2013年1月27日日曜日

今日のソ連邦 第24号 1986年12月15日 その2

前回の続きです。
ちょっと駆け足というか、手抜きなんですが、まぁ、更新は更新ということで。
この号では1917年前夜のロシア ~神秘主義と現実~という特集が組まれています。ロシア革命の前日譚というわけです。
めんどくさいので、中身を細かく書くことは控えますが、記事ではもっぱらラスプーチンにスポットをあて、彼に代表される神秘主義に耽った帝政ロシアの中枢が、いかに破滅への道を歩むかが、少々過激な言葉でつづられています。

ソ連では、とにかく帝政ロシアは悪の帝国。皇帝は気が弱く、権威のない人間で、その妃アレクサンドラはヒステリックな浪費家。ラスプーチンに至っては「怪物」「狂人」「汚らわしい奴」「偉大な道化師」「ドイツ諜報機関の便利なペダル」、さらには「終始酔っぱらっている無学な山師」と、言いたい放題。そういえばロシア語は悪口が豊富なことでも有名な言語で、激しい罵り方のことを「7階建ての罵詈雑言」などと呼ぶそうです。
しかし、興味深い記述もあります。

「昔から指摘されていることだが、
神秘主義の波が発生するのは、まず社会的危機の時期である。
これまで定着していた社会秩序や伝統的な見解が崩壊するとき、
反動勢力は蔵の中から古いものを動員する。これが神秘主義を発生させる元になる」

実は、ソ連社会にも、この言葉の意味を実感する時が訪れるのですが、それはまたの機会に。ちなみに画像の左上は、当時の風刺画です。うっすらと文字が書いてありますが、これは最上段から下に向かって

我々は諸君の上に君臨する(最上段)
我々は諸君を統治する(2段目)
我々は諸君をだます(3段目)
我々は諸君を撃つ(4段目)
我々は諸君のために食べる(5段目)
我々は諸君のために働く。我々は諸君を扶養する(最下段)

しかし、時がくれば民衆は怒り立ち、
背をぴんと伸ばし、そして皆で肩を寄せ合って
強い力で、このばかでかい代物をひっくり返すだろう

とあります。
とはいえ皇帝一家を処刑したことで、ソ連は長らくマイナスイメージを背負い込むことにもなります。ロシア連邦になって、皇帝とその家族の遺骸が発掘され、ミサが執り行われることになろうとは、想像もできなかったでしょうね。

次はモスクワ防衛戦45周年記念ということで「カチューシャの最初の砲撃」という記事。
ソ連軍の代名詞とも言える自走式多連装ロケットランチャー「カチューシャ」の開発者の物語です。開発するけど、すぐ死んじゃうので3ページで終わります(不謹慎)。
記事を要約するのは、ちょっともったいない気がしたので、まとめてアップします。いささか大きなサイズですが読んでいただけるとありがたいです。ノンブルがありますが、左、中央、右の順です。(アップロードし直しました)

最後の記事はアフガニスタンからソ連軍6個連隊が撤退を開始したというニュース。
まぁ、泥沼状態の戦場から旗を丸めて逃げ帰るわけですが、記事ではあくまでも「アフガニスタン国内の情勢が安定したのでソ連軍がアフガニスタン政府を支援する必要性がなくなった」というトーンでまとめられています。


写真は戦車の砲口にカバーを付けて撤退準備をする兵士。アフガンカと呼ばれる戦闘服姿ですが、祖国に帰れるとあってさすがに嬉しそうです。
ちなみにこの写真、なんと見開きです。今日のソ連邦で軍人や兵器が大きなサイズで掲載されることは珍しいのですが、あまり書くことがなかったからなのかもしれません。

次の写真にも「アフガニスタン政府の要請で同国に駐留していたソ連軍兵士」と、いささかくどいキャプションがついています。やはりアフガンカを着ていますが、襟に兵科章がついていません。戦闘服自体、なんとなくキレイに見えますし、襟のカラーも真っ白。帰国にあたって新品を支給されたのかもしれません。

