、その湖でとれる魚は、とても美味なことで評判になり、その後、何世紀にもわたってポーランドやリトアニアの王侯貴族の食卓を彩ります。漁師たちは森の狩人よりはるかに有名で豊かになったとのこと。
そんなわけで昔の人はこう言いました。「人生は力だけですべてが決まるわけではない」と。

もちろん、これはあくまで地元の昔話のひとつ。別の伝説ではリトワ公ザガロに仕えた大弓部隊(こちらもシャウレ)に敬意を評して町の名前になったというものもあります。



余談ですがリトアニアがまだソ連じゃなかった1920年代、ユスタス・パレツキスという男が「新しい言葉」という雜誌を出版しておりました。この雜誌、「シャウリャイ市の幽霊の生活から」という奇妙なコーナーを連載しており、そこには市内で幽霊を見た・出会ったという記事が満載。目撃地点の詳細な住所も書かれていたそうです。

ちなみに、このユスタス・パレツキス。後にリトアニア・ソビエト社会主義共和国の初代大統領になります。なるほど「人生は力だけですべてが決まるわけではない」と。

カラーページはそんな町の様子。コスプレしてる女性たちは「湖水まつり」に登場する水の妖精。ピノキオの壁画は預金を呼びかけるスローガン。利息は鼻みたいにぐんぐん伸びるんですかね? でもそれウソじゃ? ステンドグラスはシャウリャイ市750周年を記念して映画館に取り付けられたもの。1236年にリボニア騎士団の侵略から町を守った“サウレの戦い”が描かれています。



続くカラーページはシャウリャイ市でもっとも大きな工場の内部。テレビを生産しています。しかし、記事では、この工場が大問題を抱えており、ソ連の社会でもっとも重要視される生産計画(ノルマ)を達成できなかったことが述べられています。

事の発端は、180人もの女性従業員が一斉に辞表を提出したこと。そうでなくとも人手不足だった工場はパニック状態に。とうとう操業以来初となる生産ノルマの達成不能という事態を引き起こしてしまいます。

これはつまり、ここで働くすべて労働者が基本給に加算される割り増し金を受け取れず、企業の社会的発展基金(従業員の福祉目的)には1カペイカも入らず、さらに納期までに製品を出荷できなければ多額の罰金が課せられるということを意味します。

原因はあまりにもムダが多いこと。とっくに時代遅れで、ソ連市民でさえ見向きもしないテレビが延々と生産されていました。部品メーカーは納期も中身もデタラメで、不要な部品、使えない部品ばかりが届く始末。従業員は頻繁に異動するため、熟練工が育たず、新人労働者の賃金は低いまま。にも関わらず、監督官庁からの指示は高圧的で「いかなる犠牲を払っても生産第一!」「儲かろうが、儲かるまいが、生産せよ!」の繰り返し。

つまるところ現場の工場には何の権限もなく、労働者は自社製品に対する誇りを失い、品質やブランドに無関心になっていったのでした。まぁ、末期状態のソ連ではよくある話なのですが、こういった話があからさまに語られるようになったのがグラスノスチ(情報公開)であり、これをなんとかしようというのがペレストロイカなわけです。

そのペレストロイカを必死で進めているゴルバチョフ書記長ですが、画像はソ連お得意のイラストなのか写真なのかよくわからない肖像画。ゴルバチョフ氏といえば、頭のアザがトレードマークですが、見事に消されています。もっとも、ゴルバチョフ氏はこの手の修正を好まない人だったらしく、後に広く普及したカラー写真は修正されてないものになりました。

次はロシア人が大好きなキノコの話題。キノコは炒めてもよし、マリネや塩漬けにしてもよし、前菜にもなるし、スープにもソースにもなる。プディングにしてもいいし、トマトやカボチャの詰め物にしてもいい! 

