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2017年9月18日月曜日

今日のソ連邦 1988年12月1日 第23号

 どもです。とんでもなく間が開きましたが、何事もなくヌケヌケと生きております。まぁ、スキャナの調子が悪いとか、PCのOSを入れ替えたりとか、暑いとかミサイルとか台風とかありましたが。

 さて、今回の今日のソ連邦はなんともキャッチーな表紙です。コスモリョート・ブランにエネルギア・ブースター。打ち上げ準備中の写真です。
 何事も秘密主義のゾ産では、こうしたプロジェクトは成功してから発表するのが決まりでした。ましてシャトルは打ち上げるだけでは駄目で、無事に帰還しなくてはいけません。この段階での写真公開は極めて珍しいと言えます。もちろん無事に打ち上げは成功し、帰還も果たしました。しかも無人操縦で着陸までやってのけたのです。

 ちなみに「ソ連のシャトルはアメリカのコピー」という記事を時折、目にすることがありますが、1965年に撮影された写真ではガガーリンと共に風洞モデルが写っており、ソ連でもかなり早い時期から研究されていたことがわかっています。

 ソ連はそれまで「ソユーズ・ロケットの輸送効率はシャトルを上回っており、シャトルを開発する必要はない」と主張しており、この時まで実現しなかったのも、優先順位が低かったものと思われます。実際、ブランはこのたった一度きりの飛行でお蔵入りしてしまい、アメリカのシャトルも事故が続いて博物館送り。現役はソユーズ・ロケットのみという現実を見ると、米ソの違いなく、シャトルは泡沫の夢だったのだなぁと寂しい気もします。
 特に打ち上げどころか、最低限のメンテナンスの予算すらないまま、建物と一緒に崩壊してしまったブランとエネルギアの哀れな姿は泣けてきます。 
 もっとも、この頃からソ連邦そのものの土台も徐々に傾き始めますから、宇宙開発どころじゃなくなってくるのですが。
 
 本紙では1988年1~9月期のソ連経済全般の指数が掲載されています。どれも横ばいか増加で、住宅供給戸数が大幅なマイナスになっているぐらい。
 しかし、「工業生産高」が1986年に対して1987年は3.6のプラス。1987年に対して1988年は4.3のプラスといった具合で具体的な金額はわからず、そもそも指数なら基準となる「1」はいつの話なのか、ということもわかりません。
 もしかすると1917年を「1」としている可能性がマジでありますが。 

 まぁソ連国家統計委員会にかかれば、どんな悲惨な経済指数も大勝利の業績にすることができるらしいのですが、それでもいくつかの恐ろしい数字を見つけることができます。

 上半期に国家検査総局によって検査された食肉の5.6%、ソーセージ製品の6.3%、マーガリンの10.9%、砂糖と乳製品の4.3%、魚・果実・野菜の缶詰の10%が不合格だったとか。食糧事情は一向に改善しないどころか、ますます悪化していくのが見て取れます。

 他にも国民経済コンプレクスの活動指数なるものもありますが、たとえば機械製造コンプレクスの製品供給契約の遂行率が98%で、遂行できなかった企業の割合が47%。利潤計画の遂行が104.1%のプラスで、実質成長率は6.3%のプラス。
 ・・・・・・頭がおかしくなりそうです。
 ちなみに労働者・職員の月平均貨幣賃金は1987年の201ルーブルに対して、214ルーブル。コルホーズ労働員のそれは147ルーブルに対して155ルーブルと発表されています。

 次の話題はリトワ共和国から。現在のリトアニア共和国のことです。画像の街はスネチクス市。1970年代末期に建設された都市で、8キロほど離れたイグナリナ原発の従業員と建設関係者、その家族のために作られた街です。これはチェルノブイリ原発とプリピャチ市の関係と同じで、こうした歴史的・文化的背景を持たない原発城下町はソ連の至るところにありました。
 イグナリナ原発はチェルノブイリと同じRBMK-1500型原子炉が2基稼働しており、3号基の建設もすすめられていました。しかし、チェルノブイリ原発事故(1986年)を受けてリトワ共和国閣僚会議は予算支出を一時停止します。(この記事の時点では建設延期というわけですが、翌89年に正式に建設中止が決定されます)
 ちなみに1号機と2号機はそのまま操業を続け、ソ連崩壊後もリトアニア共和国の管轄下で電力を供給しますが、EU加盟交渉の過程で廃炉が決定。2004年と2009年に運転を停止しています。現在は隣接地にヴィザナギス原発の建設が予定されていますが、様々な情勢変化の中で決定は二転三転し、果たして本当に完成するのかは怪しい状況です。

次はクリスタルガラスの工芸品で有名な街の記事。モスクワの東230キロにある人口8万の小さな街の名は「グーシ・フリスタルヌイ」。ずばり「グーシ河畔のクリスタルガラス」という名前です。ロシアで最初にクリスタルガラスの生産を初めて街でもあります。
 16世紀半ば、モスクワの商人アキム・マリツォフは、豊富な珪砂とアカマツの大森林に目をつけ、ここにガラス工場を建設しました。グーシ・フリスタルヌイはこの時、職人たちを住まわせた小さな集落に付けられた名前です。会社名がそのまま社宅になってるようなものでしょうか。といっても本格的なガラス製品はほとんど作られず、メインは馬車のランプ用のガラスでした。
 19世紀に入るとロシア皇帝から製品に国章を付け、宮殿に納品することが認められます。そして1883年にシカゴの万国博で銅メダルを授与されると、一気に生産が拡大します。ソ連になっても貴重な外貨収入源として重視され、日本にも輸出されています。

次はソ連でも人気の日本文学について。今回は川端康成をめぐる日ソ共同シンポジウムとからめた記事です。この記事の原文は日本語で書かれており、執筆者のキム・レーホ氏はシンポジウムのソ連側代表団長です。プロフィールには「キム・レチュン」という名前も併記されており、朝鮮系ソ連人の方のようです。
 ソ連では1981年から「現代小説の巨匠たち」というシリーズが刊行されており、川端康成の作品集はその一冊。ロシア語だけでなく、ウクライナ語、ラトビア語、リトワ語、エストニア語、アルメニア語、グルジア語、アゼルバイジャン語、キルギス語に翻訳された短編集も刊行されています。それらすべてを合わせた総部数は100万部に達するとのことで、読書好きのお国柄が伺えます。画像は様々な国で刊行されてる表紙や挿絵を集めたもの。「いかにも」なデザインから抽象的なものまで様々です。
 シンポジウムでは川端文学の成り立ちや背景について専門的な議論がかわされましたが、翻訳の問題についても意見交換が成されました。たとえば雪国の冒頭。
 原文では
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった」ですが、
 記事ではこの文のロシア語訳を再び日本語に訳し直したものが紹介されてます。
「二つの地方のくにざかいにある長いトンネルを抜けて汽車は信号所に止まった。ここから雪国が始まる。夜が明るくなってきた」
 となるのだそう。それまで国境は「コッキョウ」と読まれていましたが、「クニザカイ」と読むことで、その語義を理解するよう務めたとのこと。
 しかし、その一方でキム氏は「この訳には時間の感覚が欠けている。国境の長く黒いトンネルを抜けたその瞬間に現れた雪国の世界の瞬間美が打ち消されてしまっている」とも批判してもいます。「信号機が止まった後にみる雪国の感覚はまた異なったもので、ここでは散文詩が蒸発してしまっている」と。なるほどニュアンスはだいぶ違います。どこの国でも翻訳は大変なのですね。

最後はアレクサンドル・グゼーエフの「ソ連極東の四季」という絵画。ロシアでは一年は夏から始まります。新学期も9月から。
 ところでこのグゼーエフという人、別に巨匠というわけではなく、有名というわけでもありません。ハバロフスク出身のグゼーエフ(40)は同市の美術家同盟にも登録されていない人物。といってもアマチュアではなく、芸術生産工房でデザイナーとして働いています。商店のショーウィンドーをデザインし、看板のイラストを描き、先輩画家のためにカンバスの下塗りも引き受ける。要するに職人なわけです。
 しかも本業以外で描いた絵は全部タダ。「タクシー運転手になった方が稼げる!」と主張する奥さんから離婚(これだけで党員じゃないこと確定)されてしまいますが、本人は黙々と絵を描いています。