下の写真はソ連に向かう戦車部隊。
地続きですから、自走して帰ります。国境を越えると、帰国歓迎式典の会場が準備されていて、そのままセレモニーに参加することになるのですが、息子の帰国を待ちきれない母親たちが待ち構えていて、そのまま連れ帰って行ってしまうことも珍しくなかったそう。
軍のお偉いさんが演説しているのに、櫛の歯が欠けるように兵士がいなくなっていき、ソ連の権威が地に落ちたことを証明してしまったのでした。

今回は手短になりましたが、この辺で。
では、また。

2013年1月21日月曜日

今日のソ連邦 第24号 1986年12月15日 その1

どもです。
世間ではすっかり正月気分も抜けましたが、この号の紹介が間に合えば、より新年の幕開けにふさわしいブログになったかもしれません。いや、去年のうちに1回余分に更新するだけでよかったはずなのですが。
でも、ロシアの旧正月(ユリウス暦)は1月14日だし、日本の旧正月も2月10日なんで、とりあえず改めまして、あけましておめでとうございます。

さて。表紙はモスクワで開催された日本産業総合展の様子。
三菱のパソコンはMSXの8ビット機種でしょうか。当時はココム(対共産圏輸出統制委員会)が、コンピュータの対ソ輸出を厳しく制限しており、16ビット以上の機種は輸出を許されませんでした。

この他にも会場ではヤマハの電子楽器やニッサンのフェアレディZ31、ソニーのビデオカメラとか、当時のモスクワ市民にはあまり縁がなさそうなモノがどっさり展示されていました。
 
当時のソ連の人々にとって、日本製品は憧れの的だったのですが、かといって、こうした見本市に誰もが自由に来ることはできなかったようです。
普通の一般市民に見えても、実際は当局から選ばれた、あるいは許可された人間だけが来場を許されていました。

西側との技術格差を広く実感されるのは好ましくないと思われていたからでしょうか。でも日本は比較的、優遇されている方で、なんでも「日本人は朝から晩まで働いているから、これだけのものを作りだせるのだ」という説明がしやすかったからなんだとか。
褒められてるんでしょうけど、素直に喜べない感じもしますな。

そんなわけで特集その1。
今回は年末号になるわけですが、新年の挨拶を兼ねています。今日のソ連邦は隔週発行なので、1月1日号の方が良さ気ですが、まぁ元日に読者の手元に届くわけもなく。
で、1987年は卯(うさぎ)年ということで、「おーい、待てぇ!」(Ну, Погоди! =ヌー、パガディー!)の作者であるヴィアチェスラフ・コチョーノチキンさんがわざわざ描き下ろしイラストと漫画を寄稿してくれてます。

でも・・・正直言って・・・微妙・・・・・・。

キモノ、ゲタ?、ツリ目、あと合掌って・・・。まぁ、日本人もロシア人を描く時はコサックダンス、ウォッカ、戦車ですから、偉そうなことは言えません。とはいえ、このゲタ・・・なんだか寿司に見えてくるなあ。

この「おーい、待てぇ!」は、ソ連で絶大な人気を誇るアニメです。
元々は児童向け雜誌「ゆかいな回転木馬」に掲載されていた漫画で、1969年にアニメ化されました。小さいけれど賢いウサギと大きいけど間抜けなオオカミの追いかけっこを描いた作品です。
最後は決まってオオカミがひどい目にあい、よれよれの姿になりながらウサギに呼びかけます。「おーい、待てぇ!」と。

当時のソ連でもキャラクターグッズが展開され、カレンダーやTシャツ、絵ハガキ、オモチャやバッジなどがあります。制作はメルヘンの家と呼ばれるアニメ・スタジオ「ソユーズムリトフィルム」。
かの国ではアニメーターも国家公務員なのであります(ドヤ)。


エピソード・ゼロとでも言うべきパイロット版。


こちらが正式な第1話。民警が無駄に正確だ・・・。

ロシア語タイトルで検索すれば、たくさんの動画を見ることができます。


特集その2は次回へ。
ではでわ~。

2013年1月6日日曜日

今日のソ連邦 第18号 1986年9月15日


どもです。
時間のあるうちに更新しておかないと。で、前回の続きです。
誰も覚えてないグッドウィル・ゲームスがまだ特集されてます。
表紙は平均台の競技。
オクサナ・オメリヤンチクというソ連の選手です。
ロシア語における女性の姓は語尾にaがつく、というのは日本でもそれなりに広まってきた法則ですが、彼女はオメリヤンチカではありません。結構、例外があるのですね。(追記…彼女はウクライナ人らしいです)
ちなみに彼女は女子体操個人総合で3位に入賞しました。