今では東京の各地でも本格的なロシア料理が食べられるようになりましたが、それでも残念なのがキノコのバリエーションの少なさ。

東京に住むロシア人たちも、この点では祖国ロシアに圧倒的なアドバンテージがあると考えているようです。もちろん日本でも地方にいけば様々な種類のキノコに出会えるのですが、流通量の少なさはお話しになりません。

もちろんロシア人もお店で買ったりすることは少なく、ソ連時代はシーズンになると森に入ってせっせと集めていました。ロシア人たちは「キノコにとってどんな土壌が一番ふさわしいのか、どんな木のそばにどんなキノコが生えるのか」を熱心に学びます。たとえばヤマドリタケはアカマツやトウヒ、ナラの木の近くの乾燥した場所。キンチャヤマイグチはヤマナラシとシラカバが生えている林の草地。ハラタケ科のハニー・アガリクは腐ってボロボロになった古い木の切り株に、といった具合。

ロシア人がキノコ狩りに熱狂するのは、味もさることながら、お小遣い稼ぎになるから。雨の多い8月から9月にかけて、森を管理する共同組合は農村に出張所を置き、キノコの買い取りをするのだそうです。
「休暇の時は出費がつきもの。でも、美しい場所で休養しながら、同時に家計も補充できますよ!」とはプスコフ州(レニングラードから150キロ)のとある共同組合のキャッチコピー。実際、どれほど稼げるのかというと、1985年に記録されたプスコフ州の収穫量第一位は、なんと600キログラム。4人家族の一家がクルマで運び込んできたそうです。買い取り額はキロ1ルーブルで、合計600ルーブル。これは平均賃金の3カ月分になります。なるほど、必死になるものです。

さてキノコの記事に毒キノコの話題は出ませんでしたが、こっちは強烈な記事。
なんと「今日のソ連邦」にKGB議長のインタビュー記事が掲載されました。1988年9月2日付けのプラウダの記事の抄訳です。
画像を拡大しても見ることができますが、大した長さでもないので、この際、書き出します。

翻訳の問題もありますが、意味不明な独特な言い回しもあるので、日本で官僚答弁を駆使しなければならない人も参考になるかも?


タイトルは「ペレストロイカと国家保安委員会の活動」 ~チェブリコフ議長に聞く。
■KGBの主要任務
・・・あなたはソ連国家保安委員会(KGB)に長いこと勤務され、1982年から議長となられた。KGBの主要な任務はなにか?

「まず、我々の組織名の中心にある“保安”という言葉にご注目いただきたい。わが社会主義国家、わが社会の安全を保障することこそが、我々の主要な任務だ。我々はもちろん、たとえばソ連軍とは別の領域で安全を確保している。まずは外国の秘密諜報部の諜報・破壊活動、ならびに我が国の現体制の破壊と撲滅をめざす国内の反ソ・反社会主義分子の敵対行動を適宜に摘発、阻止することに全力を注いでいる。KGBの主要任務のひとつは国境警備だ。
 ソ連の法によって、祖国への背信行為、スパイ活動、テロ行為、破壊工作、密輸、特に大規模な為替操作規則違反、その他一連の国事犯に関する事件の捜査がKGBに課せられている。
 KGBにはまた、我が国におけるあらゆる種類の秘密通信への西側秘密諜報部の無線電子盗聴に対する科学技術的防衛、秘密通信の安全・管理の組織的原理の作成が課せられている。
 以上に挙げたことがKGBに課せられた任務のすべてではなく、任務は他にも沢山あることは言うまでもない。そのうちのいくつかについては、この対談の途中で触れると思う」

・・・全国でペレストロイカが実施されている。全国党協議会はこれをさらに徹底させる目標を立てた。これに関して、KGB内ではペレストロイカはどんな状態にあるのか、お聞きしたい。

「KGB指導部は根本的に重要な問題、つまり社会にできつつある新しい環境、新しい政治的・精神的空気のもとで働く各職員の能力を常に視野の中に据えている。
 プロとしての能力と法律知識を維持し、各職員によるソビエト法の精神と条項の無条件厳守を保障するためにいろいろなことが実施されている。
 KGBの各機関には、基本的には高等教育を受けたものが入る。彼らは労働の学校、ソ連軍での勤務、社会活動、党活動を体験してきている。
 将来の働き手たちは職員として編入された後、KGB機構の学校の一つで専門教育と法律教育を受けてから国家保安機関の各支部に派遣される」

・・・社会で進行している民主主義のいっそうの拡大のプロセスは、あなたの始動する機関の活動にどのように反映しているか?

