2016年4月12日火曜日

今日のソ連邦 1988年7月1日 第13号 & お知らせ

久しぶりに本来のネタである「今日のソ連邦」の紹介です。
今回の特集は、まずソ連のテレビ事情から。
ソ連におけるテレビ放送は(当然のことながら)ソビエト共産党のプロパガンダ手段として最も有力かつ重要なものとして位置づけられています。監督官庁はテレビラジオ国家委員会
Гостелерадио СССР(ゴステレラジオ)】。名称こそ委員会ですが、閣僚会議直属で省クラスの権限を持ちます。

ソ連のテレビ放送は1930年に試験放送が行われ、本格的な放送は1932年10月1日に開始されました。といってもこの時はモスクワ周辺のみにしか電波が届かず、音声も無かったそうです
。つーか、そもそもテレビを売ってたのかな?
その後、大都市圏を中心に放送網が整備され、1934年には音声つきの放送が開始されます。もっとも1936年の1年間に放送された番組はおよそ300で、トータルの放映時間は200時間ということですから、放送時間は1日平均で30分程度だったことになります。

ソ連のテレビ放送の体制が確立するのは1970年代の後半です。チャンネルは全部で8つ、そのうち4つは時差をカバーするための遠隔地向け放送です。
純粋な意味での放送チャンネルは第1放送(総合テレビ)、第2放送(報道と芸能)、第3放送(教育テレビ)、第4放送(芸能・教養・スポーツ・再放送)となっています。ちなみに4つの放送すべてが見られるのはモスクワなどのヨーロッパ地域。シベリアや極東では大都市でもチャンネルが2つしかない地方が普通でした。放映時間も限られており、首都モスクワでも昼には放送を休止していました。ソ連の市民はテレビを見ながら昼食をとる習慣がなかったのですね。1980年代になるとMTVやBBC放送などの配信が始まりますが、これは外国人専用ホテル限定でした。

さて、表紙はなにやらお固い番組のようですが、これは「問題=探求=解決」というタイトルの番組。司会者は右端にいる人物。レフ・ボズネセンスキー氏。1980年から放送されている人気番組だそうです。番組のテーマは事前に告知され、その分野のエキスパートがゲストとして呼ばれます。
テレビ雜誌や新聞にはスタジオにつながる電話番号が20本公開され、視聴者はゲストの発言やテーマへの疑問を直接ぶつけることができるというものです。

以下、紙面で紹介されている番組を見てみましょう。残念ながら日本語訳メインで、本来の番組タイトルはあったり、無かったりです。

「カメラ速報」・月曜~金曜の19時30分からスタートする「こんばんは、モスクワ」という生放送番組の中の1コーナー。わずか5分ですが、レポーターとカメラマン、ADの3人だけで作られる機動性の高い番組。きわどい質問がウリの突撃レポーターものです。たとえばフリーマーケットで売られている女性のヌード絵画についてどう思うか?などでは「美しいからいいじゃないか」と答える中年男性、「恥だよ。我が国では女性は人前で裸になるべきではない」と渋面の年金生活者、「裸が許されるのは腰までだね。・・・男は!」とジョークを飛ばす若い警官などが放送されます。
取材班は2チームの交替制。朝、テレビ局を出て、取材に4~5時間。午後3時には戻って編集し、17時30分までに完パケを引き渡さなければなりません。

「120分」【120 МИНУТ】・朝の6時30分からスタートするニュースと音楽の総合番組。といっても子供向けアニメやエアロビクス、ロックミュージシャンやフォークミュージシャンの演奏、生活情報や料理メモ、上手な家事のアドバイスなどもあり、120分で全部おさまるのか?という番組です。ファッション情報もあり、女性キャスターの服やヘアスタイル、メイクなどが話題になるのは日本と同じです。

「陽気なとんちクラブもっとマシな訳はなかったのか?)・若者向け娯楽番組。【КВН(英語だとKVN)】の略称で知られており、1960年代からスタートした長寿番組だそうです。参加者は全国の大学から選出されたチームで、機知を競い合うというもの。しかし、やがてこの番組は都市対抗戦の様相を帯び始め、勝利は市の権威を高める一方、敗北は市の名誉に泥を塗るものと見なされます。
各地の大学に番組に出る前提でKVNクラブが作られ、行政府の首長や地方の共産党委員会は舞台装置や衣装に多額の資金を提供するようになります。過熱した番組は批判にさらされ、生放送は録画され、編集されたものが流されるようになりました。内容は明らかにつまらなくなり、ついには打ち切りの憂き目をみます。復活したのは1987年。最初の形式に戻り、人気を博しているとのことです。