この大会では6つの世界新記録、8つの大陸新記録、90以上の各国の新記録が出たそうで、結果はそれなりだったようです。
ちなみに世界新記録の内訳は
・水泳男子個人800メートル自由形=7分50秒64 ウラジーミル・サリニコフ(ソ連)
・自転車競技男子団体4000メートル追い抜き=4分12秒830 A・クラスノフ、S・フメリニン、V・シプンドフ、V・エキモフ(ソ連)
・陸上競技7種女子=7148点 ジャッキー・ジョイナー=カーシー (米国※日本で有名なフローレンス・ジョイナーさんとは別人です)
・自転車競技男子スプリント200メートル計時=10秒224 ミハエル・ヒュブナー(東独)
・陸上競技男子棒高跳び=6メートル01 セルゲイ・ブブカ(ソ連)
・自転車競技女子スプリント200メートル計時=11秒489 エリカ・サルミャエ(ソ連)
となっております。(国籍は当時のもの)


では、次の特集。
ソ連で盛んな低温工学に関する記事です。相変わらず大雑把な環境で精密な作業をしている感じのソ連の研究所ですが、ホコリとか大丈夫なんかな。
さて、ここで言う低温工学とは「極低温工学」のことでマイナス153度C以下の温度のもとで起こる現象と、そうした環境を作る装置の開発に関する研究のことです。
ソ連ではピョートル・カピッツァなる人物がその嚆矢とされていますが、彼が最初の低温装置を開発したのは1939年から40年にかけて。まさに独ソ戦が始まろうとしている頃です。
装置で作られた液体窒素は冶金工学の分野に変革をもたらしたとあります。
高炉の場合、生産性は1.5倍になり、コークス消費量は25%の削減に成功。ソ連が早くから冶金の分野で発展をとげ、主に戦車の装甲などに生かされたことは有名な話ですが、低温工学の発展が支えていたのかもしれませんね。
なお、この記事では超伝導についても触れられていますが、日本ではこの手の話題は最近、聞かないなぁ。あと「人類は古くから低温の有効性について気づいていた。打撲症の治療で患部を冷やすのは昔から行われていることだ」ともありますが、それって低温工学なんでしょか? まぁ、例えとしてはわかりやすいですけど。

でも永久凍土はずっと温度が上の方なので、この記事には出てきません。ソ連=シベリア=寒い=永久凍土かと思ったんですが。
余談ですが、日本でも永久凍土の研究成果は日常的に利用されています。永久凍土は水を通さない性質があるので、地下鉄工事などでは冷却ボルトを土壌に打ち込み、地面を凍らせてしまいます。そうすることで坑道に水が吹き出す心配をせずに、トンネル掘削ができるというわけです。

お次はリトワ(現在のリトアニア共和国)で復活しつつある農村芸能についての話題。
失われつつある民族文化の復活というのは、どこでも行われていることですが、ソ連でも例外ではなかったようです。でもリトアニアの農村から急速に伝統芸能が廃れていった時期というのが、20世紀初頭って・・・年代をぼやかしてるけど、それって社会主義革命の頃じゃないのかなあ。
農村と農民を急激に集団化していったら、そりゃ伝統芸能も無くなるような気がするんですが、同志スターリン、どうなんでしょう?(命知らず)
それはそうと、この劇団、果たして今もリトアニアで存続しているのでしょうか?

最後は恒例のロシア語散歩。
今回は地名の隠れた意味です。
ソ連にはアクサイという名の川が4つあるそうです。
そのうちの二つは北カフカス、残りはカザフスタンとキルギス。同名の街も3つあり、キリギス、ボルゴグラード(旧スターリングラード)、ロストフ・ナ・ドヌーの近郊です。
どれもチュルク語系の名前で、アクは白、サイは川という意味なのだそう。
川の名前はその特長から名づけられることが多く、チーハヤ(音無川)、ブールナヤ(激流)、スラートカヤ(甘川)などがあります。典型的なのがアクサイのように色から命名される例で、ベーラヤ(白川)、クラースナヤ(赤川)、チョールナヤ(黒川)などがあります。
もっとも水質から来る色とは限らないようで、ベーラヤは濁流であることが多く、チョールナヤは流れがわからないほど穏やかな川か、冬でも凍結しない川のことを指します。白い雪景色をバックにすると、川が黒く見えるからだと言われています。
流れの状況や周囲の景色で命名されるということは、一本の大河が地域によって違う名前になるということでもあります。