「民主主義と公開性の拡大の過程では、我々の活動が社会の民主主義と公開性の拡大のプロセスと有機的に結び合わさった時に初めて、現在の条件のもとで我々に課せられている任務を十分に果たすことができるものと確信している」(この人が何言ってるのかわかりません! 誰か解説して!※ブログ主より)

・・・KGBと公開性……この二つの言葉を並べるのはちょっと変なような気がしないでもない。この点はどのようにお考えか?

「わたしはこの質問を待っていた。何もおかしなことはないと言える。我々は公開性を、勤労者と積極的に結びつく形態の一つと見なしている。なぜなら、我々の活動を国民に理解してもらいたければ、もっと我々の活動を公開しなければならないからだ。
 国の社会・政治生活のすべての分野で根本的な改革が行われている今、現段階の国家保安機関の活動を明らかにする補助的手段として、保安機関員の活動の様々な面を世論に知らせることが必要になってきたと思う。

■資本主義国の諜報・破壊工作
・・・現在、資本主義諸国の秘密情報機関の活動について言えることは何か? ソ連の国家安全保障のために具体的にはなにが行われているか?

「国際情勢のある程度の温暖化にも関わらず、帝国主義の一定の層は対決の方針を捨てていない。彼らはソ連に対する軍事的優位の実現、ソ連共産党の内外政策の信用の失墜、わが国家・社会体制の破壊と弱体化の方針を推進し続けている。資本主義諸国の秘密情報機関はお互いに密接に連携し合いながら事に当たり、対ソ諜報・破壊活動を強めている。

・・・具体例を挙げることはできないか?

「我々は、外国の秘密情報機関がスパイを使って、我が国の国防省、KGB、対外経済関係省、外務省、その他一連の官庁、重要な国民経済施設に浸透しようとしている確かな資料を手にしている。この2年半の間にKGB各機関は、スパイ活動をしていた資本主義諸国秘密情報機関の有害なエージェント20人あまりを摘発・起訴している。
 1986~87年には、外交官の身分にそぐわない活動によりNATO諸国の外交官および新聞記者50人あまりがソ連から退去させられ、そのうちの何人かはスパイ行為の現行犯で拘留された」

・・・秘密情報機関の技術手段の利用について言えることは?

「米国をはじめとする一連の資本主義諸国の諜報機関は、なかでも現代宇宙・電子工学の分野における最新の成果を積極的に活用している。ソ連国内でも米国秘密情報機関の活動には、スパイ活動と科学技術進歩との共生が見られる。ここ数年間にKGB各機関によって、米国やその他の西側の情報機関が我が国の機密に浸透するために使用してきたきわめて高価なで複雑な電子装置が少なからず取り除かれた。次が典型的な例だ。
 ソ連の沖合60㎞のオホーツク海の海底では、ソ連通信省の海底ケーブルから情報を盗聴するための米国製諜報装置を積み込んだ重量6トンの深海用大型コンテナ2個が発見され、除去された。この諜報装置システムには、ケーブルからの放射をキャッチする特別装置、盗聴した情報を記録する電子プログラム・システム、多回線磁気記録ブロック約100個、環境を放射能汚染しかねないプルトニウム238を使った原子力電源を備えていた。このシステムは海底ケーブルを伝って送られるすべての情報を一年間にわたって記録するように設計されていた。またビーコンも備えられており、米国情報機関はこれによって、収録した情報を回収するためにこれを素早く発見することができた。
 先進資本主義諸国においてだけでも、それらの秘密情報機関はここ3年半の間にソ連市民や代表部に対して6000件あまりの挑発行為をしている。これには爆破も、放火も、ありとあらゆる暴力行為もある。ソ連人の懐柔、帰国拒否の勧誘、誘拐、不法逮捕・監禁が常習的になってきた。きわめて危険な性質を帯びてきたのは、ソ連市民に対して、人間の神経状態に影響を与える特別の薬剤を用いるようになったということだ」

■国境警備の現状
・・・ソ連国境の警備はKGBの管轄なので、読者に代わってお聞きしたい。現在の国境の情勢は?