 グゼーエフはノボシビルスク州スズノ村出身。5才の時から絵を描き始め、中等学校高学年の時に地区文化会館の画家イワン・コフコの弟子になります。中学卒業後は徴兵されて極東の部隊に配属されますが、ここでも絵を描き続けます。それが将校たちの目に止まり、歩兵中隊ではなく将校クラブの美術主任に回されます。
 除隊後も文化会館で「実入りの悪い仕事」に従事しますが、ある時、転機が訪れます。先輩の画家が病気になり、地元の郷土博物館に収めるはずの絵が描けなくなってしまったのです。グゼーエフは例によって無償で代役を引き受けますが、その絵がソ連共産党ハバロフスク地方委員会の財務部長ミハイル・シェミシャンの目に止まります。
 彼の依頼で委員会の建物に飾る絵を描くわけですが、それがここで紹介されている「四季」というわけです。彼の絵はその後、キューバのラウル・カストロや中国の政府代表団にも贈られるほどに。ソ連ではちょっと珍しいタイプのサクセス・ストーリーです。

では、今回はこんなところで。
でわでわ~。


2017年4月6日木曜日

今日のソ連邦 1988年10月15日 第20号

どもです。
4月に入って桜も満開……と思ったら花見をする時間もないまま過ぎ去っていこうしております。なにしろツィッターが手軽なもんで、こっちの方がついつい後回しになってしまいます。
でも、やる時はやらねば。

というわけで今回の「今日のソ連邦」は、リトワ共和国(リトアニア)のシャウリャイという街の特集が組まれております。2013年7月の更新でソ連の切手を紹介した時、リトワ共和国のシャウリャイ市750周年記念のものがありましたが、そのシャウリャイです。

伝説によると現在のタルショス湖のほとりに人々が住み着いたのが始まり。ある者は森で狩りをし、ある者は湖で魚をとっていました。最初は小さな集落が点在していただけですが、人口が増えて「町」が出現すると、名前をつける必要が出てきました。すると森で狩りをしていた射手たち(リトアニア語で“シャウレ”)が、武器で漁師たちを脅し、町の名を強引に「シャウリャイ」と決めてしまいます。

漁師たちは湖の向こう岸にある小さな地域だけを、自分たちの職業の名前で呼ぶことができました。ジュミナンテというその地名は、現在、シャウリャイ市の「漁師通り」という名前に名残をとどめています。

だけど、その湖でとれる魚は、とても美味なことで評判になり、その後、何世紀にもわたってポーランドやリトアニアの王侯貴族の食卓を彩ります。漁師たちは森の狩人よりはるかに有名で豊かになったとのこと。
そんなわけで昔の人はこう言いました。「人生は力だけですべてが決まるわけではない」と。

もちろん、これはあくまで地元の昔話のひとつ。別の伝説ではリトワ公ザガロに仕えた大弓部隊(こちらもシャウレ)に敬意を評して町の名前になったというものもあります。



余談ですがリトアニアがまだソ連じゃなかった1920年代、ユスタス・パレツキスという男が「新しい言葉」という雜誌を出版しておりました。この雜誌、「シャウリャイ市の幽霊の生活から」という奇妙なコーナーを連載しており、そこには市内で幽霊を見た・出会ったという記事が満載。目撃地点の詳細な住所も書かれていたそうです。

ちなみに、このユスタス・パレツキス。後にリトアニア・ソビエト社会主義共和国の初代大統領になります。なるほど「人生は力だけですべてが決まるわけではない」と。

カラーページはそんな町の様子。コスプレしてる女性たちは「湖水まつり」に登場する水の妖精。ピノキオの壁画は預金を呼びかけるスローガン。利息は鼻みたいにぐんぐん伸びるんですかね? でもそれウソじゃ? ステンドグラスはシャウリャイ市750周年を記念して映画館に取り付けられたもの。1236年にリボニア騎士団の侵略から町を守った“サウレの戦い”が描かれています。



続くカラーページはシャウリャイ市でもっとも大きな工場の内部。テレビを生産しています。しかし、記事では、この工場が大問題を抱えており、ソ連の社会でもっとも重要視される生産計画(ノルマ)を達成できなかったことが述べられています。

事の発端は、180人もの女性従業員が一斉に辞表を提出したこと。そうでなくとも人手不足だった工場はパニック状態に。とうとう操業以来初となる生産ノルマの達成不能という事態を引き起こしてしまいます。

これはつまり、ここで働くすべて労働者が基本給に加算される割り増し金を受け取れず、企業の社会的発展基金(従業員の福祉目的)には1カペイカも入らず、さらに納期までに製品を出荷できなければ多額の罰金が課せられるということを意味します。

原因はあまりにもムダが多いこと。とっくに時代遅れで、ソ連市民でさえ見向きもしないテレビが延々と生産されていました。部品メーカーは納期も中身もデタラメで、不要な部品、使えない部品ばかりが届く始末。従業員は頻繁に異動するため、熟練工が育たず、新人労働者の賃金は低いまま。にも関わらず、監督官庁からの指示は高圧的で「いかなる犠牲を払っても生産第一!」「儲かろうが、儲かるまいが、生産せよ!」の繰り返し。

つまるところ現場の工場には何の権限もなく、労働者は自社製品に対する誇りを失い、品質やブランドに無関心になっていったのでした。まぁ、末期状態のソ連ではよくある話なのですが、こういった話があからさまに語られるようになったのがグラスノスチ(情報公開)であり、これをなんとかしようというのがペレストロイカなわけです。

そのペレストロイカを必死で進めているゴルバチョフ書記長ですが、画像はソ連お得意のイラストなのか写真なのかよくわからない肖像画。ゴルバチョフ氏といえば、頭のアザがトレードマークですが、見事に消されています。もっとも、ゴルバチョフ氏はこの手の修正を好まない人だったらしく、後に広く普及したカラー写真は修正されてないものになりました。

次はロシア人が大好きなキノコの話題。キノコは炒めてもよし、マリネや塩漬けにしてもよし、前菜にもなるし、スープにもソースにもなる。プディングにしてもいいし、トマトやカボチャの詰め物にしてもいい! 

今では東京の各地でも本格的なロシア料理が食べられるようになりましたが、それでも残念なのがキノコのバリエーションの少なさ。

東京に住むロシア人たちも、この点では祖国ロシアに圧倒的なアドバンテージがあると考えているようです。もちろん日本でも地方にいけば様々な種類のキノコに出会えるのですが、流通量の少なさはお話しになりません。

もちろんロシア人もお店で買ったりすることは少なく、ソ連時代はシーズンになると森に入ってせっせと集めていました。ロシア人たちは「キノコにとってどんな土壌が一番ふさわしいのか、どんな木のそばにどんなキノコが生えるのか」を熱心に学びます。たとえばヤマドリタケはアカマツやトウヒ、ナラの木の近くの乾燥した場所。キンチャヤマイグチはヤマナラシとシラカバが生えている林の草地。ハラタケ科のハニー・アガリクは腐ってボロボロになった古い木の切り株に、といった具合。

ロシア人がキノコ狩りに熱狂するのは、味もさることながら、お小遣い稼ぎになるから。雨の多い8月から9月にかけて、森を管理する共同組合は農村に出張所を置き、キノコの買い取りをするのだそうです。
「休暇の時は出費がつきもの。でも、美しい場所で休養しながら、同時に家計も補充できますよ!」とはプスコフ州(レニングラードから150キロ)のとある共同組合のキャッチコピー。実際、どれほど稼げるのかというと、1985年に記録されたプスコフ州の収穫量第一位は、なんと600キログラム。4人家族の一家がクルマで運び込んできたそうです。買い取り額はキロ1ルーブルで、合計600ルーブル。これは平均賃金の3カ月分になります。なるほど、必死になるものです。

さてキノコの記事に毒キノコの話題は出ませんでしたが、こっちは強烈な記事。
なんと「今日のソ連邦」にKGB議長のインタビュー記事が掲載されました。1988年9月2日付けのプラウダの記事の抄訳です。
画像を拡大しても見ることができますが、大した長さでもないので、この際、書き出します。

翻訳の問題もありますが、意味不明な独特な言い回しもあるので、日本で官僚答弁を駆使しなければならない人も参考になるかも?


タイトルは「ペレストロイカと国家保安委員会の活動」 ~チェブリコフ議長に聞く。
■KGBの主要任務
・・・あなたはソ連国家保安委員会(KGB)に長いこと勤務され、1982年から議長となられた。KGBの主要な任務はなにか?