「レッツゴー・ガールズ!」・若い女性向けの娯楽番組で、これも視聴者参加型のゲーム形式。出演者(女の子)には仮想の設定が与えられ、妻、母、労働者、そして社会を構成する市民として振る舞うことが要求されます。勝利者は視聴者によって選ばれ、「性格がはっきりしていて、実生活に即した頭の良さと、打てば響くノリの良さがあり、しかも女性的魅力を秘めた一番調和のとれた女の子」という理想像を追求する番組のようです。

「何が? どこで? いつ?」【ЧТО? ГДЕ? КОГДА?】・人気の高い若者向け番組のひとつ。やはり視聴者参加型です。6人が1チームとなり、丸テーブルにつきます。中央にはルーレットが置いてあり「歴史」「文化」「科学」などのカテゴリーが並んでいます。参加者はこのルーレットが提示する質問に協力して答えていくというもの。

「メガネ・ケース」【Prillitoos ※エストニア語・エストニア共和国で制作された高齢者向けの番組。バルト3国ではチャンネルが7つもあり、さらに隣接するフィンランドの番組を傍受することができます。番組制作者にとっては競争相手が多い地域というわけで、若者向け番組ばかり作るのではなく、高齢者のニーズを掘り起こそうと作られた番組です。番組内容はざっくばらんに言うと、「お年寄りの知恵とか体力、技能を見直そう」というもの。祖母仕込みのハーブティーを作ってみせるおばあさん、民族固有の編み物を披露するおばあさん、老人たちのコーラスクラブ、老若男女が集まってウォーキングする「歩け歩け3キロメートル」などなど。番組は現在も続いています。公式サイトはこちら


「推理ゲーム」・古今東西のミステリー小説や映画のパロディ番組。殺人・強盗・恐喝・誘拐なんでもあり。幽霊が出る古城まであります。出演者はソ連でも人気の実力派俳優たちで、アフトル(作者という意味)、インスペクトル(捜査官)、セルジャント(軍曹)の3人がレギュラーです。
視聴者は彼らと一緒に推理して、テレビの中の犯罪を解明しなければなりません。殺人であれ、誘拐であれ、窃盗であれ、「犯人、手口、時間、場所、動機」のすべてに正解する必要があります。
毎回、1000通を超える回答が寄せられ,正解者全員にアガサ・クリスティやジョルジュ・シムノンの作品、そして中心的な役割を演じた出演者たちの「指紋」がついたサイン入りブロマイドが送られます。


さて、ソ連を代表する番組といえば、なんといってもニュース番組【ВРЕМЯ(「ブレーミヤ=時間)】です。キャスターはもっとも経験があり、信頼される人物。ファンレターが来るほどの人気なのです。
番組はモスクワ時間の午後9時スタート。放映時間は平均40分で、国内の主要ニュース、海外ニュース、ルポとニュース解説、科学・文化・スポーツのコーナーで構成されています。

この番組のテーマ曲は【Время, вперед!(時よ、前進!)】のサビ部分が使われています。元々は同名小説の映画のテーマ曲で、作曲者はスヴィリードフ。ソチ・冬季オリンピックの開会式典で、宙に浮かぶ巨大な機関車のオブジェが登場する場面のバックに流れたのをご記憶の方もいるのでは。カッコいい曲なので
リンクを。ブレーミヤで使われてる部分は1分ぐらいからです。

おしまいはソ連の有名テレビ業界人リストです。
大きめにスキャンしたので詳しいプロフィールは拡大してご覧ください。全員を知ってたら変態を通り越して、狂人レベルのソ連マニアだと思います。わたしは一人しかわかりませんでした。だから正常です。

