2016年5月21日土曜日

今日のソ連邦 1988年7月15日 第14号

ども、お久しぶりです。座骨神経痛をやらかし、ゴールデンウィークが丸ごとムダになりました。まぁ、旅行の予定とか無かったからいいけど(泣いてなどいない)。

さて、今回は華やかで懐かしい顔ぶれの表紙です。
この日、モスクワ・ボリショイ劇場の貴賓席に現れたのは、青いドレスのライサ夫人、その横で手をふるレーガン大統領。上を見上げるゴルバチョフ書記長、白いドレスのナンシー夫人。今年の3月にナンシー・レーガン夫人が鬼籍に入り、現在も存命中なのはゴルバチョフ氏だけになってしまいました。さすがに寂しいですねぇ。


両首脳の会談は、実際には5月29日から6月2日までと、かなり前に行われているのですが、速報性を重視する西側メディアと違い、会談内容とか共同声明とかの評価が定まらないうちは記事にしないのが、いかにも社会主義国の広報誌です。本文ページの特集記事も「客を見送って」の見出しから始まります。

ゴルバチョフ・レーガンの首脳会談はジュネーヴ、レイキャビク、ワシントンD.C.に続き、4回目。この会談でINF(中・短距離ミサイル)全廃条約の批准書が交換され、歴史的な核軍縮が始まりました。
ちなみにレーガン大統領といえば、ソ連を「悪の帝国」と呼んだ人物です。
ロシアには「言葉はスズメじゃない。飛び出したらつかまらない」ということわざがありますが、この一件はソ連のメディアで繰り返し取り上げられ、この時の訪問でもソ連側の記者から「今でもそう思っているか?」という質問が投げかけられました。
ここで彼は、過去の自分の発言をはっきりと否定してみせるのですが、このやりとりがクレムリン宮殿の名物のひとつである「大砲の王様」の前だったことにソ連のメディアはある種の象徴的な意味を見出したようでした。
もっとも、この時のレーガンは翌年1月に任期切れを控え、政治の表舞台から去ろうとしていました。記事では「ゴルバチョフ書記長は、ホワイトハウスの主の交替によって不可避的に中断される対話を、誰と復活しなければならないか考えないわけにはいかない」と述べています。

見開きのカラーページには、首脳会談の合間を塗って交流にいそしむナンシー夫人の様子が紹介されています。
右上の写真は歓迎夕食会の様子。晩餐会ではなく、夕食会という表記に注意です。ソ連=ロシアでは伝統的に午餐(昼食)が正式な食事ということもありますが、晩餐会という表現が「資本主義的」と見なされたのかもしれません。
実際、写真をよく見ますとゴルバチョフもレーガンもディナージャケットではなく、普通のスーツにネクタイなのがわかります。

余談になりますが、第3回首脳会談が行われたホワイトハウスでの晩餐会でも、レーガン以下、アメリカ側の出席者全員がタキシードにブラックタイだったのに対し、ゴルバチョフはスーツ姿のままでした。オシャレなことで有名なゴルビーですが、この時の態度が「無粋である」として、ファッション誌「VOGUE」がベストドレッサー賞の授与を見送ったという逸話があります。


次の記事は「アカデムゴロドク」の特集。
アカデムゴロドクは正式名称を「ソ連科学アカデミー・シベリア部ノボシビルスク学術センター」といいます。ノボシビルスクといえばガルパン声優のジェーニャさんの地元として有名ですが、その郊外に22のソ連科学アカデミー研究所、6つの特別設計事務所が集中する区画があり、科学技術図書館、試験工場、実験生物学ステーションなどが併設されています。住民は1万人におよぶ科学者・技術者とその家族。医学アカデミーの研究施設やその他の省庁の実験施設も置かれています。

いかにも理系が集中していそうですが、実際には社会学や経済学など人文科学系の人材も揃っており、ペレストロイカで打ち出された経済自由化構想なども、アカデムゴロドク出身の学者によって提言されたものだそうです。このことからノボシビルスクはペレストロイカのゆりかご。アカデムゴロドクはその頭脳と呼ばれているのです。
記事によるとアカデムゴロドクでは、ペレストロイカの推進を受けて、純粋科学にとどまらず実用面での完成度にも目が向けられているとのこと。独立採算制の企業「ファーケル」が生まれ、アカデムゴロドクの様々な研究成果から実用的に利用できるアイデアをすくいあげ、ソ連各地の企業に売却する事業を行っています。

ところで、なぜシベリアのド真ん中に科学の殿堂のような都市が作られたのか? きっかけはフルシチョフ時代で、当時の自由闊達な空気が新天地シベリアと相性がよかったのだといいます。
これはブレジネフ政権になってから思わぬ効果を生みました。モスクワから3000キロも離れていたおかげで、中央政府の保守的な空気が流れ込みにくく、停滞の時代にあってもその影響は少なくて済んだのです。