「まず、我々の組織名の中心にある“保安”という言葉にご注目いただきたい。わが社会主義国家、わが社会の安全を保障することこそが、我々の主要な任務だ。我々はもちろん、たとえばソ連軍とは別の領域で安全を確保している。まずは外国の秘密諜報部の諜報・破壊活動、ならびに我が国の現体制の破壊と撲滅をめざす国内の反ソ・反社会主義分子の敵対行動を適宜に摘発、阻止することに全力を注いでいる。KGBの主要任務のひとつは国境警備だ。
 ソ連の法によって、祖国への背信行為、スパイ活動、テロ行為、破壊工作、密輸、特に大規模な為替操作規則違反、その他一連の国事犯に関する事件の捜査がKGBに課せられている。
 KGBにはまた、我が国におけるあらゆる種類の秘密通信への西側秘密諜報部の無線電子盗聴に対する科学技術的防衛、秘密通信の安全・管理の組織的原理の作成が課せられている。
 以上に挙げたことがKGBに課せられた任務のすべてではなく、任務は他にも沢山あることは言うまでもない。そのうちのいくつかについては、この対談の途中で触れると思う」

・・・全国でペレストロイカが実施されている。全国党協議会はこれをさらに徹底させる目標を立てた。これに関して、KGB内ではペレストロイカはどんな状態にあるのか、お聞きしたい。

「KGB指導部は根本的に重要な問題、つまり社会にできつつある新しい環境、新しい政治的・精神的空気のもとで働く各職員の能力を常に視野の中に据えている。
 プロとしての能力と法律知識を維持し、各職員によるソビエト法の精神と条項の無条件厳守を保障するためにいろいろなことが実施されている。
 KGBの各機関には、基本的には高等教育を受けたものが入る。彼らは労働の学校、ソ連軍での勤務、社会活動、党活動を体験してきている。
 将来の働き手たちは職員として編入された後、KGB機構の学校の一つで専門教育と法律教育を受けてから国家保安機関の各支部に派遣される」

・・・社会で進行している民主主義のいっそうの拡大のプロセスは、あなたの始動する機関の活動にどのように反映しているか?

「民主主義と公開性の拡大の過程では、我々の活動が社会の民主主義と公開性の拡大のプロセスと有機的に結び合わさった時に初めて、現在の条件のもとで我々に課せられている任務を十分に果たすことができるものと確信している」(この人が何言ってるのかわかりません! 誰か解説して!※ブログ主より)

・・・KGBと公開性……この二つの言葉を並べるのはちょっと変なような気がしないでもない。この点はどのようにお考えか?

「わたしはこの質問を待っていた。何もおかしなことはないと言える。我々は公開性を、勤労者と積極的に結びつく形態の一つと見なしている。なぜなら、我々の活動を国民に理解してもらいたければ、もっと我々の活動を公開しなければならないからだ。
 国の社会・政治生活のすべての分野で根本的な改革が行われている今、現段階の国家保安機関の活動を明らかにする補助的手段として、保安機関員の活動の様々な面を世論に知らせることが必要になってきたと思う。

■資本主義国の諜報・破壊工作
・・・現在、資本主義諸国の秘密情報機関の活動について言えることは何か? ソ連の国家安全保障のために具体的にはなにが行われているか?

「国際情勢のある程度の温暖化にも関わらず、帝国主義の一定の層は対決の方針を捨てていない。彼らはソ連に対する軍事的優位の実現、ソ連共産党の内外政策の信用の失墜、わが国家・社会体制の破壊と弱体化の方針を推進し続けている。資本主義諸国の秘密情報機関はお互いに密接に連携し合いながら事に当たり、対ソ諜報・破壊活動を強めている。

・・・具体例を挙げることはできないか?

「我々は、外国の秘密情報機関がスパイを使って、我が国の国防省、KGB、対外経済関係省、外務省、その他一連の官庁、重要な国民経済施設に浸透しようとしている確かな資料を手にしている。この2年半の間にKGB各機関は、スパイ活動をしていた資本主義諸国秘密情報機関の有害なエージェント20人あまりを摘発・起訴している。
 1986~87年には、外交官の身分にそぐわない活動によりNATO諸国の外交官および新聞記者50人あまりがソ連から退去させられ、そのうちの何人かはスパイ行為の現行犯で拘留された」

・・・秘密情報機関の技術手段の利用について言えることは?

「米国をはじめとする一連の資本主義諸国の諜報機関は、なかでも現代宇宙・電子工学の分野における最新の成果を積極的に活用している。ソ連国内でも米国秘密情報機関の活動には、スパイ活動と科学技術進歩との共生が見られる。ここ数年間にKGB各機関によって、米国やその他の西側の情報機関が我が国の機密に浸透するために使用してきたきわめて高価なで複雑な電子装置が少なからず取り除かれた。次が典型的な例だ。
 ソ連の沖合60㎞のオホーツク海の海底では、ソ連通信省の海底ケーブルから情報を盗聴するための米国製諜報装置を積み込んだ重量6トンの深海用大型コンテナ2個が発見され、除去された。この諜報装置システムには、ケーブルからの放射をキャッチする特別装置、盗聴した情報を記録する電子プログラム・システム、多回線磁気記録ブロック約100個、環境を放射能汚染しかねないプルトニウム238を使った原子力電源を備えていた。このシステムは海底ケーブルを伝って送られるすべての情報を一年間にわたって記録するように設計されていた。またビーコンも備えられており、米国情報機関はこれによって、収録した情報を回収するためにこれを素早く発見することができた。
 先進資本主義諸国においてだけでも、それらの秘密情報機関はここ3年半の間にソ連市民や代表部に対して6000件あまりの挑発行為をしている。これには爆破も、放火も、ありとあらゆる暴力行為もある。ソ連人の懐柔、帰国拒否の勧誘、誘拐、不法逮捕・監禁が常習的になってきた。きわめて危険な性質を帯びてきたのは、ソ連市民に対して、人間の神経状態に影響を与える特別の薬剤を用いるようになったということだ」

■国境警備の現状
・・・ソ連国境の警備はKGBの管轄なので、読者に代わってお聞きしたい。現在の国境の情勢は?

「基本的には安定している。安定が続いているのは、ソ連の進めている外交方針に大いにあずかっている。共通する国境の警備に関しては社会主義諸国と共同行動を進めている。最近、中華人民共和国との国境関係は大いに改善された。フィンランドとの国境状態は社会制度の異なる国家間の善隣と相互理解の模範となっている。
 その反面、ある人々がソ連国境近くに緊急の火種を作り出そうとしているのを見過ごすことはできない。
 外国諜報機関のスパイを合法・非合法に我が国に潜入させ、テロリスト、民族主義組織の密使を潜入させ、スパイ・破壊工作資金、過激な行動を煽る宣伝材料を送り込もうとする試みが続いている。たとえば化学物質、放射性物質、麻薬などの物資を非合法に国内に持ち込んだり、ソ連経由で運搬したりする、特に危険な形の密輸が後を絶たない。これはソ連の国際的責任の立場からも許すことはできない。
 国際テロリズムの急増を考慮するなら、国境警備隊の活動で現在とくに重要なのはテロリストをソ連に侵入させ、破壊・テロ工作資金をソ連に送り込もうとする試みを防ぐことだ。
 国境警備隊は税関と共同で密輸との闘いを進めている。ソ連国境では、年間平均総額1400万~1600万ルーブルの密輸品数十万点が差し押さえられている。ここ数年、ソ連国境警備隊員たちは国境通行検問所以外の地点で国境を突破しようとした武装密輸業者たちを一度ならず取り押さえている。このようなケースだけでも、この5年間に2トンを超える麻薬が押収された。

・・・ペレストロイカはと国境警備隊に影響を与えたか? その活動に何か新しいことが生じたかどうか?

「もちろんだ。ここではペレストロイカの眼目は、国境警備の信頼性を維持しながら、たえず拡大し続けている我が国の国際関係のためのもっとも有利な条件を作り出すことだ。国境通行検問所の数は増えており、通関手続きは簡素化され、人と貨物の通過を早めるためのその他の措置が講じられている。
 社会主義諸国との国境では、これらの国の国境警備隊員と共同の旅客・輸送機関監視制度が定められ、国境に接する地域住民の通行手続きは簡素化されている。
 国境地帯におけるソ連国民の活動制限を撤廃するため、ソ連の関係機関と共同で国境地帯縮小の措置が講じられている。国境地帯への乗り入れと異動の手続きが簡素化されている。このプロセスは続くだろう」


以上で、インタビューはおしまいです。1988年のインタビューということですが、なんか今も昔もあまり変わってないような。


最後はソ連の美術館が収蔵するロシアの名画を紹介するページ。ヴァシリー・ペロフの「トロイカ」です。画家の本名はワシリエフですが、彼はペロフと名乗ります。ロシア語でペンを意味するペローをもじったのだそう。きれいな字を書くことからつけられたあだ名でした。

題名の「トロイカ」は本来は三頭立ての馬車のこと。ここでは何を意味するかは明らかです。1866年に描かれた時には「水を運ぶ徒弟たち」という副題が付けられていたそうです。

この頃はちょうど農奴制度が廃止された頃なのですが、それで農民の生活が楽になるわけでなく、親たちは養えない子供たちを人身売買同然で都市部へと送り出していました。

ペロフはこの絵を描くにあたってモデルを探していたと言います。
街頭や市場を歩き回り、ようやくイメージに会う少年を見つけることができました。ペロフはすぐに一緒にいた母親にお金を差し出し、絵のモデルになって欲しいと頼みますが、相手は村から祭を見に来た普通の農婦だったのでびっくりし、画家が何を頼んでいるのか理解できなかったといいます。そこでペロフは自分のアトリエに母子を連れていき、人買いでないことを納得してもらったのだとか。

