2014年3月22日土曜日

今日のソ連邦  第19号 1987年10月1日

今回の表紙はモスクワ北西部に完成した日本庭園の様子です。1970年代に駐ソ日本大使を勤めた重光晶氏と夫人が提唱し、日本万博基金が計画した施設です。ソ連科学アカデミー中央植物園が敷地を提供し、日本の造園家・中島健氏が設計しました。

冬場、時にはマイナス20度にもなるモスクワで日本庭園が成立するのか不安ですが、元々あったシラカバやカシに、日本のエゾヤマザクラなどを組み合わせた北国仕様になっているようです。

さて、〆切の関係からか、この号には8月の話題が多いです。
まずは8月6日の広島原爆の日に合わせて開催されたモスクワの反戦集会が紹介されています。
主催はモスクワの「勤労者代表」や「ドナウ=レナ川’87調査団(科学系なのか政治系なのか、よくわからない団体です)」、そして「ソ米ボルガ平和クルーズ」の参加者。場所は「ソ連平和擁護委員会」の建物前の広場です。
わざわざソ連にやってきてアメリカの核政策を非難しているアメリカ人が本国でどういう扱いを受けてるのか、ちょっと心配ですが、ソ連側も「集会にアメリカ人が混ざっている」というだけで微妙に一般市民から隔離された集会にしているフシが伺えます。

本誌での扱いも巻頭にこそ掲載されていますが、見開き2ページのみと素っ気ないもの。あと気になったのは本文にある「平和な日本の都市に米国の原子爆弾が投下された・・・」との記述。平時にいきなり核攻撃したみたいです。原爆投下を正当化するつもりはないですが、日米が戦争状態だったことを無理に省略しなくてもいいんじゃないかしらん。まぁ、それだと文脈がおかしくなるか。

続いては「ロシアの帆船の歴史」です。
やはり8月に「平和の白い帆」というヨットレースが日本海で開催されました。オーストラリア、英国、ブルガリア、ポーランド、ソ連、そして日本から合計14隻が参加し、室蘭からナホトカまでのコースでタイムを競ったそうです。
実はかれこれ4回目になる恒例行事だそうですが、地元はともかく東京じゃニュースを見た記憶が無いなぁ。
記事はこのレースにからめてロシアの古い船を美しいカラーイラストで紹介しています。
ロシア人と海との関わりはかなり古く、7世紀には東スラブ人(ロシア人の祖先)が、黒海を通って地中海まで往復する技術を持っていたことがわかっています。9世紀、キエフ・ルーシの時代にはスラブ商人の権益を保護するために戦闘集団を載せた艦隊がビザンティン帝国沿岸まで進出したことがありました。

当時の代表的な船は「ロジャー」と呼ばれるもので、大きな丸太をくり抜き、側面に板を打ちつけて舷側を高くした巨大なボートです。13~15世紀になるとロシアはタタール・モンゴルの襲来を受け、黒海やアゾフ海、カスピ海などに通じる地域を分断されてしまいます。しかし、ボルガ川上流のノブゴロド公国の商人たちは北方ルートを切り開き、西欧との交易を続けていました。
彼らの船は甲板を備え、独立した船室や船倉を持ち、武装も強力だったため海賊に十分対抗することができました。
ノブゴロド人の船にはバリエーションがあり、「シニャーカ」は全長8~11メートル。当時としては大型の部類で甲板はなく、2本のマストを備えていました。10~20トンの積み荷を運ぶことができたそうです。それよりやや小型で1本マストの船は「ノサーダ」。近海や河川の航行に適した「ウシクーイ」も持っていました。また、彼らは氷の海を渡るための特殊な構造の船も作っています。
これは喫水線の下が丸くなっていて、海が氷結して船体が締めつけられると、氷の上に持ち上がるようになっており、潰される心配が無いというものです。

