2012年10月19日金曜日

今日のソ連邦 第16号 1986年8月15日 その1

今日のソ連邦。今回はなにやらカラフルで楽しげな表紙ですが、この詳細は次へということで。あと、帯に書かれた「第12次 五ヶ年計画とソ連極東」や「ドン河畔のまちロストフ」の特集記事も、内容が地味なのでカットします。
今日のソ連邦という広報誌、表紙での扱いが中身に反映されるのかというと、必ずしもそういうわけでもないようです。

さて、今回まず目に飛び込んでくるのは、1985年からソ連が一方的に中止を宣言した「核実験モラトリアム」の記事。これはあらゆる種類の核爆発を中止し、く核廃絶への道筋をつけようという、ゴルバチョフ書記長の政策です。

当初は「アメリカが核実験をしない限り、ソ連も核実験はしない」という主張でしたが、アメリカはその後も核実験を続けました。ソ連はそんなアメリカの姿勢を非難するとともに、3回に渡ってモラトリアムを延長。核廃絶に真剣に取り組んでいる、という姿勢をアピールしたのです。

“ソ連は、兵器に頼らずに、平和を愛する手本を示して、他国の立場に影響を及ぼすために、あらゆるチャンスを生かそうという意図や善意を改めて発揮した”

もっともこの時、すでにソ連経済はガタガタで、核実験どころではありませんでした。ソ連は平和外交に転じることでアメリカにも軍縮を促し、相対的に戦力差を縮めようと考えていたわけです。

ところで、この記事にはもうひとつの側面があります。ページをめくって次に現れるのが、この年の4月に起きた「チェルノブイリ」関連の記事なのです。

本誌では事故の経緯やその後の対応が紹介されていますが、その前に、核実験モラトリアムの記事をもってくる構成にすることで、事故がもたらしたソ連へのマイナスイメージを弱めようという、編集意図が見て取れます。ついでに言うと、チェルノブイリの記事の次は、広島原爆に関する記事です。

ざっと見たところ、事実関係に関しては、今とさほどの差異は感じないという印象です。ソ連当局としては、事故はあくまでも「不幸な偶然」によるもので、技術に欠陥があるわけではない、と主張していることがわかります。興味深いのは、アメリカの原子力機関の研究員の証言を持ち出して、主張の補完をしている点。ほんの数ページ前ではアメリカを非難していたのに・・・。

では、ここで本誌が紹介しているソ連の当時の対応策を見てみます。

まず、原発周辺30㎞地帯からの人々の疎開計画が緊急立案された。実際には、この地域の人々に直接の脅威はなく、放射線計測値は毎時10-15ミリレントゲンであったものの、万一に備えて疎開させることが決定された。

日常生活では融通性が足りないといって、
しばしば辛辣に批判されていた組織中央集権制が、
この場合はモノを言った。

最短時間内に、2172台のバス、1786台のトラックが確保され、約4000人の運転手が動員された。疎開者の新しい土地での受け入れが組織され、ホテル、国民宿舎、サナトリウムが確保された。その結果、チェルノブイリから近いプリピャチ市の4万人の市民は、約3時間で疎開を完了した。

町や村からの疎開はもっと複雑だった。農民は春の農作業の盛りに村を去ることを望まなかった。それでも放射線の高い地帯に入っていた50の町村から、26,000人が疎開した。

新しい場所では転入者のために住居、3回の無料の食事が提供され、各人に200ルーブルの手当てが当てられた(当時のソ連では1ルーブル=1000円ぐらいの見当です)。

村では菜園用の土地が割り当てられた。疎開者の大多数は、最初の数日間で現地当局が提供した仕事に就いた。疎開した人々はだれも疎開のために1コペイカも支払わなかった。

しかし、非常事態によってもたらされた様々な要求を、すべての指導者が満たすことができたわけではなかった。結論は、事故と関連したすべての問題と同様、速やかに断固として下された。
ふたりの企業の指導者が解任され、ひとりは党から除名された。もうひとりは党の厳しい処分を受けた。確かに場所によっては足並みの乱れもあった。しかし、これらの手落ちは中央集権的指導部のおかげで直ちに正された。

一方、事故の収拾はどのように行われたのでしょう?
記事では「4号炉に対する攻撃」という表現で説明されています。

空には内部に鉛の板を張ったヘリコプターが飛び回り、地上では放射線防護機能を持つ装甲車が走り回っていた。原発から12㎞のところにヘリポートが設けられた。
毎日、日の明るい間じゅう、パイロットたちは事故を起こした原子炉の噴火口を塞ぐために200メートルの高度から、砂、大理石の粉末、白雲石、鉛、ホウ素の入った袋で原子炉を“爆撃”した。

いささか長い引用になってしまいました。
疑おうと思えば、いくらでも疑える記事ですが、信憑性については、今なら十分に検証可能だと思います。それにしても、有無を言わさぬ中央集権体制が、強制的に事態を収拾していくくだりは、思わず納得してしまうものがあります。ソ連共産党すごい。

加えて言うなら、ソ連は軍事超大国として、つねに核戦争を意識していました。
工業地帯や都市が核攻撃された場合、さらには原子力発電所そのものが核攻撃された場合の想定などが、なかば強迫観念のように整備されていたはずです。

チェルノブイリ事故の対応策は、その場でいきなり考え出されたものではなく、あらかじめ準備されていた核戦争のマニュアルを応用したと考えるべきでしょう。世の中、何が役に立つかわからない、という話ですが、元をたどっていくとなんとも複雑な気分です。


今回の更新は、いささか堅苦しい内容になってしまいましたが、
「その2」はもっと気楽なものにしますです。

でわでわ~。

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