湖はシベリアに何百とありますが、これらはすべてライダ(ヤクート語で湖沼)と呼ばれます。数が多いのでいちいち名前を付けてられないようです。ロシア平原にある湖も単純にオーゼロやオゼルコー、オゼルツォーなどと呼ばれます。
ちなみにバイカル湖はチュルク語で「豊かな湖」という意味。でも地元のブリヤート・モンゴル人は「ダライノール(聖なる湖)」と呼んでるそうです。エベレストとチョモランマの関係みたいなものでしょうか。

ソ連には大河が沢山ありますが、昔は運河がなかったため、船乗りたちは船を陸にあげて別の川に運んでいました。この時の曳き船作業をロシア語でボーロクと言います。ここからボロコラムスク、ボロークなどの街の名前ができました。
また、黒海からバルト海へつながる通商水路が、かつてスモレンスク市の近くにありました。船乗りたちはこの街に到着すると船底にタール(スモール)塗り直すのが恒例だったようで、スモレンスクの名前はここから来ています。
最後に「ウラル」の語源について。
エカテリーナ2世の時代、この地域一帯で大規模な農民蜂起が起こりました。口火を切ったのはヤイク川の近くに住んでいたヤイク・コサックで、指導者はエメリヤン・プガチョフ。有名な「プガチョフの反乱」です。しかし蜂起は失敗に終わり、プガチョフは処刑され、農民たちの多くが流刑されました。
エカテリーナ2世は、この血なまぐさい農民蜂起の記憶をぬぐい去るために、最初の蜂起の場所であるヤイツキー市とヤイク川の改称を命じます。
1775年、ヤイク川はウラル川になり、周辺の山々もウラル山脈となります。この名前はこの地域に住むマンシ族やバシキール族の言葉で、単なる「山」という素っ気ない名前なのだそうです。

今回は、こんな所で。
でわでわ~。


2013年1月1日火曜日

謹賀新年


新年あけましておめでとうございます。
果たしてどなたが見てるやらという感じのページですが、
今年もしばらく今日のソ連邦をご紹介したいと思います。
更新はゆっくりですが、よろしければ本年もよろしくお願いいたします。





2012年11月23日金曜日

今日のソ連邦 第17号 1986年9月1日

なんとか今月の更新にこぎつけました。
表紙は鳥人セルゲイ・ブブカ。今はウクライナ国籍ですが、当時はもちろんソ連代表です。
今回は1986年に開催された第一回グッドウィル・ゲームズの特集が組まれています。グッドウィル・ゲームズを直訳すると親善試合。80ヶ国の3000人がモスクワなどに集まり、夏季大会と冬季大会の2回に分けてアスリートたちが競い合ったとのこと。
メイン会場のモスクワ・レーニン中央スタジアムでは、聖火みたいな炎が燃え盛り、華やかなパレードで開会が宣言されました。うーん、なんだかオリンピックみたいな?

発案者はTBS会長のテッド・ターナー氏。CNNの創業者でもある大富豪です。で、TBSは日本のテレビ局ではなくて、ターナー・ブロードキャスティング・システムというケーブル放送局。後にタイム・ワーナーと合併します。

話を戻しますと、1980年代はオリンピック受難の10年でした。80年のモスクワ五輪は西側がボイコット。84年のロス五輪は東側がボイコット。スポーツと政治は関係ない、とはよく言われますが、現実は厳しいものでした。
ターナー氏は、オリンピックをやり直したかったのかもしれません。この大会にはアメリカの選手団もちゃんと参加してます。日本も柔道やバレーボールの代表チームが参加してます。ちなみにIOC(国際オリンピック委員会)もこの大会を支持していました。

とはいうものの、そこはやはりソ連。そこはかとなく、しかし明白な政治色が漂います。体育学校の生徒たちが動員されてのマスゲーム。急逝したサマンサ・スミスの代理で彼女の母親が登場し、ソ連のサマンサちゃんと呼ばれたカーチャ・ルイチョワが花束を渡します。そして観客席には社会主義国家の十八番「プラカードによる人文字」です。