それから4年。絵はとっくに完成し、パーヴェル・トレチャコフの私設画廊に売れていました。後のトレチャコフ美術館です。そんなある日、ペロフは留守中にひとりの農婦が何度か訪ねてきたとの報告を受けます。それはモデルになった少年の母親でした。

ペロフは農婦を見つけ出しますが、その表情を見てすべてを悟ります。少年は病気でこの世を去っていたのでした。農婦はすべての財産を売払い、なけなしのお金で「トロイカ」を売ってもらおうとペロフの元を訪ねてきたのでした。しかし、すでに絵は売れた後です。ペロフはトレチャコフの画廊に農婦を連れていきました。彼女は「トロイカ」の前にひざまずき、長い間、祈りを捧げていたそうです。ペロフは彼女のために少年の小さな肖像画を描き、贈ったそうです。

今回はこんなところで。
でわでわ~。






2017年1月21日土曜日

今日のソ連邦 1988年10月1日 第19号


どもです。
年始のご挨拶は別として、2017年最初の更新です。

さて、今日のソ連邦。まずは「党生活における新しいもの」「党の指導的役割の法制化」「「準備すすむソ連の法改革」などといった記事からスタートしています。

ゴルバチョフのペレストロイカが本格的に始動したことで、ソ連共産党の内部では、てんやわんやといった様子。特に党内部での選挙で選ばれる役職については、5年任期、連続2期までという決定が成されたことが大きな注目を集めています。

この一連のキャンペーンは事実上「すべての党組織を巻き込む大規模なものになる」と記事では述べています。それはソ連共産党内部にある73万におよぶ党員グループ52万以上の職場党組織、党の基盤を構成する44万2000の初級党組織4600余りにおよぶ地区、市、管区、州、地方の党委員会が含まれます。

当然、党の役割は大きく変化することが予想されますが、抵抗勢力はソ連憲法 第6条を持ち出して反撃に出ました。これは「ソ連共産党はソビエト社会の指導的・先導的勢力であり、ソビエト社会の政治体制、国家機関と社会組織の中核である・・・」との文言から始まる条文で、ソ連共産党が社会のあらゆる事柄に干渉し、すべてを指揮することで、強大な権限を合法的に手にすることができる根拠になっています。

これは当然、組織の肥大化と利権と腐敗を生み出したわけで、記事では、ソ連共産党を国家機関や経済機関の代役とすることをやめさせることが必要だと主張し、これを実現するために憲法改正の動きがあることにも触れています。

ペレストロイカはソ連の司法改革にも乗り出しています。かつてソ連の法律専門家の間では「裁判官は独立しており、地区委員会にのみ服従している」という笑えない冗談が流布していたそうですが、これを名実ともに完全に独立したものにしようというわけです。

また、弁護士の権限強化も盛り込まれました。ソ連の刑事訴訟では、弁護士は予審が終了してからでないと裁判に参加できない仕組みでしたが、これをもっと初期の段階から参加できるようにしようというものです。加えて、市民が気軽に法律相談できる「かかりつけの医師」のような「家庭弁護士」の制度を整備し、弁護士の増員と質の向上を目指すと記事では述べています。

これはペレストロイカによって大量の法的問題が顕在化したことに対する措置で、新しい経済運営形態の出現、、個人労働活動の急激な拡大、あらゆるレベルで進行しつつある民主化プロセスなどといった現象に、ソ連の従来の法体系が対応できなくなっていることの裏返しのようです。

さて、次は表紙にもなっている「弱者をいたわる社会を」という特集記事です。主として「児童福祉問題」がメインに据えられています。対外的には福祉大国を標榜していたソ連ですが、もちろん問題がないわけではなく、育児放棄や虐待などが普通にあり、そうした被害にあった子供たちを親から引き離し、収容する福祉施設が各地にあります。

記事の冒頭、筆者は「わたしたちの社会では、いつから他の者への思いやりがなくなったのか?」 と疑問を投げかけ、それは1930年代からだろうと述べます。言うまでもなく「スターリンの粛清」が始まる時期なわけで、密告と相互監視が日常になれば、そりゃ思いやりなんてなくなるというものです。

とはいえ、これを1980年代に当てはめるというのも無理があります。筆者は自分のもとに送られてきた一通の手紙を紹介しています。

「わたしたちの息子のワロージャはアフガニスタンで戦死しました。わたしは走り、叫び、這い、すべての人の足にキスをするでしょう。自分がずたずたに引き裂かれてもかまいません。息子が生き返ってくれるなら」
・・・これが母親というものなのだ! しかし世の中には違う母親もいる。

ソ連でも0才から3才までの孤児を預かる施設がありますが、本当の意味での孤児はわずかでしかなく、ほとんどは両親が健在であるにも関わらず、孤児同然にされた子供たち。親たちは大酒飲み、麻薬中毒などで、本来なら子供など持つべきではない人々です。

また、そこまでひどくないにせよ、学位論文を書くために年老いた母親を家から追い出し、何週間も子供を施設に預けっぱなしといったこともあります。ソ連では学生結婚が珍しくなく、出産する女性もごく普通にいるからですが、それだけに極端な事例も見られるということでしょう。

さらにアフガニスタンから帰還した傷病兵、チェルノヴィリ原発事故で住む家を失った人々など、助けが必要なのに国家の支援がない人々が大勢おり、国家の支援が追いついていないのが現状です。

こうした問題は、プロパガンダにも原因がありました。人々の意識に「すべてのソ連市民は生活が保証されており、幸福である」という言葉が、常識として浸透していたせいで、人が集まる場所に募金箱が置かれるようなことはなかったのです。
しかし、この頃から募金活動やチャリティバザー、寄付、ボランティア活動などが、ソ連社会でも当たり前になっています。

何も恥ずべきことはない。
わたしたちはやっと人間に顔を向けたのだ。

と記事では結んでいます。


のっけから固い話題になりましたが、この号は全般的にこんな感じの記事が多め。

さて、次はソ連の観光名所めぐり。
ロシアの古都「カリーニン」へご案内しましょう。 といってもカリーニンとは、本来なら革命家ミハイル・カリーニンのこと。この街は彼の出身地であることからソ連時代に改名されました。
元の名前は「トヴェリ」Тверь。1990年以降はこの「トヴェリ」に名前が戻されています。

モスクワの北西150キロ、ボルガ河上流にある街で、華やかで重厚な歴史的建造物が多く残ります。街を整備したのはエカテリーナ2世で、モスクワとペテルブルグを結ぶ幹線道路の途中にあることから、ふたつの都市に負けない景観となったそうです。

第二次世界大戦ではドイツ軍に2カ月ほど占領され、街は手ひどく破壊されますが、が、 戦後に復興。街の中心にはファシストからの解放を記念して、最初に市内に突入したT-34戦車が特別な台座にすえられてモニュメントПамятник танк Т-34】となっています。


次は「留学するユダヤ教の聖職者」という記事。
ソ連におけるユダヤ人の位置づけには面倒なものがあります。ロシア・東欧にはポグロムと呼ばれる迫害の歴史があり、ソ連時代にも偏見は根強くありました。

その一方で、ソ連共産党の指導部にはユダヤ人も多くいましたし、またドイツの絶滅収容所から多くのユダヤ人を解放したという武勇伝もあります。
しかし、中東問題についてはアラブ・パレスチナ寄りで、イスラエルべったりのアメリカとも敵対。とはいっても国内のユダヤ教徒に対しては、この記事で紹介されてるように気を使っていることも伺えるわけで、
ややこしや~。

さてまずは一般論。ソ連に生まれながら、よりにもよって信仰心に目覚め、自分の人生を宗教活動に捧げたいと考えた若者は、どこに行けばいいのか?

