そして本当にお久しぶりです。なんとか生きてますよー。
なんか忙しさにかませてダラダラしてたら(どっちだよ)、年が明けてしまいました。いや、お恥ずかしい限り。もっともソ連=ロシアでは正教会歴が浸透しており、1月7日に聖降誕祭と新年をお祝いするので、まだまだ正月気分でも良しとしましょう。
というわけで久々の更新。偶然にも新年にふさわしい雰囲気の表紙ですが、今日のソ連邦でこれほど全面に宗教色を出してくるのは珍しいことです。これもゴルバチョフのペレストロイカの影響でしょうな。
ざっと目次を見ますと、米ソ首脳会談の開催を控え、アメリカとの関係を総括するような記事が巻頭を飾っています。米ソが正式な外交関係を樹立したのは1933年ですが、その前の1918年にアメリカはロシア革命を阻止しようとアルハンゲリスクやウラジオストクに軍隊を送り込んでいます。いわゆる干渉戦争で、イギリスやフランスの他、日本も出兵しています。
まぁ、世界初の社会主義国家の成立を、帝国主義陣営が歓迎するはずがなかったわけですが、なんだかんだで記事にはアメリカへの恨み節がネチネチと書きつらねてあります。
しかし、今回のメインはロシア正教1000年祭に関する記事。
本誌が刊行されたのは1988年ですから、ロシアにキリスト教がもたらされたのは西暦988年ということになります。この年、キエフ・ルーシのウラジーミル大公は大がかりな国家改革を実行したのでした。
それ以前のロシアは、古い宗教に基づく族長制。これを当時のヨーロッパの最新国家体制であった封建制君主国へと変貌させるのが目的でした。彼はビザンチン帝国からギリシャ正教の司祭や知識人、哲学者などを呼び寄せます。ギリシャ正教が選ばれたのは、ロシア語による礼拝が可能だったからだそうです。他のキリスト教のことはよくわかりませんが、ラテン語あたりだったのかな?
ともあれ古代ロシアのすべての部族に統一された様式をもつ宗教が導入されました。ここにどんなメリットがあったのかといえば、当時の「未開国」と「文明国」を明確に分かつ基準がキリスト教だったからです。ロシアの商人たちはヨーロッパやビザンチンに出かけても、もはや野蛮人扱いされません。東方イスラム社会においても世界的な宗教の信徒として扱われ、それなりの待遇に格上げされたのです。
もちろんすべてが一夜にして変わったわけではありません。記事ではおよそ100年かかっただろうと言われています。でも、これロシアの国土面積を考えたらすごい早さであります。ほぼ同時期にキリスト教を受け入れたスウェーデンでは250年。ノルウェーでは150年かかったと記事は指摘しています。
とはいえロシアにも独自の大きな問題がありました。奴隷制度です。
この時代、特に珍しいものではありませんが、ロシアの場合、同じ民族を奴隷にして売買していることが教会から問題視されました。
ちろみに英語、ドイツ語、フランス語などで奴隷(スレーヴ)を意味する単語はスラヴ民族(ロシア人)が語源です。彼らはロシアから売り飛ばされてきた奴隷なわけですが、同じ宗教の信徒となればこれは認められないことになります。もっとも「農奴」はその後も延々と残るのですが。
ともあれキリスト教の導入はロシアに大変革をもたらしました。建築技術や芸術が発展し、金貨の鋳造も始まります。識字率が向上し、ロシア語で書かれた法典が整備され、農業においては野菜の栽培が始まりました。わたしも知らなかったのですが、それまでのロシアでは野菜や果実は採取するもので、作物ではなかったのですな。
このような輸入文化に、それまでのロシア独自の文化が混ざり合い、今日のロシア文化の基礎が出来上がります。その中心はキエフでした。ウラジーミル公は既にこの世にいませんでしたが、息子のヤロスラフ賢公ががんばります。彼はキエフをコンスタンチノープルに負けない大都会にしました。
しかし、それ以上に大きな目標は「ロシア国内で教育を受けたロシア人の知識階級」を生み出すことだったと言われます。というのも、ビザンチンはロシアの身元保証人のような地位にあり、しばしば干渉してきたからです。