この人文字、華やかで統制が取れてるだけではありません。いきなりパレードが中断し、スタジアムの照明が落とされると、描き出されたのは、広島に投下された原爆のキノコ雲……。突如として善と悪のせめぎあいが描かれます。

うーむ。原爆糾弾はわかるけど、ここでやることか?
空気を読まないのは奥崎謙三ぐらいかと思っていましたが、国家レベルでやっちまうあたり、ソ連はスゴイです。つーか、アメリカ政府もよく選手団を送ったものです。いや、知らなかったのか? 
この開会式の模様は世界中に中継され、20億人が見たとのことですが、どうやらその中に日本国民は含まれていなかった模様。アメリカも推して知るべしです。

で、ヒロシマ原爆ショー&ハルマゲドンが終わると、今度はいきなり米ソ友好ムード。アポロ・ソユーズ共同飛行の宇宙飛行士たちが登場し、空中ではアポロとソユーズに似せたパルーンが合体!
あ、これはちょっと見てみたかった。
アレクセイ・レオノフは将官用の夏季礼装が似合っているなあ。勲章ジャラジャラの軍人がスポーツのイベントに出てくるとかどうなのよ?と思う人がいるかもしれませんが、これがなければソ連じゃありません。

そんなこんなで幕を開けたグッドウィル・ゲームズですが、結果から言うとTBSは赤字だったそうです。しかしターナー氏は「「アメリカが毎年、軍備増強に費やしてる3000億ドルに比べたら取るに足らない金額である」と言ってのけたとか。ターナーさん、民主党支持だったのかしらん?

しかも、このグッドウィル・ゲームズ、1回で終わりじゃありませんでした。1990年にアメリカのシアトル。94年にはロシアのサンクト・ペテルブルク。98年にはニューヨーク。2001年にはオーストラリアのブリスベンで開かれてます。
しかし、2005年にアリゾナのフェニックスで予定されていた大会は中止。
タイムワーナーが積み重なる赤字に耐えきれず、降りたのでした。中継が3大ネットワークに乗らなかったことと(見られたのはTBSのケーブルに契約してる人だけ)、ブリスベン大会でオーストラリアの選手がメダルをバカスカ取ったことでアメリカの視聴者の関心が薄れたことが原因と言われています。
もしかして、この大会「無かったこと」にされてるんじゃ・・・・・・。


次は雰囲気を変えて、ノボローシスク市の大祖国戦争モニュメントなんぞを。
この街も「英雄都市」に指定されてますが、写真は反撃のきっかけとなった上陸地点に作られたモニュメントです。海からまさに兵士たちが上陸してくる様子がそのまま彫刻になっていて、こういうセンスはやっぱりすごいなあと思います。
ちなみに戦時下のノボローシスク市はナチス・ドイツ軍に占領され、市民は殺されるか、他の都市へ強制労働に狩りだされるかの二者択一でした。しかし、一世帯だけ手つかずで生き延びた家があるのだそうです。
その家の住人は、ドアに「チフス」と書いた木札を立てかけ、感染を恐れたドイツ兵は、その家にだけは入らなかったのだとか。
なんか、おとぎ話みたいな話です。ウルトラハッピーな絵本にしたら星空みゆきちゃんは読んでくれるかな?

最後はロシア語散歩からロシア語で表現される動物や鳥の鳴き声、あるいはオノマトペについてです。
ロシア語でスズメの鳴き声は「チック、チリク、チック・チリク」と表現するそうです。そしてシジュウカラは「シーニィ・ジェニ、シーニィ・ジェニ、」と鳴くのだとか。
これは「青い日」という意味になるそうです。シジュウカラはロシア語で「シニッツァ」。これは「シーニィ(青)」が変化した言葉と言われてるそうで、実際、絵に描かれる時は青く塗られることが多いとか。名前が鳴き声からきたのか、羽根の色からきたのかはわからないそうです。
一方、ヒバリは特定の鳴き声を擬態語に表現することはなく「ズヴェニット」と呼ばれるそう。これは「金属製の音を出す」という言い方になります。
また、雌のウズラは「ピーチ・パダーチ、ピーチ・パダーチ」。なんか日本語の「ピーチク・パーチク」を連想しますが、「飲む、出す。飲む、出す」という意味になるのだとか。なんか意味深な。
ツルは「クルルィ、クルルィ」、カッコウは「ク・クー、ク・クー」」と鳴くそうです。この辺は日本人にもなんとなくわかります。
ちなみにロシアの古い言い伝えでは「自分の寿命を知りたければ、カッコウに聞け」と言うそうです。カッコウが何回「ク・クー」と言ったかを数えればよいのだとか。