キリスト教の場合、ロシア正教では3つのセミナリオ(中等神学校)と2つのアカデミー(神学大学)があります。安息日再臨派では通信教育を受けられます。福音パプテスト派(いくつかの宗派を統合しているソ連の教会)では聖書講座を開設しており、ローマカトリック教会には、カウナス(リトアニア)やリガ(ラトビア)の神学校があります。

イスラム教は中央アジアのブハラにミル・アラブ・イスラム中等学校と、タシュケント(ウズベク)にイスラム大学があります。
グルジア正教会、アルメニア正教会、バルト諸国のプロテスタントもそれぞれ学校があります。

で、ユダヤ教ですが、こちらはモスクワのコラール会堂(シナゴーグ)にタルムード学院が置かれています。ユダヤ教の聖職者を目指す若者は、まずカントール(礼拝式の主唱者)になるため、このタルムードで3年から5年学び、その後、ラビ(ユダヤ律法博士)を目指します。

しかし、ラビの称号を与えることができるのはハンガリーの首都ブダペストにあるユダヤ教神学校のみで、ソ連からは海外留学という形になります。ちなみにイスラエルにも行こうと思えば行けなくはありませんが、大抵の場合は片道切符で、留学ではなく、亡命とか国外追放と呼ばれます。

この記事の主役であるアウレフ・カジエフは35才。妻と二人の子供がいて、父は織物工場の労働者、母は小売業の店員。現在はふたりとも年金生活者です。カジエフはタシュケントに4つあるシナゴーグのひとつで、ラビ代行者を務めています。

教徒たちはブハラ・ユダヤ人と呼ばれる人たちで、学術的には中央アジア系ユダヤ人と呼ばれます。12世紀頃、ブハラ汗国にやってきて、そのまま定住した商人たちの末裔だと言われています。カジエフは、もともとタシュケント大学地理学部の学生で、卒業後も修士課程にすすんで人口論の修士論文を書いていました。しかし、ある日、訪れたシナゴーグの聖職者たちがあまりにも高齢であることに驚き、後継者となる決心をしたのでした。

ちなみにカジエフは、すでに結婚していましたが、妻のマゾルは賛成は反対もしませんでした。賛成しなかったのは「今どきラビになっても若者たちの間ではそれほど名誉なことではない」からで、反対しなかったのは「夫の性格を知っていたから」だそうです。
この記事は、カジエフが出発する直前に書かれました。ブダペストでの留学生活は7年に及ぶのだそうです。

最後は極東の話題。
アムール河沿岸に居住する少数民族の人々が作り出す伝統工芸品が、ハバロフスクの展覧会に出品されたという記事です。
ナナイ人、ウルチ人、ウデゲ人、ニブフ人の作家が出品しました。写真の女性はナナイ人作家のタチヤナ・ホジュール。73才です。

1932年、彼女はナナイ人の定住地としてソ連政府に指定されたエモロンの地で結婚しました。婚礼衣装を作ったのは村一番の名人だった母のザラクタ。この時、タチヤナも伝統工芸を学ぶことになったのです。

しかし、幸せな夫婦生活は長続きしませんでした。1941年。夫のコンドは、ドイツとの戦争のために出征し、そのまま帰らぬ人となったのです。戦死公報には「あなたの夫、コンド・ホジュールはファシストとの戦闘で勇敢な死を遂げられました」という定型文がタイプしてあっただけでした。中央アジア出身のソ連兵の話はよく聞きますが、極東の少数民族までが徴兵されていたというのは、場合によっては民族消滅の危機もはらんでいたわけでイヤな話です。

今回はこんなところでしょうか。
でわでわ~。

2016年10月1日土曜日

今日のソ連邦 1988年9月1日 第17号

どもです。あれよあれよと10月になってしまいました。
あれこれ色々なネタでお茶を濁してきましたが、心を入れ替えて、本来のネタに戻りますです。たぶん・・・。

 まずは奇妙な表紙から。一見、ヨットの乗組員ですが、何か変。船は港に係留されているのに舵輪を握っていたり、六分儀を持っていたり、双眼鏡であらぬ方向を見ていたり。実は彼らは「クレド」という名のロック・グループ。よく見ると手すりにグループ名のペナントが付いています。同名のグループはイギリスなどにもありますが、彼らはラトビア共和国のグループです。

 ラトビアの画家グナルス・クロリスがヒロシマをテーマに描いた「白いツルの国」という作品を見た同国の作曲家ライモンド・パウルスは、その印象を7つの曲にまとめます。しかし、これを通常のピアノや弦楽器で表現することには限界があると感じ、クレドのリーダー、ワルジス・スクイニンに相談したのだそうです。クレドは反核をテーマにしたロック組曲「叫び」を作り上げ、ソ連のバルト海沿岸地方で開催される音楽コンクール「リエバヤの琥珀」で発表したのだそう。

 今回、そんなクレドの楽曲を見つけることができました。1987年にリリースされた曲をここで聞くことができます。ソ連崩壊の混乱で活動を休止していたようですが、2000年ごろには復活したようです。現在どうなっているのかは不明ですが、ラトビアではかなり有名なグループのようです。


 次はモスクワで活動する児童美術アトリエ「創造クラブ」の記事。一般住宅を開放し、4才から12才までの子供たちを受け入れています。月謝は6ルーブルですが、子供が沢山いる家庭などの場合は免除されます。
 アトリエは毎日開かれており、年に2回、子供たちによる発表会が行われます。発表会では、必ずどこかの国がテーマになるのが決まりで、写真を見る限り、今回は日本とインドがテーマになったようです。
 ちなみにキャプションにある「あいびき」はツルゲーネフの短編を二葉亭四迷が訳したものらしいです。ロシアの文学作品なんだから、そのまま演じれば良さそうなものですが、わざわざ日本語に翻訳されたものをベースに、これまた日本風に演じるというのが面白いです。
 キモノとかメイクと小道具とかは、子供たちが独自に調べて工夫をこらしており、それ自体が学習というわけです。なかなか艶やかな雰囲気が出ていますが、それにしても小学生が「あいびき」なんて演じちゃっていいんでしょうか。

 次はスポーツ大会の話題。エストニア共和国のタリンで開かれた「女子ジョギング大会」の記事。これはエストニアの雜誌「ヌイウコグデ・ナイネ」が主催したもので、健康推進キャンペーンのひとつとして実施されました。
 このヌイウコグデ・ナイネという雑誌名、日本人にはあまり馴染みのない響きですが、実は日本版も出ていた「ソビエト婦人」のエストニア版です。綴りは「Nõukogude naine」。わたしも知りませんでしたが、エストニア語でソビエトはヌイウコグデというのですね。というわけでエストニア語でソビエト社会主義共和国連邦というと「Nõukogude Sotsialistlike Vabariikide Liidu」。略称もCCCPでもなければUSSRでもなくNSVLとなります。

 お次は前回の続き。第19回全国党協議会から。この大会は「官僚主義との闘争」と位置づけられ、記事にも「最悪の敵」とか「社会的偽善」とか、過激な言葉が並んでいます。もっとも改革にブレーキをかける具体的な個人名が名指しされているわけではなく、あくまでも「官僚主義」が槍玉。なんとなくどこぞの首都のお役所のような話になっております。

 そんな中、注目を集めたのが「他に道はない」という一冊の本。党協議会開催の直前にプログレス出版所から発行されました。著者は34人にも及び、その中には反体制物理学者アンドレイ・サハロフ氏の名前もあります。本文だけで700ページという大著ですが、「最近のソ連の本ではもっとも大胆で面白い」と、海外のソ連研究者からも注目された本です。

 記事ではその中のひとり、タチアナ・ザスラフスカヤのエッセーに焦点をあてています。エッセーといっても、この本の冒頭を飾るもので、約1万2000語という長いもの。その中で彼女は、ソ連市民を10の社会グループに分類し、それぞれが示している(内包している)ペレストロイカへの態度を、8つの立場に置いています。一覧表になっていますが、社会階層はなんとなくわかるものの、立場というのが、よくわかりません。本文によりますと・・・。

【先導者】というのは、言うまでもなくゴルバチョフに代表されるペレストロイカに積極的な指導者と、彼に従って率先して行動していく人たちです。

【賛同者】は似ていますが、ちょっと違います。多くの場合、大きな困難と失望を経験してはいるものの、自己の信念は変えていない人たちのことです。ソ連でも何度も改革が叫ばれたけれど、その都度、失敗に終わっています。それでも希望を失っていない人たちということでしょうか。

【同盟者】は改革の個々の側面、たとえば協同組合の拡充など、それまでのソ連社会にはなかったビジネスチャンスに個人的な興味は持っているけど、ペレストロイカ構想そのものにまで全面的な確信を抱くには至っていない人たちが入ります。

【擬似賛同者】は深い道義上の原則も、しっかりとした政治的信念も持っていない人たちのこと。彼らはどんな主人にも仕え、どんな真実も肯定し、上司からの好意と昇進が約束されるなら、いかなる課題もこなす人たち。「はいはい、ペレストロイカ。ペレストロイカね」って人たちです。

【傍観者】はペレストロイカは必要だと感じているけれど、ソ連社会にはそれを実現するための力も手段もないと考えている人たち。彼らはペレストロイカの賛同者にシンパシーを抱いてはいるけれど、彼らが勝利することはないだろうと考えています。