もちろんアカデムゴロドクにも問題はあると記事は書いています。皮肉にもその原因はペレストロイカで、優秀な人材が次々と “モスクワ送り” になり、研究を牽引する力が弱まることが懸念されているとか。うまくいかないものですねぇ。

次もペレストロイカ関連記事。エストニア共和国のピャルヌ地区というところを統括しているエストニア共産党・地区党書記のお話。
ピャルヌ地区はバルト海沿岸にある保養都市で毎年、ソ連全土から大勢の人々が余暇を楽しみにやってきます。面積でもエストニア最大の行政地区で、牛乳と食肉の最大の産地。農業と観光の町というわけです。

写真の人物は地区委員会第一書記のワルテル・ウダム氏。それまでにも各地の地区で第一書記をつとめ、ピャルヌ地区の第一書記になって10年になります。
若い頃から彼は、エストニア共産党の中で「変人」として扱われていました。牛乳の生産性をあげるために自ら搾乳機の講習会へ通い、夜遅くまで機械の操作を練習し、ついには機械の分解や組み立てまでできるようになったからです。
「第一書記なのに、まるで工場長」のような仕事をする彼は、他の地区の書記たちから冷やかしの対象となります。「ウダムは党活動家ではなく、経営者だ」と揶揄する者もいました。

それ以前にも彼は、あやうく書記を解任されそうになったことがあります。それはフルシチョフの時代。
1960年代初頭、時の指導者フルシチョフは「トウモロコシの奇跡」というアイデアに取りつかれていました。シベリアでもウクライナでもウラルでもトウモロコシの栽培が奨励され、その波はエストニアにも押し寄せます。
当時のエストニアの党幹部たちは出世欲のためか、それとも単なる無知なのか、特に深く考えることなくフルシチョフの指示に従いました。乳牛のために整備された数千ヘクタールの牧草地が掘り返され、その面積は全農地の15パーセント以下に制限されてしまいます。当然、乳牛たちは深刻なエサ不足に陥り、牛乳の生産量は激減。それでもフルシチョフの大号令は止まりません。ウダムは回想します。

「みんなが仲良く  “畑の女王” (当時のトウモロコシはこのように大げさに呼ばれていた)のために行進している時、歩調を乱すのは容易なことではありませんでした。今でこそ  “反トウモロコシ主義者”  という言葉は自慢できますが、当時は反抗者に貼られたレッテルだったのです」

ウダルはモスクワからやってきた党幹部から圧力をかけられます。
もう5月も終わりだというのに幹部は、牧草地を掘り返してトウモロコシを蒔けと命令。ちなみに寒冷地でのトウモロコシの種まきは4月中旬。ウダルは「これは大変な冒険になる」と直感し、のらりくらりと即答を避けて、結局、種まきをしませんでした。
もちろん、タダで済むはずがありません。首都タリンの共産党大会でウダルは「経済的な過ちだけでなく、政治的な過ちも犯している」と非難されます。どうしてクビがつながったのか、ウダルは記事でも多くを語りませんでした。

「現在に目を向ければ、モスクワの農工委員会はまだ各地の自然的、社会的差異や、幾世紀来の伝統を考慮せずに、単一の指令台から指揮する同じやり方で活動していることがわかります」

この記事は、当時のフルシチョフ政権に面従腹背の党幹部がいたという事実を、ソ連当局が評価した形になっているのが興味深いです。図らずもペレストロイカの未来と重なります。これより後、ゴルバチョフの指示をのらりくらりと拒む党幹部でソ連はあふれかえることになるのですから。


最後はヴァツラフ・ヴォロフスキー (Воровский, Вацлав Вацлавович) の記事。ヴォロフスキーは1919年、ソビエト政権最初の全権代表としてスウェーデンに赴任した人物。つまり最初のソ連大使です。
彼は1871年、世襲貴族の家柄に生まれました。23才の頃にはすでに共産主義に傾倒し、帝政ロシアで革命活動を始めています。26才の頃には革命思想のプロパガンダ活動と非合法文献配布の罪で逮捕されています。
貴族出身の革命家というのは、実はあまり珍しくないのですが、それでも困惑する人は少なくなかったようです。
彼はレーニン宛の手紙の封蝋に自分の家の指輪を使って封印していました。国境で郵便物の検査に当たっていたコミッサール(政治委員)のチモチェーエフは、レーニン宛の手紙に貴族の紋章が押されていることにどうしても納得がいかず、自分でレーニンのもとへ届けたと言います。

スウェーデンでの勤務ぶりも、当時の外交官(それも大使)とは思えぬ型破りなものでした。そもそも大使館が普通の住宅。訪問するとドアを開けるのはヴォロフスキー大使本人。執務室には幼い娘のためのベビーベッドが置いてあり、その横で書類を作成するのも大使自身。
しかし、当時の人々が一番驚いたのは、各種の公式書類や査証(ビザ)の発給が無料だったことでした。現在でも、たとえばアメリカへ旅行する場合、観光目的でも160ドルほどの手数料を取られます。