なお、イラストには別ページに詳細な説明がありますので、テキスト大盛りにて。
1番は「北方型コーチ」。全長18~19メートル。幅4~4.5メートル。通常、10~15人で操船し、32トンまでの積み荷あるいは30人から50人の乗客を運べました。2番は前述したロジャー。3番はウシクーイです。いずれも7~25メートルまで各種のサイズがあり、大型のものは100人もの人間を乗せられたそうです。
4番は1669年に建造されたオリョール号。ロシア初の2層甲板帆走戦艦です。全長25メートル。幅6メートル。喫水1.6メートル。大砲6門。乗員55名。
5番はポルタワ号。1712年に建造されたパルト艦隊最初の戦列艦です。全長42メートル。大砲54門。
6番は聖ピョートル号。1740年に極東のオホーツクで建造された郵便旅客船で同型艦に聖パーベル号があります。全長24.4メートル。幅6.7メートル。喫水2.8メートル。積載量は96トン。もともとは探検船でアジアとアメリカの間に海峡が存在するかどうかを調査するのが目的でした。この時の指揮官がビーツス・ベーリング。ベーリング海峡の元になった人物です。
7番はゴト・プレディスチナツィア号。1700年に建造されたロシア最初の戦列艦です。全長36メートル。幅9.5メートル。乗員253名。大砲58門。アゾフ海でトルコ海軍と戦いますが、結局ロシアは敗北し、この艦はトルコ側に賠償として引き渡されてしまいました。
8番目はガレー船プリンツィピウム号。1696年に25隻建造されたうちの一隻です。全長38メートル。幅6メートル。34対のオールまたは帆走で航行しました。ゴト・プレディスチナツィア号とともにアゾフ海の戦いに参加しています。
9番は戦列艦インゲルマンランド号。1715年にペテルブルグで進水。3本マストの2層甲板船で全長46メートル。幅12.8メートル。喫水5.6メートル。大砲64門。
10番は戦列艦聖パーベル号。1794年建造。全長55メートル。幅15メートル。大砲84門。ナポレオン戦争の際、地中海遠征に参加しています。
11番は1841年に建造された十二使途号。同型艦にパリ号、コンスタンチン大公号があります。排水量5500トンに及ぶ大型艦で全長63メートル。幅18メートル。大砲130門。速力10ノット。
12番はロシア艦隊の3女神と呼ばれたフリゲート。同型艦にアウロラ号、ディアナ号、バルラダ号の3隻があることが由来です。帆船時代の最後を飾る船たちです。このうちバルラダ号は1832年建造。全長53メートル。幅13メートル。喫水6メートル。大砲56門。1853年にプチャーチン率いる外交使節団が日本を訪問した時に乗っていた船です。
13番はボートですが、ピョートル1世号と立派な名前がついています。ピョートルは若い頃、納屋で偶然このボートを発見して帆の扱い方を覚えたことから、ロシアを海洋国家にする夢を抱いたと言われています。ボートはその後、ロシア艦隊の神聖なイコンとなり、現在もレニングラード(サンクト・ペテルブルク)の中央海軍博物館に保存されているそうです。全長6メートル。幅2メートル。重さは1.28トンで儀礼用の礼砲4門を備えています。

さて次は、どう見ても目が死んでる警官のドアップから始まる「交通安全のため」という記事。国家自動車監督局(ГАИ=ガイー)の特集です。
ソ連では警察を「Милиция=ミリツィヤ」と呼び、日本では「民警」と訳されます。最近のロシアでは西欧風に「Полиция=ポリツィヤ」と言うようになり、嘆かわしい限り。それはさておき、なかなか興味深い記事と写真です。

今のロシアとは、比べ物にならないぐらいクルマの数は少ないのですが、それでも事故は起こります。わたしのお気に入りは2番目の画像にある「違反は違反・・・」と冷酷無比なキャプションがついた一枚。なんというか、もう・・・キップを切られてるドライバーの絶望感がハンパないです。

ちなみに、わたしもモスクワで交通事故にあったことがあります。友人が運転するクルマが無理矢理右折しようとして直進してきたクルマとガチャン。この時は警察のお世話にならず、そそくさとドライバー同士で示談金の相談をしておりました。申し訳ないので自分も一部負担した思い出があります。3枚目の画像は本来裏表だったページを無理矢理、見開きに再構成しました。なお、今回の記事の取材先がウクライナ共和国なのはまったくの偶然です。
最後はいつものソ連の民族特集。
今回は「ヤクート自治ソビエト社会主義共和国」です。
東シベリア北東部、レナ川の流域にあります。首都はヤクーツク。面積はソ連で3番目という広大な国ですが、人口は100万人ちょっとしかいません。
厳しい自然環境なので当然といえば当然。ちなみに世界でもっとも低い気温を記録したオイミャコン村もヤクート自治共和国にあります。

ヤクート人は背が高く、色は浅黒く、髪は黒い直毛で目は黒くて細く、頬骨が突き出ています。言語的にはチュルク語系民族のひとつとされ、控えめでマジメ。落ち着いた、堅実な民族とされています。まぁ、北国の人の一般的なパーソナリティと思えなくもありません。
客もてなしのよいことで知られ、旅人の訪問は見知らぬ人であってもめでたいことだと考えられています。客はまず最初にごちそうを振る舞われ、旅の目的などを質問されるのはその後です。

ヤクートは「柔らかい黄金(毛皮)」、「ダイヤモンドの宝庫」「青い火(天然ガス)」の守護者と言われ、他にも多くの天然資源に恵まれてます。これについては帝政ロシア時代から伝わる伝説があります。

神は地球を作った時、地下資源を均等に分配することにしたのだが、ヤクーチア上空を飛んでいる時、あまりの寒さに手が凍えて、宝物が入った袋を落としてしまった。このため宝物はヤクーチア全域にばらまかれたのである。

今回はこんなところで。
でわでわ~。

ゲームラボ(三才ブックス)でも鋭意連載中です。こちらもよろしく~。