【中立主義者】はペレストロイカの対する自分の態度を決めていない、社会的に無気力な人たち。彼らは個人的な興味に没頭し、十分な文化的・社会的経験を積んでいません。中立という言葉が、まさに毒にも薬にもならない階層という意味で使われていますが、実際、ソ連では中立はあまりいい意味では使われない言葉だったりします。

【保守主義者】は言うまでもなく、ペレストロイカのもっとも大きな障害です。彼らは社会のあらゆる主要な側面で改革にブレーキをかけようとしてます。もちろん様々な特権や既得権益を享受している層でもあります。

 【反動主義者】は保守派と同様、ペレストロイカを受け入れようとはしていませんが、理由はもっと深いものです。保守主義者はペレストロイカに対抗してスターリン型の「兵営社会主義」を信奉していますが、反動主義者は、およそいかなる社会主義的価値観とも無縁の存在です。

 1980年代末期のソ連の社会の分析結果としてはなかなか興味深いものです。

最後はモスクワ放送の日本人アナウンサー、清田彰氏の記事。
ソ連最高会議幹部会令により民族友好勲章が授与されたという内容です。新聞のモスコフスカヤ・プラウダは、いつもの調子で「祖国の褒賞」という決まり文句で、このニュースを報じていますが、今日のソ連邦は「ちょっと考えれば見出しは別のものになっただろう。セイタ・アキラは100パーセント日本人なのだから」とチクリ。

清田彰氏は、1922年岡山市生まれ。父親は岡山市役所につとめる公務員でしたが、暮らし向きは楽ではありませんでした。1939年、山口市の商業高校1年だった時に軍に召集され、工兵連隊、歩兵連隊と渡り歩くうちに満州の長春にある主計学校に入ります。その後はソ満国境にほど近い連隊に異動。そして1945年9月にソ連軍と交戦状態に入ります。(今日のソ連邦、ちゃんと9月と表記してますよ。)
 最初の激突から数日後、彼は捕虜となり800人ほどの仲間とともに収容所へ送られます。近くにはアムール・スターリという巨大製鉄所があり、 清田さんたちは石炭やセメントの荷卸し、森林での伐採作業などに従事します。製鉄所が近くにあったということは、すでに鉄道が建設されていた地域だったわけで、その意味では幸運だったのかもしれません。

 清田さんはその間、ロシア語に興味を持つようになっていました。収容所の警備兵がマホルカ(きざみタバコ)の包装紙として使っていた新聞紙を拾い、通訳が持っていて辞書を借りて勉強を始めます。辞書は一冊しかなかったので、清田さんが勉強するのは通訳が寝ている時だけでした。
 そんな彼にソ連軍のボリソフ上級中尉が声をかけます。彼は温厚で親切で、捕虜たちとタバコを分け合いながら、ソ連のことを色々話してくれたそうです。
 清田さんはそんな彼に洗脳されの人柄にひかれ、あと半年で帰国できるというのに、ソ連に残る決意をします。ちなみに収容所から清田さんは何度も日本に手紙を出していましたが、返事は一度もなく、清田さんは家族はみんな死んだのだろうと思っていたそうです。
 
 1948年にハバロフスクの放送局に日本語担当アナウンサーとして配属されますが、原稿は自分で翻訳しなければなりません。彼は地元の子供と机を並べて中学校に通い、5年かけて卒業します。その後、30才になってモスクワ大学の経済学部に入学し、モスクワの放送局から日本向けラジオ放送をすることになります。
 この放送をたまたま聞いていた叔父さんが、清田さんが生きていることを知り、手紙を寄こします。家族は全員無事でした。しかし、その頃には清田さんはロシア人女性と結婚しており、娘も生まれていたのでした。それでも一時帰国を果たし、日本から家族を招くこともあったそうです。
 
 画像は映画に出演した清田さん。当時は日本人の役者なんてそう簡単に呼べるわけないですから、彼のような存在は貴重だったのでしょうね。探せばDVDが見つかるかもしれません。

今回はこんなところでしょうか。
でわでわ~。

六本木ヒルズ展望台 東京シティビューにて開催中の「空想驚異展」もよろしくです。




2016年6月25日土曜日

今日のソ連邦 1988年8月15日 第16号

どもです。気づいたら6月の最終週にさしかかってますよ。
うっとおしい梅雨空を見上げつつ、更新であります。
ごめん。今回、文字多めだ。

今回の表紙はモスクワで開催された美人コンテストで優勝したマーシャ・カリーニナ(17才)の喜びの表情です。といっても、本誌での扱いはこじんまりとしたものでちょっとがっかり。詳細は後ほど。
 さて、今号では目次にちょっと違う部分があります。
わかりやすいよう、赤枠で囲んでみましたが、この勲章みたいなイラストは「ソ連対文連友好促進顕章」といいます。創刊30周年を迎え、ソ連邦の情報発信と日ソ間の友好促進に多大な功績があったとして、今日のソ連邦編集部に授与されたのです。

「対文連」というのは「ソ連対外友好・文化交流団体連合会」の略で、日ソ協会なども加盟している団体です。 今日のソ連邦はノーボスチ通信社から記事と写真の提供を受け、モスクワで編集されています。今回の授与のセレモニーもモスクワで行われました。 スタッフは10人弱といったところで、編集長はフェリクス・プラテという男性です。名前、初めて知ったよ。 とはいえ、さすがに版下作業までしているとは思えませんので、日本側でも編集作業はあるのだと思います。こうして印刷された本誌はソ連大使館広報部を通じて日本中にバラまかれ……じゃない、配布されていたのです。


それでは美人コンテストの記事を。といってもたったの2ページなんですが。
6月12日、モスクワでソ連初となる美人コンテストが行われました。もちろん、今までも学校や職場などで非公式なものはあったかもしれません。ですが、こちらは格が違います。

企画・主催はモスクワ市執行委員会(市役所)の文化総局、全ソ・レーニン共産主義青年同盟(コムソモール)、モスクワ市委員会(ソビエト共産党)、モスコフスキー・コムソモーレツ紙編集部、ブルダ・モーデン・モスクワ(ソ連と西独の合弁会社)、国際青年観光局スプートニク。その他一連の組織というそうそうたる顔ぶれ。 正式なイベント名は“モスクワ美人88”。テーマは「女性の美と女性らしさを歌い上げる」というものです。

参加資格は17才以上、27才未満でモスクワ在住の女性。既婚・未婚は問われません。エントリーは2750人。審査基準は人を惹き付けるルックス、端正なスタイル、女性的魅力、所作の美しさ、機転やユーモア感覚、踊れて歌える能力、エチケットのわきまえなどなど。

第一次予選は4月。モスクワ市内のゴーリキー公園で11日間にわたって行われ、まずは185人に絞られました。5月には第二次審査。イブニングドレスや水着姿を競い合い、36人に。
第三次審査は6月10日から12日まで“ルジニキ”スポーツ文化宮殿で行われました。
審査委員は有名作家や人気俳優、著名なジャーナリストなど。会場には1万人もの観衆が詰めかけ、テレビ中継も。内外の注目も集め、実行委員会が発行した取材パスは300。もちろんプラウダ紙の記者もいました。

最終審査に残ったのは6人。
彼女たちへ与えられた課題は「100年後。すなわち2088年のモスクワについての自分の考えをプレゼンテーションする」、「自己を宣伝するための広告アイデアを出す」、そして皮肉っぽい諷刺作家たちのクセのある質問にうまく答えてみせること。なかなか手ごわいハードルではありませんか。
そんな激戦を勝ち抜いて栄冠を勝ち取ったのが表紙のマーシャ。身長176センチ、スリーサイズは88、62、93。モスクワ第110中等学校の10年生。日本でいう高校3年生です。目下の目標はレーニン記念モスクワ国立教育大学へ合格すること。・・・って、あっちの新学期は9月なんだから受験目前じゃん! 
ちなみにマーシャを始めとする上位入賞者にはソ連の各種団体、外国スポンサー(イブ・サンローランなど)から高価な賞品が贈られました。また、最終審査に残った6人全員に順位に応じた賞金が贈られました。

最後にこうしたイベントに批判は無かったのか?ですが、記事はそこにも触れています。
西側の習慣ともいえるイベントをコピーする必要があるのか? 高価な賞品や外国企業との契約などがコンテストに不健全な投機的思惑を発生させ、ユーモアあふれる明るいショーから競馬場的な雰囲気を醸しだすものになってしまうことはないのか? なによりもコンテストの参加者たちは年齢的に若く、人格的に成熟しているとは言い難い。そんな彼女たちにコンテストでの勝利は道徳的マイナスになりはしないか?などなど。
プラウダ紙は「我々はこうした問題に初めてぶつかるわけだから、 特に責任をもってこれらの問題解決に当たらなければならない」と述べています。


次はなぜかもう一つの表紙。ゴルバチョフさんです。
さては第19回全国党協議会という重要事項を紹介する号でありながら、指導者を表紙にしなかったことを誤魔化そうと・・・(ウソ)