ヴォロフスキーの最期は、この時代の革命家に相応しいものでした。1923年5月10日、スイス・ローザンヌのホテルで銃撃されたのです。犯人は白系ロシア人で元チョコレート工場主だったモリス・コンラジ。彼をそそのかした黒幕はツァーリの軍隊に所属していた元大佐でファシスト連盟のメンバー、アルカージ・ボルーニン。ソ連では「ホテル・セシルの惨劇」として有名な事件だといいます。彼の遺体はクレムリンの壁に妻とともに埋葬されています。

一番下の画像はヴォロフスキーに交付されたソ連最初の外交旅券で、1917年12月23日に作成されたもの。
「この旅券で人民委員会議(ソビエト政府は)、ソビエト外交代表B.ヴォロフスキーを遅滞なく通貨させ、彼に援助を与えるよう外国官吏に要請し、ロシアの官吏に対しては命令するものである」とあります。


今回はこんなところで。
でわでわ~。


2016年4月12日火曜日

今日のソ連邦 1988年7月1日 第13号 & お知らせ

久しぶりに本来のネタである「今日のソ連邦」の紹介です。
今回の特集は、まずソ連のテレビ事情から。
ソ連におけるテレビ放送は(当然のことながら)ソビエト共産党のプロパガンダ手段として最も有力かつ重要なものとして位置づけられています。監督官庁はテレビラジオ国家委員会
Гостелерадио СССР(ゴステレラジオ)】。名称こそ委員会ですが、閣僚会議直属で省クラスの権限を持ちます。

ソ連のテレビ放送は1930年に試験放送が行われ、本格的な放送は1932年10月1日に開始されました。といってもこの時はモスクワ周辺のみにしか電波が届かず、音声も無かったそうです
。つーか、そもそもテレビを売ってたのかな?
その後、大都市圏を中心に放送網が整備され、1934年には音声つきの放送が開始されます。もっとも1936年の1年間に放送された番組はおよそ300で、トータルの放映時間は200時間ということですから、放送時間は1日平均で30分程度だったことになります。

ソ連のテレビ放送の体制が確立するのは1970年代の後半です。チャンネルは全部で8つ、そのうち4つは時差をカバーするための遠隔地向け放送です。
純粋な意味での放送チャンネルは第1放送(総合テレビ)、第2放送(報道と芸能)、第3放送(教育テレビ)、第4放送(芸能・教養・スポーツ・再放送)となっています。ちなみに4つの放送すべてが見られるのはモスクワなどのヨーロッパ地域。シベリアや極東では大都市でもチャンネルが2つしかない地方が普通でした。放映時間も限られており、首都モスクワでも昼には放送を休止していました。ソ連の市民はテレビを見ながら昼食をとる習慣がなかったのですね。1980年代になるとMTVやBBC放送などの配信が始まりますが、これは外国人専用ホテル限定でした。

さて、表紙はなにやらお固い番組のようですが、これは「問題=探求=解決」というタイトルの番組。司会者は右端にいる人物。レフ・ボズネセンスキー氏。1980年から放送されている人気番組だそうです。番組のテーマは事前に告知され、その分野のエキスパートがゲストとして呼ばれます。
テレビ雜誌や新聞にはスタジオにつながる電話番号が20本公開され、視聴者はゲストの発言やテーマへの疑問を直接ぶつけることができるというものです。

以下、紙面で紹介されている番組を見てみましょう。残念ながら日本語訳メインで、本来の番組タイトルはあったり、無かったりです。

「カメラ速報」・月曜~金曜の19時30分からスタートする「こんばんは、モスクワ」という生放送番組の中の1コーナー。わずか5分ですが、レポーターとカメラマン、ADの3人だけで作られる機動性の高い番組。きわどい質問がウリの突撃レポーターものです。たとえばフリーマーケットで売られている女性のヌード絵画についてどう思うか?などでは「美しいからいいじゃないか」と答える中年男性、「恥だよ。我が国では女性は人前で裸になるべきではない」と渋面の年金生活者、「裸が許されるのは腰までだね。・・・男は!」とジョークを飛ばす若い警官などが放送されます。
取材班は2チームの交替制。朝、テレビ局を出て、取材に4~5時間。午後3時には戻って編集し、17時30分までに完パケを引き渡さなければなりません。

「120分」【120 МИНУТ】・朝の6時30分からスタートするニュースと音楽の総合番組。といっても子供向けアニメやエアロビクス、ロックミュージシャンやフォークミュージシャンの演奏、生活情報や料理メモ、上手な家事のアドバイスなどもあり、120分で全部おさまるのか?という番組です。ファッション情報もあり、女性キャスターの服やヘアスタイル、メイクなどが話題になるのは日本と同じです。