ロシア正教会はギリシャ正教会の一府主教管区にすぎず、ロシアはビザンチンの属国でした。1051年までロシアでもっとも地位の高い府主教はギリシャ人が務めていたのです。彼が死ぬとヤロスラフ賢公は、ビザンチン(ローマ)皇帝にもコンスタンチノープル総主教にも相談することなく、全ロシアの主教を招集し、ベレストボ村のロシア人司祭イラリオンを府主教に据えます。かくしてロシア正教会は確固たる足場を固めたというわけでした。なるほどなぁ。
さて、写真はゴロドニャの聖母誕生教会のアレクセイ・ズロビン神父。父親は軍の将校で共産党員でもあったそうですが、祖母の影響で信仰の道に進んだのだとか。記事では一切、言及されてませんが、いろいろ苦労があったんじゃなかろうか。
ゴロドニャはモスクワの北西150キロ、カリーニン市近郊にある小さな町です。創建600年の名刹で16世紀に建てられた教会は国の保護文化財に指定されています。
修復と保存の作業はカリーニン市の宗教局(公的機関なのかは言及がありません)が資金を提供し、ソ連文化省の全ソ生産科学修復委員会が実作業を担当しました。なんでこんな大事になったのかというと、床下と地下の物置で大量のフレスコ画の破片が発見されたからです。
18世紀に食堂を増築した時、本堂との間にアーチ状の構造物が作られ、その際、不要となった壁が取り払われたのですが、その破片が捨てられずに残されていたというわけです。破片の一部は復元され、カリーニン市の美術館に保存されているそうです。
他にも面白い発見がありました。壁を修復するために劣化したモルタルを剥がすと、そこから絵があらわれたのです。画像右下の線画です。教会の壁なのに宗教とはまったく無関係な絵柄で、髭を生やした農民や馬、若い女性の絵などが描かれていたそう。職人のラクガキだったのでしょうか?
次は西ウクライナ・リボフ市の北東にある男子修道院の話題。テルノボリ州ポチェエフ市にあるポチャエフ聖母昇天祭修道院です。ごらんの通り、見栄えのよい立地に荘厳な建物。というわけで修道僧や信徒に関係なく、観光客も大勢訪れる場所だそう。
修道士は現在、50人ほどが在籍。毎朝5時に起床し、礼拝や信徒との相手の他、庭仕事や台所、ガレージ、見学者の案内などを役割分担しています。食事は日に2度。12時10分と20時15分。あとはひたすら修行の日々です。
上述したアレクセイ神父もそうですが、ソ連市民でありながら修道院に入るというのはどんな事情があるのか気になります。修道院長によれば「修道僧たちは俗世間への軽侮があるわけではなく、ソ連社会から孤立しているわけでもない。日々、全世界の平和。祖国の幸福と繁栄、そこに住むすべての人の救済を願い祈りを捧げています」とのこと。
まずはカトリック。ソ連では主にバルト三国(ラトビア・リトアニア・エストニア)で信仰されています。
春の祭りというのは特定の宗教名とは思えませんが、タジキスタンの新年のお祝い。イスラム教ともまた違うもののようです。
福音パプテストはプロテスタントの一種。ソ連では1944年に誕生した宗派です。プロテスタントだからといってドイツと関わりを短絡的に結びつけるのもアレな気がしますが、1944年という時代背景や信徒が極東、中央アジア、シベリアと散り散りになっているあたり、グルジア出身のオッサンの影を意識してしまいます。
イスラム教徒はソ連ではロシア正教に次ぐ宗教人口。ソビエト時代になってからもコーランが7回刊行されるなど、当局もそれなりに気をつかっています。記事には書かれていませんが、ソ連では毎年、チャーター機でメッカに信徒を送迎したりもしていました。
仏教の代表はラマ教。写真はソ連仏教徒中央宗務局議長であるバンジド・ハンボラマ・ジャムジャムソ・ズルドイネーエフ師。ブリヤート自治共和国の出身だそうです。
最後はユダヤ教。シナゴーグ(教会)ではマッツォと呼ばれる発酵させないパンを売っています。信徒でなくても買えるので教団の貴重な収入源なんだとか。また、教会の座席をチケット制にして年間リザーブシートとして信徒に販売し、それも収入源になっているとか。つーか、なんでユダヤ教の紹介記事だけ「お金の話」が強調されているんでしょ?