えーと、この党協議会。基本的には党大会と同じものです。党大会が5年に1度の定例開催であるのに対し、党協議会は必要に応じて開催できるとされています。第27回ソ連共産党大会からまだ2年しかたっていませんから、これは1991年に開催されるはずだった第28回ソ連共産党大会を前倒しして開催したものとも言えます。

党大会が通常国会だとすれば、党協議会は臨時国会のようなものでしょうか。ただし、この国会はソビエト共産党員限定です。
「自由選挙で選ばれた代議員によって構成される」という真の意味の国会は、このあと誕生する人民代議員大会まで待たなければなりません。というより、この党協議会で決定されたのが、まさにその人民代議員の創設だったのです。

これによってペレストロイカは一気に加速します。
ゴルバチョフが追いつけなくなるほどに。
対する保守派の反撃も激しくなっていきます。
ゴルバチョフが抵抗できなくなるほどに。


次は「KGBの発表とコメント」というギョッとするような話題。(写真なし)
これは「論拠と事実から」という記事で紹介されたものです。論拠と事実とはロシア語で「Аргументы и Факты」という週刊新聞のこと。全ソ協会「ズナーニエ(知識)」が発行し、総発行部数は900万部以上。とても人気があり、現在のロシアでも活動をしています
今日のソ連邦では論拠と事実の紙面の中から、海外の読者の興味を引きそうな話題をピックアップして載せてくれています。
「KGBの発表とコメント」は、1988年の春から論拠と事実の紙面に新設されたコーナーのこと。国家保安委員会(KGB)の活動や歴史、有名な情報部員の伝記に対する一般国民の大きな関心に応えるためとされています。これも民主化。これもグラスノスチ。

記事はまずKGBからのご挨拶から。

「党によって厳しく統制され、方向づけられているKGBの活動は、まず何よりも帝国主義諸国の特務機関による経済分野のスパイ行為、イデオロギー分野の破壊工作の機先を制することにある。
この種の活動の具体的な事実、KGBの活動原則、その活動のペレストロイカ、法の厳守措置、過去からの結論とその教訓についてお知らせし、読者の質問に答え、事実、事件、経過に対して正しい、客観的な見方をすることがしばしば必要とされる事柄についてコメントしていくつもりである。」


ただのご挨拶なのに、なんでこんな高圧的で恐いんだ、こいつら・・・。

で、具体な中身はというと。
「しばらく前にKGBは、外国のある会社の代表が非合法に機密文書の写しを手に入れ、それをソ連から運び出そうとしている、という確実な情報を入手した。この機密文書には、ソ連通信工業省に所属する諸企業の輸入設備の需要と、その購入のために支出された外貨の情報が含まれていた。
この文書を国外に持ち出す試みは未然に阻止された。
捜査の過程でソ連通信工業省の中央研究所職員V・ラズーチンとV・シプントが、その文書を外国人に手渡したことが判明した。取り調べの結果、ふたりは常習犯であることも判明した。
今年の5月12日、モスクワ市裁判所は、V・ラズーチンとV・シプントの刑事事件を審理したのち、ロシア連邦共和国刑法第76条・第1項(職務上、知り得た機密情報を外国機関に手渡すこと)、および第173条(収賄)によって規定された罪を犯したかどで有罪判決を下した。
しかし、彼らの反省の態度と捜査協力に鑑み、それぞれに対して「財産没収と国民経済建設場への強制的な労働参加をともなう自由剥奪3年の刑」を、執行猶予つきで宣告した。
この件は残念ながら例外ではない。
機密情報と引き換えに物質的利益を得る目的で外国市民との接触を試みるソ連市民の犯罪はこの数年間に何度も摘発されている。さらには贈り物(正確には賄賂)に目のない者が、外国の特務機関の目に止まり、彼らの挑発に乗せられる事例も含む」

記事を読む限り、紹介された事件は西側企業による産業スパイ的なもののようです。


次の記事は「科学者から聖職者へ」
エブゲニー・ゲルツェスキーはベロルシア共和国(現ベラルーシ)のミンスクに住む39才。妻ナタリアと娘クセニアとの3人家族。
彼はもともとベロルシア科学アカデミー遺伝学・細胞学研究所の研究員でした。専門は農作物の染色体に対する中性子の影響。
そんな彼がロシア正教の司祭になったのはまさに「天啓」だったそうで。

ある日曜日、当時26才だった彼は、まったく偶然に生まれて初めてミンスク大聖堂にふらりと立ち寄った。そして足を踏み入れた瞬間「ここにしか自分の居場所はない」と悟ったのだとか。

うーむ・・・。ソ連の基準でも立派な奇人・変人です。というのもソ連では圧倒的多数の人々が無神論者だからで、当然のことながらゲルツェスキーの友人、知人はこぞって彼を思い止まらせようとしました。
ある友人は「宗教にうつつを抜かせるのはヒマな奴だけだ。研究職の君が聖職者になる時間なんてない」といい、別の友人は「遺伝学は前途洋々な分野で、活躍の機会はますます広がる」と説きます。両親は「息子が宗教の世界に入ったら、家族全体の社会的地位に悪影響をおよぼすかもしれない」と心配しました(記事では「当然、そんなことはなかった」とフォローするのを忘れていません)。後に妻となるナタリアとはまだ友人関係でしたが「文字通り、寝耳に水」で困惑しきり。それでも彼女は反対を口にすることはなく、彼の好きにさせてあげたそうです。愛やなぁ。

かくしてゲルツェスキーは信仰の世界に飛び込みます。
驚いたのはミンスク大聖堂の司祭長。見知らぬ若者がやってきて神学アカデミーへの紹介状を書いてくれと言ってきたのだから当然です。それでもアントニー府主教は律儀に紹介状をしたためてくれ、ゲルツェスキーはレニングラード神学アカデミー入学。5年後に卒業するとほどなくミンスクに戻り、司祭長になっています。

キリスト教つながりで「ロシア絵画の傑作」より。
アレクサンドル・イワノフ作「民衆の前にあらわれたキリスト」。
縦540センチ×幅750センチという大作で、1837年から57年まで20年もかけて描かれました。
主題であるキリストは画面の奥にいます。右端にはその姿を見てギョッとしているかのようなローマの騎兵。手前の群衆は実は奴隷です。この絵はトレチャコフ美術館に収蔵されているそう。



最後はレイアウト的になんとなく貼りそびれた党協議会の休憩時間の様子。せっかくスキャンしたのでもったいないから貼ります。
ソ連邦英雄である金星メダルをつけた人や、社会主義労働英雄であるの金の槌鎌メダルをつけた人。名誉労働勲章や民族友好勲章をつけた人がいます。
こちらもいわゆる群衆絵画のようです。





今回はこんなところで。

でわでわ~。






2016年5月21日土曜日

今日のソ連邦 1988年7月15日 第14号

ども、お久しぶりです。座骨神経痛をやらかし、ゴールデンウィークが丸ごとムダになりました。まぁ、旅行の予定とか無かったからいいけど(泣いてなどいない)。

さて、今回は華やかで懐かしい顔ぶれの表紙です。
この日、モスクワ・ボリショイ劇場の貴賓席に現れたのは、青いドレスのライサ夫人、その横で手をふるレーガン大統領。上を見上げるゴルバチョフ書記長、白いドレスのナンシー夫人。今年の3月にナンシー・レーガン夫人が鬼籍に入り、現在も存命中なのはゴルバチョフ氏だけになってしまいました。さすがに寂しいですねぇ。


両首脳の会談は、実際には5月29日から6月2日までと、かなり前に行われているのですが、速報性を重視する西側メディアと違い、会談内容とか共同声明とかの評価が定まらないうちは記事にしないのが、いかにも社会主義国の広報誌です。本文ページの特集記事も「客を見送って」の見出しから始まります。

ゴルバチョフ・レーガンの首脳会談はジュネーヴ、レイキャビク、ワシントンD.C.に続き、4回目。この会談でINF(中・短距離ミサイル)全廃条約の批准書が交換され、歴史的な核軍縮が始まりました。
ちなみにレーガン大統領といえば、ソ連を「悪の帝国」と呼んだ人物です。
ロシアには「言葉はスズメじゃない。飛び出したらつかまらない」ということわざがありますが、この一件はソ連のメディアで繰り返し取り上げられ、この時の訪問でもソ連側の記者から「今でもそう思っているか?」という質問が投げかけられました。
ここで彼は、過去の自分の発言をはっきりと否定してみせるのですが、このやりとりがクレムリン宮殿の名物のひとつである「大砲の王様」の前だったことにソ連のメディアはある種の象徴的な意味を見出したようでした。
もっとも、この時のレーガンは翌年1月に任期切れを控え、政治の表舞台から去ろうとしていました。記事では「ゴルバチョフ書記長は、ホワイトハウスの主の交替によって不可避的に中断される対話を、誰と復活しなければならないか考えないわけにはいかない」と述べています。