「陽気なとんちクラブもっとマシな訳はなかったのか?)・若者向け娯楽番組。【КВН(英語だとKVN)】の略称で知られており、1960年代からスタートした長寿番組だそうです。参加者は全国の大学から選出されたチームで、機知を競い合うというもの。しかし、やがてこの番組は都市対抗戦の様相を帯び始め、勝利は市の権威を高める一方、敗北は市の名誉に泥を塗るものと見なされます。
各地の大学に番組に出る前提でKVNクラブが作られ、行政府の首長や地方の共産党委員会は舞台装置や衣装に多額の資金を提供するようになります。過熱した番組は批判にさらされ、生放送は録画され、編集されたものが流されるようになりました。内容は明らかにつまらなくなり、ついには打ち切りの憂き目をみます。復活したのは1987年。最初の形式に戻り、人気を博しているとのことです。

「レッツゴー・ガールズ!」・若い女性向けの娯楽番組で、これも視聴者参加型のゲーム形式。出演者(女の子)には仮想の設定が与えられ、妻、母、労働者、そして社会を構成する市民として振る舞うことが要求されます。勝利者は視聴者によって選ばれ、「性格がはっきりしていて、実生活に即した頭の良さと、打てば響くノリの良さがあり、しかも女性的魅力を秘めた一番調和のとれた女の子」という理想像を追求する番組のようです。

「何が? どこで? いつ?」【ЧТО? ГДЕ? КОГДА?】・人気の高い若者向け番組のひとつ。やはり視聴者参加型です。6人が1チームとなり、丸テーブルにつきます。中央にはルーレットが置いてあり「歴史」「文化」「科学」などのカテゴリーが並んでいます。参加者はこのルーレットが提示する質問に協力して答えていくというもの。

「メガネ・ケース」【Prillitoos ※エストニア語・エストニア共和国で制作された高齢者向けの番組。バルト3国ではチャンネルが7つもあり、さらに隣接するフィンランドの番組を傍受することができます。番組制作者にとっては競争相手が多い地域というわけで、若者向け番組ばかり作るのではなく、高齢者のニーズを掘り起こそうと作られた番組です。番組内容はざっくばらんに言うと、「お年寄りの知恵とか体力、技能を見直そう」というもの。祖母仕込みのハーブティーを作ってみせるおばあさん、民族固有の編み物を披露するおばあさん、老人たちのコーラスクラブ、老若男女が集まってウォーキングする「歩け歩け3キロメートル」などなど。番組は現在も続いています。公式サイトはこちら


「推理ゲーム」・古今東西のミステリー小説や映画のパロディ番組。殺人・強盗・恐喝・誘拐なんでもあり。幽霊が出る古城まであります。出演者はソ連でも人気の実力派俳優たちで、アフトル(作者という意味)、インスペクトル(捜査官)、セルジャント(軍曹)の3人がレギュラーです。
視聴者は彼らと一緒に推理して、テレビの中の犯罪を解明しなければなりません。殺人であれ、誘拐であれ、窃盗であれ、「犯人、手口、時間、場所、動機」のすべてに正解する必要があります。
毎回、1000通を超える回答が寄せられ,正解者全員にアガサ・クリスティやジョルジュ・シムノンの作品、そして中心的な役割を演じた出演者たちの「指紋」がついたサイン入りブロマイドが送られます。


さて、ソ連を代表する番組といえば、なんといってもニュース番組【ВРЕМЯ(「ブレーミヤ=時間)】です。キャスターはもっとも経験があり、信頼される人物。ファンレターが来るほどの人気なのです。
番組はモスクワ時間の午後9時スタート。放映時間は平均40分で、国内の主要ニュース、海外ニュース、ルポとニュース解説、科学・文化・スポーツのコーナーで構成されています。

この番組のテーマ曲は【Время, вперед!(時よ、前進!)】のサビ部分が使われています。元々は同名小説の映画のテーマ曲で、作曲者はスヴィリードフ。ソチ・冬季オリンピックの開会式典で、宙に浮かぶ巨大な機関車のオブジェが登場する場面のバックに流れたのをご記憶の方もいるのでは。カッコいい曲なので
リンクを。ブレーミヤで使われてる部分は1分ぐらいからです。

おしまいはソ連の有名テレビ業界人リストです。
大きめにスキャンしたので詳しいプロフィールは拡大してご覧ください。全員を知ってたら変態を通り越して、狂人レベルのソ連マニアだと思います。わたしは一人しかわかりませんでした。だから正常です。

さて、次はいささか重い話題。
当ブログの更新ペースの遅さは弁明の余地がありませんが、今回の号を取り上げるのが、あと2週間早ければ、この記事の紹介はまったくトーンが異なったものになっていたはずです。
本来なら「ソ連時代にこんなことがあった」と過去形で書きたかったところですが、2016年4月2日。まさにこの地で武力紛争が発生してしまいました。
当事者も同じ。それがナゴルノ・カラバフ紛争です。本稿執筆時点ではなんとか停戦状態のようですが、双方が相手を非難しており、報道されない戦闘があっても不思議ではありません。

ナゴルノ・カラバフはソ連憲法第87条第3項にも明記される自治州で、アゼルバイジャン共和国の中にありますが、自治州人民代議員ソビエトが独自に法律を制定することができます。人口は1988年時点で17万7000人。そのうち75パーセントがアルメニア人です。