さて、次はいささか重い話題。
当ブログの更新ペースの遅さは弁明の余地がありませんが、今回の号を取り上げるのが、あと2週間早ければ、この記事の紹介はまったくトーンが異なったものになっていたはずです。
本来なら「ソ連時代にこんなことがあった」と過去形で書きたかったところですが、2016年4月2日。まさにこの地で武力紛争が発生してしまいました。
当事者も同じ。それがナゴルノ・カラバフ紛争です。本稿執筆時点ではなんとか停戦状態のようですが、双方が相手を非難しており、報道されない戦闘があっても不思議ではありません。

ナゴルノ・カラバフはソ連憲法第87条第3項にも明記される自治州で、アゼルバイジャン共和国の中にありますが、自治州人民代議員ソビエトが独自に法律を制定することができます。人口は1988年時点で17万7000人。そのうち75パーセントがアルメニア人です。

アゼルバイジャンとアルメニアは隣国で、どちらもソ連邦を構成する社会主義の共和国です。ソ連の国土面積から見れば小さな地域ですが、それが大事件の舞台となってしまいました。

1988年2月20日、ナゴルノ・カラバフ自治州ソビエトは、2つの要請を採択します。ひとつはナゴルノ・カラバフの帰属をアゼルバイジャンからアルメニアへ変更してほしいという要請。これはアゼルバイジャンとアルメニアの2つの共和国に対して出されました。もう一つは、この問題をソ連最高会議で審議して欲しいという要請。これはモスクワに対して出されたものです。採択を支持したのはナゴルノ・カラバフ選出のアルメニア系代議員たちです。

この要請自体はソ連の法律に基づいたもので、ソ連の基準でも民主的なプロセスと呼べるものでした。しかし、結果的にアルメニアとアゼルバイジャン双方の民族主義者を刺激することになり、両者の間で衝突を生み出してしまいます。
この事件についてプラウダは社説でこう書いています。

「我々の連邦は歴史的に若く、民族的な残滓の根は深く何世紀にもわたって隠されており、この根は、我々が望む・望まないにかかわらず、一定の条件のもとで発芽するということが忘れられていた。したがって新しい世代はそれぞれ、国際主義的の意識が育つ畑となる民族感情の文化をもっとも真剣に身に付けることが必要である。そして、民族感情の文化を身に付けることが放置されていた間に、民族的エゴイズムの感情の芽が出てきた。結局はこれが、アルメニアの通りや広場に何千、何万という人々を引っ張りだしたのである」

ところで、ナゴルノ・カラバフとはどんな場所なのでしょう。今日のソ連邦では、今回の問題(まだ紛争という言葉を使っていません)とは切り分けて、ナゴルノ・カラバフという土地を紹介しています。
写真は古都シューシャと郊外の村との風景です。

ナゴルノ・カラバフは2~3世紀にかけて大アルメニアの領土となり、もっとも初期のキリスト教国家のひとつとなります。その後、4世紀に入るとペルシャ人の侵入を受け、その後はアラビアの支配を受けます。この時、イスラム教が入りました。
その後はセルジューク・トルコ、モンゴル・タタールと異民族による支配が続きます。16世紀から18世紀にかけてはペルシャとトルコの領土紛争の舞台となります。
ショーシャはこの頃に建設された要塞都市で、ナゴルノ・カラバフ(当時はカラバフ汗国)の首都となります。その後、再びペルシャの脅威が高まると、カラバフ汗国は帝政ロシアの支援を求めます。この接近は、カラバフ汗国のロシア帝国の編入という結果をもたらし、20世紀初頭のロシア革命で、この地もソ連邦の一部となります。
 ややこしい歴史経緯があるとはいえ、この地に早く平和が戻ってほしいものです。


■さて、最後は告知で~す。
以前、お仕事を手伝わせていただいたスケール・アヴィエーション(大日本絵画)さんにまたまた協力させていただきました! 毎号、好評を博しているノーズアート・クィーン。今回のモデルさんは倉持由香さんです。

こちらの企画ではミリタリーアイテムをスタイリストさんが自由にコーディネートしており、前回のモデルグラフィックス誌上におけるジェーニャさんのような、軍の正式な規定書に基づくコーディネートとはまた違った趣が楽しめます。

メインの特集も「Su-27フランカーとそのファミリーの最新事情」というわけで、わくわくもんだぁ!
4月13日発売ですから是非是非~。




今回はこんなところで。でわでわ~。


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