
年始のご挨拶は別として、2017年最初の更新です。
さて、今日のソ連邦。まずは「党生活における新しいもの」「党の指導的役割の法制化」「「準備すすむソ連の法改革」などといった記事からスタートしています。
ゴルバチョフのペレストロイカが本格的に始動したことで、ソ連共産党の内部では、てんやわんやといった様子。特に党内部での選挙で選ばれる役職については、5年任期、連続2期までという決定が成されたことが大きな注目を集めています。
この一連のキャンペーンは事実上「すべての党組織を巻き込む大規模なものになる」と記事では述べています。それはソ連共産党内部にある73万におよぶ党員グループと52万以上の職場党組織、党の基盤を構成する44万2000の初級党組織、4600余りにおよぶ地区、市、管区、州、地方の党委員会が含まれます。

これは当然、組織の肥大化と利権と腐敗を生み出したわけで、記事では、ソ連共産党を国家機関や経済機関の代役とすることをやめさせることが必要だと主張し、これを実現するために憲法改正の動きがあることにも触れています。
ペレストロイカはソ連の司法改革にも乗り出しています。かつてソ連の法律専門家の間では「裁判官は独立しており、地区委員会にのみ服従している」という笑えない冗談が流布していたそうですが、これを名実ともに完全に独立したものにしようというわけです。

これはペレストロイカによって大量の法的問題が顕在化したことに対する措置で、新しい経済運営形態の出現、、個人労働活動の急激な拡大、あらゆるレベルで進行しつつある民主化プロセスなどといった現象に、ソ連の従来の法体系が対応できなくなっていることの裏返しのようです。
さて、次は表紙にもなっている「弱者をいたわる社会を」という特集記事です。主として「児童福祉問題」がメインに据えられています。対外的には福祉大国を標榜していたソ連ですが、もちろん問題がないわけではなく、育児放棄や虐待などが普通にあり、そうした被害にあった子供たちを親から引き離し、収容する福祉施設が各地にあります。

とはいえ、これを1980年代に当てはめるというのも無理があります。筆者は自分のもとに送られてきた一通の手紙を紹介しています。
「わたしたちの息子のワロージャはアフガニスタンで戦死しました。わたしは走り、叫び、這い、すべての人の足にキスをするでしょう。自分がずたずたに引き裂かれてもかまいません。息子が生き返ってくれるなら」
・・・これが母親というものなのだ! しかし世の中には違う母親もいる。
ソ連でも0才から3才までの孤児を預かる施設がありますが、本当の意味での孤児はわずかでしかなく、ほとんどは両親が健在であるにも関わらず、孤児同然にされた子供たち。親たちは大酒飲み、麻薬中毒などで、本来なら子供など持つべきではない人々です。

さらにアフガニスタンから帰還した傷病兵、チェルノヴィリ原発事故で住む家を失った人々など、助けが必要なのに国家の支援がない人々が大勢おり、国家の支援が追いついていないのが現状です。
こうした問題は、プロパガンダにも原因がありました。人々の意識に「すべてのソ連市民は生活が保証されており、幸福である」という言葉が、常識として浸透していたせいで、人が集まる場所に募金箱が置かれるようなことはなかったのです。
しかし、この頃から募金活動やチャリティバザー、寄付、ボランティア活動などが、ソ連社会でも当たり前になっています。
何も恥ずべきことはない。
わたしたちはやっと人間に顔を向けたのだ。
と記事では結んでいます。

さて、次はソ連の観光名所めぐり。

ロシアの古都「カリーニン」へご案内しましょう。 といってもカリーニンとは、本来なら革命家ミハイル・カリーニンのこと。この街は彼の出身地であることからソ連時代に改名されました。
元の名前は「トヴェリ」【Тверь】。1990年以降はこの「トヴェリ」に名前が戻されています。
モスクワの北西150キロ、ボルガ河上流にある街で、華やかで重厚な歴史的建造物が多く残ります。街を整備したのはエカテリーナ2世で、モスクワとペテルブルグを結ぶ幹線道路の途中にあることから、ふたつの都市に負けない景観となったそうです。
第二次世界大戦ではドイツ軍に2カ月ほど占領され、街は手ひどく破壊されますが、が、 戦後に復興。街の中心にはファシストからの解放を記念して、最初に市内に突入したT-34戦車が特別な台座にすえられてモニュメント【Памятник танк Т-34】となっています。