「基本的には安定している。安定が続いているのは、ソ連の進めている外交方針に大いにあずかっている。共通する国境の警備に関しては社会主義諸国と共同行動を進めている。最近、中華人民共和国との国境関係は大いに改善された。フィンランドとの国境状態は社会制度の異なる国家間の善隣と相互理解の模範となっている。
 その反面、ある人々がソ連国境近くに緊急の火種を作り出そうとしているのを見過ごすことはできない。
 外国諜報機関のスパイを合法・非合法に我が国に潜入させ、テロリスト、民族主義組織の密使を潜入させ、スパイ・破壊工作資金、過激な行動を煽る宣伝材料を送り込もうとする試みが続いている。たとえば化学物質、放射性物質、麻薬などの物資を非合法に国内に持ち込んだり、ソ連経由で運搬したりする、特に危険な形の密輸が後を絶たない。これはソ連の国際的責任の立場からも許すことはできない。
 国際テロリズムの急増を考慮するなら、国境警備隊の活動で現在とくに重要なのはテロリストをソ連に侵入させ、破壊・テロ工作資金をソ連に送り込もうとする試みを防ぐことだ。
 国境警備隊は税関と共同で密輸との闘いを進めている。ソ連国境では、年間平均総額1400万~1600万ルーブルの密輸品数十万点が差し押さえられている。ここ数年、ソ連国境警備隊員たちは国境通行検問所以外の地点で国境を突破しようとした武装密輸業者たちを一度ならず取り押さえている。このようなケースだけでも、この5年間に2トンを超える麻薬が押収された。

・・・ペレストロイカはと国境警備隊に影響を与えたか? その活動に何か新しいことが生じたかどうか?

「もちろんだ。ここではペレストロイカの眼目は、国境警備の信頼性を維持しながら、たえず拡大し続けている我が国の国際関係のためのもっとも有利な条件を作り出すことだ。国境通行検問所の数は増えており、通関手続きは簡素化され、人と貨物の通過を早めるためのその他の措置が講じられている。
 社会主義諸国との国境では、これらの国の国境警備隊員と共同の旅客・輸送機関監視制度が定められ、国境に接する地域住民の通行手続きは簡素化されている。
 国境地帯におけるソ連国民の活動制限を撤廃するため、ソ連の関係機関と共同で国境地帯縮小の措置が講じられている。国境地帯への乗り入れと異動の手続きが簡素化されている。このプロセスは続くだろう」


以上で、インタビューはおしまいです。1988年のインタビューということですが、なんか今も昔もあまり変わってないような。


最後はソ連の美術館が収蔵するロシアの名画を紹介するページ。ヴァシリー・ペロフの「トロイカ」です。画家の本名はワシリエフですが、彼はペロフと名乗ります。ロシア語でペンを意味するペローをもじったのだそう。きれいな字を書くことからつけられたあだ名でした。

題名の「トロイカ」は本来は三頭立ての馬車のこと。ここでは何を意味するかは明らかです。1866年に描かれた時には「水を運ぶ徒弟たち」という副題が付けられていたそうです。

この頃はちょうど農奴制度が廃止された頃なのですが、それで農民の生活が楽になるわけでなく、親たちは養えない子供たちを人身売買同然で都市部へと送り出していました。

ペロフはこの絵を描くにあたってモデルを探していたと言います。
街頭や市場を歩き回り、ようやくイメージに会う少年を見つけることができました。ペロフはすぐに一緒にいた母親にお金を差し出し、絵のモデルになって欲しいと頼みますが、相手は村から祭を見に来た普通の農婦だったのでびっくりし、画家が何を頼んでいるのか理解できなかったといいます。そこでペロフは自分のアトリエに母子を連れていき、人買いでないことを納得してもらったのだとか。

それから4年。絵はとっくに完成し、パーヴェル・トレチャコフの私設画廊に売れていました。後のトレチャコフ美術館です。そんなある日、ペロフは留守中にひとりの農婦が何度か訪ねてきたとの報告を受けます。それはモデルになった少年の母親でした。

ペロフは農婦を見つけ出しますが、その表情を見てすべてを悟ります。少年は病気でこの世を去っていたのでした。農婦はすべての財産を売払い、なけなしのお金で「トロイカ」を売ってもらおうとペロフの元を訪ねてきたのでした。しかし、すでに絵は売れた後です。ペロフはトレチャコフの画廊に農婦を連れていきました。彼女は「トロイカ」の前にひざまずき、長い間、祈りを捧げていたそうです。ペロフは彼女のために少年の小さな肖像画を描き、贈ったそうです。

今回はこんなところで。
でわでわ~。