アゼルバイジャンとアルメニアは隣国で、どちらもソ連邦を構成する社会主義の共和国です。ソ連の国土面積から見れば小さな地域ですが、それが大事件の舞台となってしまいました。

1988年2月20日、ナゴルノ・カラバフ自治州ソビエトは、2つの要請を採択します。ひとつはナゴルノ・カラバフの帰属をアゼルバイジャンからアルメニアへ変更してほしいという要請。これはアゼルバイジャンとアルメニアの2つの共和国に対して出されました。もう一つは、この問題をソ連最高会議で審議して欲しいという要請。これはモスクワに対して出されたものです。採択を支持したのはナゴルノ・カラバフ選出のアルメニア系代議員たちです。

この要請自体はソ連の法律に基づいたもので、ソ連の基準でも民主的なプロセスと呼べるものでした。しかし、結果的にアルメニアとアゼルバイジャン双方の民族主義者を刺激することになり、両者の間で衝突を生み出してしまいます。
この事件についてプラウダは社説でこう書いています。

「我々の連邦は歴史的に若く、民族的な残滓の根は深く何世紀にもわたって隠されており、この根は、我々が望む・望まないにかかわらず、一定の条件のもとで発芽するということが忘れられていた。したがって新しい世代はそれぞれ、国際主義的の意識が育つ畑となる民族感情の文化をもっとも真剣に身に付けることが必要である。そして、民族感情の文化を身に付けることが放置されていた間に、民族的エゴイズムの感情の芽が出てきた。結局はこれが、アルメニアの通りや広場に何千、何万という人々を引っ張りだしたのである」

ところで、ナゴルノ・カラバフとはどんな場所なのでしょう。今日のソ連邦では、今回の問題(まだ紛争という言葉を使っていません)とは切り分けて、ナゴルノ・カラバフという土地を紹介しています。
写真は古都シューシャと郊外の村との風景です。

ナゴルノ・カラバフは2~3世紀にかけて大アルメニアの領土となり、もっとも初期のキリスト教国家のひとつとなります。その後、4世紀に入るとペルシャ人の侵入を受け、その後はアラビアの支配を受けます。この時、イスラム教が入りました。
その後はセルジューク・トルコ、モンゴル・タタールと異民族による支配が続きます。16世紀から18世紀にかけてはペルシャとトルコの領土紛争の舞台となります。
ショーシャはこの頃に建設された要塞都市で、ナゴルノ・カラバフ(当時はカラバフ汗国)の首都となります。その後、再びペルシャの脅威が高まると、カラバフ汗国は帝政ロシアの支援を求めます。この接近は、カラバフ汗国のロシア帝国の編入という結果をもたらし、20世紀初頭のロシア革命で、この地もソ連邦の一部となります。
 ややこしい歴史経緯があるとはいえ、この地に早く平和が戻ってほしいものです。


■さて、最後は告知で~す。
以前、お仕事を手伝わせていただいたスケール・アヴィエーション(大日本絵画)さんにまたまた協力させていただきました! 毎号、好評を博しているノーズアート・クィーン。今回のモデルさんは倉持由香さんです。

こちらの企画ではミリタリーアイテムをスタイリストさんが自由にコーディネートしており、前回のモデルグラフィックス誌上におけるジェーニャさんのような、軍の正式な規定書に基づくコーディネートとはまた違った趣が楽しめます。

メインの特集も「Su-27フランカーとそのファミリーの最新事情」というわけで、わくわくもんだぁ!
4月13日発売ですから是非是非~。




今回はこんなところで。でわでわ~。


2016年3月25日金曜日

アカが戦車でやってくる

どもです。
日付が変わりましたので情報解禁です。
3月25日発売のモデルグラフィックスの企画を
ちょっとお手伝いさせていただきました。
現在、大ヒット中の映画&テレビシリーズのアニメ「ガールズ&パンツァー」のプラウダ高校特集です。

表紙の背景になっているプラウダ高校の学園艦は、もちろんソ連海軍のキエフ級戦術航空巡洋艦がモデルなのですが、今回の企画にあたり、アニメ制作会社アクタス様に資料提供をさせていただきました。

最初にお話をうかがった時、キエフの資料なんて、いくらでもあるんじゃないのかなぁ?なんて思ったのですが、いざ探してみると「作画資料としてのクオリティ」に耐えうるものは結構少ないことがわかり、軽い気持ちで引き受けて、ちょっと焦りました。

でも、その甲斐あって実際に出来上がったイラストは素晴らしいです。画面中央右端に見える飛行甲板の前縁に防風パネルが展開しているところを絵にしたのはガルパン・スタッフが世界初ではないでしょうか。
全国の書店や模型専門店で絶賛発売中ですので、是非、お買い求めいただければと思います。



さて、今回の目玉はなんといっても、声優のジェーニャさんのグラビアです!
「ガールズ&パンツァー劇場版」ではプラウダ高校の新キャラクター「クラーラ」を演じ、ロシア人キャラをロシア人声優が演じるという画期的なキャスティングとなりました。すばらしい!