最後に、いかにもソ連らしい記事から。
ズバリ「教会に通うのを禁止できるか?」というタイトルです。
もちろんソ連でも憲法第52条で「宗教・信仰の自由」が保証されています。しかし、実際には抜け道がいくつもありました。たとえば子供の洗礼の際、両親は教会に身分証明書を提出しなければなりませんでした。もちろん、この記録は当局が自由に閲覧することができます。そうすることで教会に通う人間を把握し、彼らに簡単に圧力を加えることができるというわけです。これは1980年代に入り、正式に裁判で「違法である」と公言されました。
逆にいえば、それまでは苦難の歴史だったわけです。たとえば西ウクライナのイワノフランコスク州では、1962年から1987年までの間、新しい教会がほとんど作られませんでした。その一方で州政府当局は次々と教会を取り壊していきます。閉鎖されたまま朽ち果てたり、ダム湖の底に沈んだ教会もありました。
記事では「行政機関の職員が宗教に関する法律に精通していない」「信者をイデオロギー敵として扱い、不信の目で見ている」など指摘。続いて「我々は西側の真のイデオロギー敵とは普通の人間の言葉で話すのに慣れているのに、社会主義の国に生まれ育った自分たちの市民に対しては、必ずしも自国のきわめて人間的な法律を適用していない」と皮肉っています。
まぁ、これもひとえにペレストロイカで風向きが変わったからなわけですが、ソ連崩壊後、心の拠り所を無くした人々の心にカルト宗教が蔓延していくのも事実なので、なんとも難しい問題です。
次の特集は「バラライカの100年」。ロアナプラに住んでる恐ろしい女性のことではありません。楽器のバラライカです。三角形の特徴的な胴。3本の弦を指でつまびくピチカート奏法で演奏します。
ルーツはよくわかっていませんが、現代の形になったのはワシーリー・アンドレーエフなる人物が深く関わっています。彼は作曲家であり、優れた演奏家でした。それまで土着の民族楽器だったパラライカを洗練された楽器へと昇華し、ソロコンサートやオーケストラとの共演にも耐えうる楽器にしました。そのアンドレーエフが初めてソロコンサートを行ったのが1886年。ペテルブルクでのことでした。
アンドレーエフはその後も楽器の改良を続け、通常のバラライカ(別名ピッコロ)、プリマ、セクンダ、アルト、バス、コントラバスの6種類を考案します。それぞれ音域が違い、これらを組み合わせることでオーケストラ・アンサンブルを生み出せるようになったわけです。ちなみに普通のパラライカは全長60~70センチですが、コントラバス・バラライカは全長170センチもある巨大なものです。初めてみた時はコンコルドの模型かと思いましたよ。
アンドレーエフと彼のアンサンブルは、1908~1911年にかけて断続的に演奏旅行を行い、アメリカ、ドイツ、イギリス、フランスなどで成功を収めました。それまでバラライカには舞踏曲しかなかったのですが、彼はゆったりとしたテンポのロシア民謡などもレパートリーに取り入れ、大層な人気だったそうです。ヨーロッパの社交界はちょっとしたロシアブームになり、バラライカの楽曲から名前をとった香水まで売り出されたというから大したものです。
今回はこんなところで。
追記:おかげさまで「ミリタリー服飾用語事典」は各方面からご好評いただいております。ただ「イラストが少ない」と指摘されることもしばしばで申し訳ないです。ビジュアル面も充実させたかったのですが、総ページ数との兼ね合いもあり、あのような形に相成りました。
その代わりと言ってはなんですが、各章のトビラにある各国軍の正式名称とアイテム名のふたつのキーワードで画像検索すると、そこそこの確率で該当する軍装品の画像が出るとのことですので、ご活用いただければ幸いです。
引き続き、よろしくお願いいたします。
改めまして、本年もよろしくお願いいたします。
でわでわ~。