ソ連におけるユダヤ人の位置づけには面倒なものがあります。ロシア・東欧にはポグロムと呼ばれる迫害の歴史があり、ソ連時代にも偏見は根強くありました。
その一方で、ソ連共産党の指導部にはユダヤ人も多くいましたし、またドイツの絶滅収容所から多くのユダヤ人を解放したという武勇伝もあります。
しかし、中東問題についてはアラブ・パレスチナ寄りで、イスラエルべったりのアメリカとも敵対。とはいっても国内のユダヤ教徒に対しては、この記事で紹介されてるように気を使っていることも伺えるわけで、
ややこしや~。
さてまずは一般論。ソ連に生まれながら、よりにもよって信仰心に目覚め、自分の人生を宗教活動に捧げたいと考えた若者は、どこに行けばいいのか?

イスラム教は中央アジアのブハラにミル・アラブ・イスラム中等学校と、タシュケント(ウズベク)にイスラム大学があります。
グルジア正教会、アルメニア正教会、バルト諸国のプロテスタントもそれぞれ学校があります。
で、ユダヤ教ですが、こちらはモスクワのコラール会堂(シナゴーグ)にタルムード学院が置かれています。ユダヤ教の聖職者を目指す若者は、まずカントール(礼拝式の主唱者)になるため、このタルムードで3年から5年学び、その後、ラビ(ユダヤ律法博士)を目指します。
しかし、ラビの称号を与えることができるのはハンガリーの首都ブダペストにあるユダヤ教神学校のみで、ソ連からは海外留学という形になります。ちなみにイスラエルにも行こうと思えば行けなくはありませんが、大抵の場合は片道切符で、留学ではなく、亡命とか国外追放と呼ばれます。
この記事の主役であるアウレフ・カジエフは35才。妻と二人の子供がいて、父は織物工場の労働者、母は小売業の店員。現在はふたりとも年金生活者です。カジエフはタシュケントに4つあるシナゴーグのひとつで、ラビ代行者を務めています。
教徒たちはブハラ・ユダヤ人と呼ばれる人たちで、学術的には中央アジア系ユダヤ人と呼ばれます。12世紀頃、ブハラ汗国にやってきて、そのまま定住した商人たちの末裔だと言われています。カジエフは、もともとタシュケント大学地理学部の学生で、卒業後も修士課程にすすんで人口論の修士論文を書いていました。しかし、ある日、訪れたシナゴーグの聖職者たちがあまりにも高齢であることに驚き、後継者となる決心をしたのでした。
ちなみにカジエフは、すでに結婚していましたが、妻のマゾルは賛成は反対もしませんでした。賛成しなかったのは「今どきラビになっても若者たちの間ではそれほど名誉なことではない」からで、反対しなかったのは「夫の性格を知っていたから」だそうです。
この記事は、カジエフが出発する直前に書かれました。ブダペストでの留学生活は7年に及ぶのだそうです。
最後は極東の話題。
アムール河沿岸に居住する少数民族の人々が作り出す伝統工芸品が、ハバロフスクの展覧会に出品されたという記事です。
ナナイ人、ウルチ人、ウデゲ人、ニブフ人の作家が出品しました。写真の女性はナナイ人作家のタチヤナ・ホジュール。73才です。
1932年、彼女はナナイ人の定住地としてソ連政府に指定されたエモロンの地で結婚しました。婚礼衣装を作ったのは村一番の名人だった母のザラクタ。この時、タチヤナも伝統工芸を学ぶことになったのです。
しかし、幸せな夫婦生活は長続きしませんでした。1941年。夫のコンドは、ドイツとの戦争のために出征し、そのまま帰らぬ人となったのです。戦死公報には「あなたの夫、コンド・ホジュールはファシストとの戦闘で勇敢な死を遂げられました」という定型文がタイプしてあっただけでした。中央アジア出身のソ連兵の話はよく聞きますが、極東の少数民族までが徴兵されていたというのは、場合によっては民族消滅の危機もはらんでいたわけでイヤな話です。
今回はこんなところでしょうか。
でわでわ~。