モデルグラフィックスは模型雜誌ですので、当然、メインはソ連戦車。そこにジェーニャさんがゲストで登場するなら・・・というわけで今回、ソ連軍の軍服の提供およびコーディネートをさせていただきました!

詳しい内容はモデルグラフィックス本誌を見て頂ければと思いますが、見てのとおり「ただのホンモノ」です。いや、準備もさることながら、撮影も大変でした。なにしろジェーニャさんはスタイルが良く、一方の軍服は男性用でだぶだぶ。写真ではなんとかそれなりに決まっていますが、背後は安全ピンとクリップと洗濯バサミで大変なことになっています。


ソ連は多民族国家なので、アジア系の人間でもそれなりに軍服は似合うのですが、やはりロシア人が着るとレベルが一気に上がりますね。

モデルグラフィックス誌上では、すばらしいクオリティの写真やジェーニャさんのインタビュー、その他、ガルパンの魅力がいろいろ詰まっております。
是非是非、お買い求めください。






今回のコーディネート。
ソ連の軍服は一般的には地味で野暮ったい印象があるので、メダル増し増しで揃えてみました。一部はレプリカです。
ぶっちゃけ「あなた、何万人のナチス殺しましたか?」って感じですが、勲章の性格上、戦争前に人民の敵の粛清も相当やったのではないか?なんてストーリーが浮かんでくるような、こないような(妄言)。


ちなみにモデルグラフィックス本誌にも解説を書かせていただきました。
補足しますと、金星メダルを授与された将兵にはレーニン勲章も授与されるのですが、今回は別の企画でレーニン勲章を貸し出してしまっていたため、残念ながら間に合いませんでした。
まぁ、ソ連邦英雄の称号をもらい、これからレーニン勲章を授与される直前の様子・・・なんてシチュエーションでご了承くださいませ。



参考までに。
今回の撮影のために勲章・メダル類を揃えていた時、「正直、盛りすぎたかな?」とか思ったのですが、史実を調べてみると上には上がいました。
アントニーナ・ヴァシリエーヴナ・・レベデヴァ(1916~1943)【Антонина Васильевна Лебедева】は空軍中尉として戦闘機に搭乗。叙勲歴に共通点が多く、偶然ながらびっくりしました。










というわけで「ガルパンはいいぞ!」

今日のソ連邦の紹介は次回ということで、すみません。
とりあえず、引き続きよろしくです。
でわでわ~。

2016年2月20日土曜日

艦船模型の展示会 ~2016~

新春恒例のミンダナオ会さまによる艦船模型展示会です。
今回は2月12日.13日.14日の3日間に渡る開催となりました。
今回は「第一次世界大戦の艦船」がテーマ。
というわけで早速、会場の様子をレポートしてみたいと思います。

ミンダナオ会というと会場に所狭しと並べられた圧巻の艦船模型展示が定番ですが、
今回はちょっと様子が違います。なんかスカスカ。これはもちろん手抜きではなく、
1916年5月31日午後から6月1日未明にかけて行われた「ジュットランド沖海戦」
様子を
再現したものです。
これは第一次世界大戦に行われた英国VSドイツの海戦で、主力戦艦同士がガチで
ぶつかりあった空前絶後の艦隊戦です。今年でちょうど100周年になりますが、おそらく
こんな海戦は二度と起こらないでしょう。今回の展示会では、この海戦のクライマックスを
5月31日午後6時30分と定め、その瞬間を立体的に把握できるよう心が配られています。


イギリス艦隊“グランドフリート”の旗艦アイアン・デューク。座乗するのは
ジェリコー大将。麾下に戦艦28隻、巡洋戦艦9隻を擁し、さらに20隻を
越える巡洋艦と70隻を越える駆逐艦を従えていました。


対するドイツ艦隊旗艦のフリードリヒ・デア・グローセ。率いるはシェーア中将。
麾下に戦艦22隻、巡洋戦艦5隻を擁し、さらに数隻の巡洋艦が加わっています。
イギリス艦隊に比べると数では下回っていますが、機動力に富む水雷艇が
50隻以上も参加しており、イギリス海軍の壊滅を目論んでいました。


さて、この作戦。最高司令官とは別に2人の指揮官が重要な役割を演じています。
ひとりは英国海軍のビーティー中将。巡洋戦艦だけで構成される巡洋戦艦艦隊を率いて
いました。画像では右側にある独立した薄いブルーのテーブル上の展示です。
もうひとりはドイツ海軍のヒッパー中将。こちらも巡洋戦艦5隻からなる第一偵察戦隊を
率いていました。こちらは濃いブルーのテーブル。両者はジュットランド沖海戦の前に起きた
「ドッガー・バンク海戦」でも砲火を交えた因縁の仲。ヒッパーはビーティをおびき出して
シェーア率いる主力艦隊の前に引きずり出し、壊滅することを企図していました。