見開きのカラーページには、首脳会談の合間を塗って交流にいそしむナンシー夫人の様子が紹介されています。
右上の写真は歓迎夕食会の様子。晩餐会ではなく、夕食会という表記に注意です。ソ連=ロシアでは伝統的に午餐(昼食)が正式な食事ということもありますが、晩餐会という表現が「資本主義的」と見なされたのかもしれません。
実際、写真をよく見ますとゴルバチョフもレーガンもディナージャケットではなく、普通のスーツにネクタイなのがわかります。

余談になりますが、第3回首脳会談が行われたホワイトハウスでの晩餐会でも、レーガン以下、アメリカ側の出席者全員がタキシードにブラックタイだったのに対し、ゴルバチョフはスーツ姿のままでした。オシャレなことで有名なゴルビーですが、この時の態度が「無粋である」として、ファッション誌「VOGUE」がベストドレッサー賞の授与を見送ったという逸話があります。


次の記事は「アカデムゴロドク」の特集。
アカデムゴロドクは正式名称を「ソ連科学アカデミー・シベリア部ノボシビルスク学術センター」といいます。ノボシビルスクといえばガルパン声優のジェーニャさんの地元として有名ですが、その郊外に22のソ連科学アカデミー研究所、6つの特別設計事務所が集中する区画があり、科学技術図書館、試験工場、実験生物学ステーションなどが併設されています。住民は1万人におよぶ科学者・技術者とその家族。医学アカデミーの研究施設やその他の省庁の実験施設も置かれています。

いかにも理系が集中していそうですが、実際には社会学や経済学など人文科学系の人材も揃っており、ペレストロイカで打ち出された経済自由化構想なども、アカデムゴロドク出身の学者によって提言されたものだそうです。このことからノボシビルスクはペレストロイカのゆりかご。アカデムゴロドクはその頭脳と呼ばれているのです。
記事によるとアカデムゴロドクでは、ペレストロイカの推進を受けて、純粋科学にとどまらず実用面での完成度にも目が向けられているとのこと。独立採算制の企業「ファーケル」が生まれ、アカデムゴロドクの様々な研究成果から実用的に利用できるアイデアをすくいあげ、ソ連各地の企業に売却する事業を行っています。

ところで、なぜシベリアのド真ん中に科学の殿堂のような都市が作られたのか? きっかけはフルシチョフ時代で、当時の自由闊達な空気が新天地シベリアと相性がよかったのだといいます。
これはブレジネフ政権になってから思わぬ効果を生みました。モスクワから3000キロも離れていたおかげで、中央政府の保守的な空気が流れ込みにくく、停滞の時代にあってもその影響は少なくて済んだのです。

もちろんアカデムゴロドクにも問題はあると記事は書いています。皮肉にもその原因はペレストロイカで、優秀な人材が次々と “モスクワ送り” になり、研究を牽引する力が弱まることが懸念されているとか。うまくいかないものですねぇ。

次もペレストロイカ関連記事。エストニア共和国のピャルヌ地区というところを統括しているエストニア共産党・地区党書記のお話。
ピャルヌ地区はバルト海沿岸にある保養都市で毎年、ソ連全土から大勢の人々が余暇を楽しみにやってきます。面積でもエストニア最大の行政地区で、牛乳と食肉の最大の産地。農業と観光の町というわけです。

写真の人物は地区委員会第一書記のワルテル・ウダム氏。それまでにも各地の地区で第一書記をつとめ、ピャルヌ地区の第一書記になって10年になります。
若い頃から彼は、エストニア共産党の中で「変人」として扱われていました。牛乳の生産性をあげるために自ら搾乳機の講習会へ通い、夜遅くまで機械の操作を練習し、ついには機械の分解や組み立てまでできるようになったからです。
「第一書記なのに、まるで工場長」のような仕事をする彼は、他の地区の書記たちから冷やかしの対象となります。「ウダムは党活動家ではなく、経営者だ」と揶揄する者もいました。

それ以前にも彼は、あやうく書記を解任されそうになったことがあります。それはフルシチョフの時代。
1960年代初頭、時の指導者フルシチョフは「トウモロコシの奇跡」というアイデアに取りつかれていました。シベリアでもウクライナでもウラルでもトウモロコシの栽培が奨励され、その波はエストニアにも押し寄せます。
当時のエストニアの党幹部たちは出世欲のためか、それとも単なる無知なのか、特に深く考えることなくフルシチョフの指示に従いました。乳牛のために整備された数千ヘクタールの牧草地が掘り返され、その面積は全農地の15パーセント以下に制限されてしまいます。当然、乳牛たちは深刻なエサ不足に陥り、牛乳の生産量は激減。それでもフルシチョフの大号令は止まりません。ウダムは回想します。

「みんなが仲良く  “畑の女王” (当時のトウモロコシはこのように大げさに呼ばれていた)のために行進している時、歩調を乱すのは容易なことではありませんでした。今でこそ  “反トウモロコシ主義者”  という言葉は自慢できますが、当時は反抗者に貼られたレッテルだったのです」

ウダルはモスクワからやってきた党幹部から圧力をかけられます。
もう5月も終わりだというのに幹部は、牧草地を掘り返してトウモロコシを蒔けと命令。ちなみに寒冷地でのトウモロコシの種まきは4月中旬。ウダルは「これは大変な冒険になる」と直感し、のらりくらりと即答を避けて、結局、種まきをしませんでした。
もちろん、タダで済むはずがありません。首都タリンの共産党大会でウダルは「経済的な過ちだけでなく、政治的な過ちも犯している」と非難されます。どうしてクビがつながったのか、ウダルは記事でも多くを語りませんでした。

「現在に目を向ければ、モスクワの農工委員会はまだ各地の自然的、社会的差異や、幾世紀来の伝統を考慮せずに、単一の指令台から指揮する同じやり方で活動していることがわかります」

この記事は、当時のフルシチョフ政権に面従腹背の党幹部がいたという事実を、ソ連当局が評価した形になっているのが興味深いです。図らずもペレストロイカの未来と重なります。これより後、ゴルバチョフの指示をのらりくらりと拒む党幹部でソ連はあふれかえることになるのですから。


最後はヴァツラフ・ヴォロフスキー (Воровский, Вацлав Вацлавович) の記事。ヴォロフスキーは1919年、ソビエト政権最初の全権代表としてスウェーデンに赴任した人物。つまり最初のソ連大使です。
彼は1871年、世襲貴族の家柄に生まれました。23才の頃にはすでに共産主義に傾倒し、帝政ロシアで革命活動を始めています。26才の頃には革命思想のプロパガンダ活動と非合法文献配布の罪で逮捕されています。
貴族出身の革命家というのは、実はあまり珍しくないのですが、それでも困惑する人は少なくなかったようです。
彼はレーニン宛の手紙の封蝋に自分の家の指輪を使って封印していました。国境で郵便物の検査に当たっていたコミッサール(政治委員)のチモチェーエフは、レーニン宛の手紙に貴族の紋章が押されていることにどうしても納得がいかず、自分でレーニンのもとへ届けたと言います。

スウェーデンでの勤務ぶりも、当時の外交官(それも大使)とは思えぬ型破りなものでした。そもそも大使館が普通の住宅。訪問するとドアを開けるのはヴォロフスキー大使本人。執務室には幼い娘のためのベビーベッドが置いてあり、その横で書類を作成するのも大使自身。
しかし、当時の人々が一番驚いたのは、各種の公式書類や査証(ビザ)の発給が無料だったことでした。現在でも、たとえばアメリカへ旅行する場合、観光目的でも160ドルほどの手数料を取られます。

ヴォロフスキーの最期は、この時代の革命家に相応しいものでした。1923年5月10日、スイス・ローザンヌのホテルで銃撃されたのです。犯人は白系ロシア人で元チョコレート工場主だったモリス・コンラジ。彼をそそのかした黒幕はツァーリの軍隊に所属していた元大佐でファシスト連盟のメンバー、アルカージ・ボルーニン。ソ連では「ホテル・セシルの惨劇」として有名な事件だといいます。彼の遺体はクレムリンの壁に妻とともに埋葬されています。

一番下の画像はヴォロフスキーに交付されたソ連最初の外交旅券で、1917年12月23日に作成されたもの。
「この旅券で人民委員会議(ソビエト政府は)、ソビエト外交代表B.ヴォロフスキーを遅滞なく通貨させ、彼に援助を与えるよう外国官吏に要請し、ロシアの官吏に対しては命令するものである」とあります。


今回はこんなところで。
でわでわ~。