この展示ではビーティーとヒッパーがそれぞれ左右に進路を変えています。両者は一旦、
離れているのですが、この時、ジェリコー大将率いるグランドフリートがシェーアの前に
あらわれ、進路を遮ります。横一列に並んだ艦隊が単縦陣の先頭に火力を集中できる
丁字戦法の型が形成され、シェーアは危機に陥ってしまいました。
これを見たヒッパーは艦隊を反転させてグランドフリートに突進。シェーアの艦隊が逃げる
時間を稼ぎます。しかし、そんなシェーアを今度はビーティの艦隊が追撃します。
一連の戦闘でイギリス艦隊は14隻を失い、ドイツは11隻を失いました。戦術的にはドイツの
勝利と言えなくもありませんが、残存艦隊では英国が優位になります。とはいえ両者の差は
それほど決定的になったわけでもなく、戦いは引き分けといったところでしょうか。



個別の艦の展示を見ていきましょう。これは1/350スケールの英国戦艦ハーキュリーズ。
ジュットランド沖海戦では第1戦艦艦隊の第6戦隊に所属していました。

こちらは1/350スケールの英国戦艦ロイヤルオーク。1916年5月1日就役といいますから、
ジュットランド沖海戦ではピカピカの新鋭戦艦です。1939年にドイツ潜水艦の攻撃を受け
多数の乗組員とともにスカパフロー軍港で撃沈されてしまいます。
船体は今も軍港内に沈んでおり、毎年10月14日に海軍のダイバーが艦尾の軍艦旗を
交換する慰霊式典が続けられているとか。これはつまり同艦が未だに除籍されておらず、
形式上は現役のイギリス海軍艦艇として扱われているということです。


第一次世界大戦では航空機が本格的に導入された戦争です。当時はまだ複葉機ですが、
それでもとてつもない破壊力を持っていることが証明されました。海軍も早速、航空機の
活用を考え、実戦投入されます。画像は左からアークロイヤル、エンガディン、アーガス、
フューリアス(1917年改装)、同じくフューリアス(1925年改装)。このうちエンディガンは
ジュットランド沖海戦に参加し、史上初の航空機による偵察を行っています。

ルシタニア号。英国キュナード・ラインの客船で、1915年5月7日、南アイルランド沖で
ドイツ潜水艦の攻撃を受けて沈没。1200人近い犠牲者が出ました。この中にはアメリカ人
128人も含まれており、アメリカの対独参戦のきっかけになったことで知られています。
この件では、とかく悪く言われがちなドイツですが、実は大使館を通じてアメリカ人に
利用しないよう呼びかけています。
また、後世の調査では127トンもの武器弾薬が積み込まれていたことが判明しており、
ドイツだけが一方的に悪いわけでもなさそうです。

イギリス海軍の巡洋戦艦タイガー。1914年10月に就役した新鋭艦でビーティ中将率いる
巡洋戦艦艦隊に所属し、ドッガー・バンク海戦とジュットランド沖海戦に参加しています。
ただ、いずれも戦果ははかばかしくなく、多数の命中弾を受けて死傷者を出しています。
言うなれば「傷だらけの虎」でしょうか。

今回はこんなものも。ジュットランド沖海戦の様子が1/3200スケールのジオラマとなって
展示されています。奥にあるのはダーダネルス海峡突破作戦のパネル展示。


近くで見ると、ちゃんと作り込まれた戦艦です。水柱も再現されていて見ていて飽きません。

もうひとつのパネル展示。ダーダネルス海峡突破作戦です。ドイツと同盟関係に
あった
オスマン帝国(オスマン・トルコ)は第一次世界大戦で連合軍と敵対。
これに対し、
首都イスタンブール占領をもくろむイギリスおよびオーストラリアなどの
イギリス連邦、
そしてフランスの連合軍が海峡の突破を試みます。
トルコ側は海峡沿岸を要塞化し、
なおかつ湾内にびっしりと機雷を敷設。連合軍側
の前ド級戦艦6隻が撃沈・大破という結果になります。しかし、これは前哨戦に過ぎず、
後に「ガリポリの戦い」として知られる上陸作戦は、双方合わせて50万とも言われる
死傷者を出すことになるのです。


このガリポリの戦い、トルコ側では「チャナッカレの戦い」と呼ばれ、歴史上きわめて
重要な戦いと位置づけられています。多大な犠牲を出しながらも連合軍の撃退に
成功したからで、この時の指揮官のひとりムスタファ・ケマルは後年、オスマン帝国
帝政を廃してトルコ共和国を建国。初代大統領に就任します。
トルコでは2012年に映画化もされているのですが、会場でどういうわけかそのDVD
上映されていました。なんというか、トルコ版の「二〇三高地」みたいな感じです。
トレーラーはこちらちなみに原題で検索すると映画が丸ごと……ゲフンゲフン!


そんなわけでダーダネルス海峡は前ド級戦艦の墓場になってしまったわけですが、
そんな古い世代の戦艦を。カノーパス、レナウン、右はダンカンです。


こちらはオーストリア・ハンガリー海軍。一番手前が戦艦ブダペスト。そのとなりが
戦艦エルク・ヘルツォーク・フルディナント・マックスです。長い! 第一次世界大戦

の敗北でオーストリア・ハンガリー帝国は解体され、内陸国になったオーストリアと

ハンガリーは一大海軍を失い、小規模な河川艦隊だけになってしまいます。



一方、海の向こうのアメリカはというと大規模な工業化をすすめて海軍も増強しています。
画像は砲塔や上部構造物が派手ですが、リサーチに基づく正確な色だそう。白い船体は
「グレート・ホワイト・フリート」の由来にもなりました。これは1907年から1909年にかけて
世界一周航海を行ったアメリカ大西洋艦隊のことです。


もっとも、そんなキレイな装いも戦争になってくるとやってられないわけで。手前は戦艦
ヴァージニアの変わり果てた(?)姿。バスケット型のマストはより遠くを見通せるように
考え出されたものです。こんな頼りない構造物の上で見張りしなきゃいかんとかイヤですわ。
ところで、その頃、われらが大日本帝国海軍は何をしていたのか?というと第一次世界
大戦では連合国の一員としてしっかり参加しております。一等巡洋艦「出雲」を旗艦とする
第二特務艦隊が編成され、当時イギリス領だった地中海のマルタ島を拠点にマルタ=
マルセイユ(フランス)、マルタ=タラント(イタリア)、マルタ=アレキサンドリア(エジプト)の
3つの通商航路で護衛にあたりました。この任務で駆逐艦「榊」が被雷。78名の死者を
出しています。

世界大戦というだけあって、戦場は世界の海へと広がります。ここでは第一次世界大戦の
その他の海域で活躍した艦艇が豊富な資料とともに展示されていました。日本だと
アオシマ……じゃない青島要塞の戦いが映画になっていますが、ここではエムデンの戦いが
注目を集めていました。

エムデンはドイツ海軍の巡洋艦。といっても全長は100メートルちょっとしかありません。
この艦はインド洋からマレー半島にかけての広い範囲で通商破壊戦に従事しました。
撃沈したり拿捕した艦船は30隻以上。最後はオーストラリア海軍に撃破されてしまいますが、
その直前に陸戦隊がイギリスの洋上無線基地を破壊するべく南の島に上陸していました。
彼らはエムデンの戦闘を見ると、島にあったオンボロ帆船を奪って脱出。途中、ドイツ商船に
拾われ、イエメンに上陸。そこからラクダや船を乗り継ぎ、時にはアラブの盗賊と戦い、
アラビア半島からダマスカス、コンスタンチノープルへと逃げ延び、最後は鉄道でベルリンに
帰還するのです。ちなみに艦長たちも捕虜になりますが、終戦後は釈放されています。


その他の展示を見てみましょう。こちらはイタリア王国の陣容。

帝政ロシア海軍からソ連海軍へと所属が変わった戦艦パリスカヤ・コンムナ。風変わりな
船首部分は増設された作業甲板らしく、砕氷機能を付与したのではないかとの話。


同じく帝政ロシア海軍の戦艦インペラトリッツァ・マリーヤ。こちらも船首に
謎のクレーン設備がついています。


ロシア=ソビエトの流れとなると避けて通れないのが二等巡洋艦アウローラ(オーロラ)。
ペトログラード(サンクト・ペテルブルク)で革命の合図となる砲撃を行ったことでソ連では
神格化された存在でした。前述したロイヤルオークのところでも触れましたが、こちらも
博物館でありながら、現役の海軍艦艇として扱われています。

ポスト・ジュトランド型戦艦。ジュトランド沖海戦はその後の海戦に大きな影響を与えました。
従来のタイプの戦艦では戦いに勝てないと実感した列強各国は火力や防御力を高めた
より大型の戦艦建造に乗り出します。今思えば、この時すでに大艦巨砲主義は終焉を
迎えていたと言えるのでしょうけど、この流れは戦艦大和の建造まで続きます。

1/350スケールで作られた馴染み深い戦艦群。


おまけ。ミンダナオ会のメンバーである斎木伸生氏。かれこれ20年以上のつきあいです。
軍事評論家としてソ連やフィンランドに造詣が深く、劇場版アニメ「ガールズ&パンツァー」で
フィンランド語の指導もしています。かくいうわたしも拙書の「ミリタリー服飾用語事典」で
フィンランド軍の監修をしていただきました。

画像はフィンランドの民族楽器「カンテレ」。ガルパンの劇中にも登場し、新宿バルト9での
トークショーでは自ら演奏も披露されたとか。ぼくもいじらせてもらいましたが、シンプルながら
奥の深い楽器です。


今回はこんな感じです。
また来月あたりに「今日のソ連邦」の紹介記事をアップしようと思います。
よろしくお願いします。

でわでわ~。