今回はこんなところで。
ではでは~。



2012年10月25日木曜日

今日のソ連邦 第16号 1986年8月15日 その2

さて、前回の続きです。
同じ号ですし、あまり間を空けるのもなんなので。

まずは表紙にもなっている美術教室の記事。5歳から12歳までの児童が200人ほど通っているとのことですが、なかなか見事な出来ばえの作品です。つーか、自分が8歳や9歳の時って、どんな絵を描いてたかなあ。

コンポジションという言葉がちらほら目につきますが、これは音楽や小説の構成と同じ意味で、ソ連・ロシアの絵画芸術でよく出てきます。教室では「構図」「絵画」「陶芸」「美術史」の4科目がありますが、建築家が先生ということで、「建築とのふれあい」が重視されているのが特長なのだとか。

なんだか堅苦しい教室に聞こえますが、対象となるのはごく普通の子供たちで、別にプロの芸術家や建築家を目指すものではないようです。あくまでも遊びの延長。ちなみに月謝とかの話は出てきません。

次の記事は、モスクワの演劇事情。ソ連の演劇というとチェーホフとかの定番が頭に浮かびますが、現代ソビエトの作品も当然あるわけです。
本誌では4つの劇場・劇団の芝居が紹介されてます。
写真はモスクワ芸術座の「銀婚式」という作品。中心人物は共産党幹部のワジノフとゴロシチャポフ。そして二人を出世させた国家的活動家のブイボルノフの3人です。

母の葬儀のためにモスクワから戻ってきたブイボルノフは、かつての部下たちの仕事ぶりを確かめようと思い立ちますが、そこで見たものは乱脈管理でメチャクチャになった地区の経済。穀物倉庫は空っぽで、決算書には架空のデータと数字が並んでいます。
さらにブイボルノフの旧友であるジャーナリストのポレタエフは、酒に溺れ、すさんだ生活を送っていました。彼はあやふやな嫌疑で刑務所に収監されていたのですが、そこにはワジノフとゴロシチャボフの暗躍がありました。ポレタエフはかねてから地方権力のデタラメぶりを批判しており、彼らにとって目の上のコブだったのです。

劇が進行するにつれ、このふたりが、ブイボルノフの名前を利用して、自分たちだけの独自の権力基盤を築いていたことが明らかになっていきます。
そしてクライマックス。
彼らの元へ、モスクワに戻ったブイボルノフが突如として職務を解任されたというニュースがもたらされます。それが「失脚」なのか、「昇進」なのか、劇では最後まで明らかにされません。
しかし、登場人物たちの行動スタイルと将来の計画は、ブイボルノフの失脚か、昇進かで、まったく違ってくるのです・・・。果たして?

次は、レーニン・コムソモール劇場の「良心の独裁」。
最近、売れ行きが芳しくない、とある青年向け新聞の編集会議が舞台の芝居。1920年代の新聞記事にあった「レーニン裁判(労働者たちが二つの異なる立場で議論する模擬裁判のこと)」を現代に再現しようとする試みの物語。

3本目はエルモロワ記念劇場の「話したまえ!」
フルシチョフのスターリン批判直後の、とある地区委員会が舞台のドラマ。権力にしがみつく老害に立ち向かう、若い党員の物語。タイトルの「話しなさい!」は、誰かにメモを渡されて、しどろもどろの労働者(搾乳婦の女性)に、新たに着任した党書記が言うセリフです。
「話しなさい! 話したいことがあるのでしょう? 話しなさい!」
さて、結果は?

最後は中央児童劇場の「おとしあな №46。 第2の成長」
ふたつの対立する中学生グループのお話。対立の原因は応援してるサッカーチームが違うというだけの他愛ないもの。しかし、ここに第3のグループ(党幹部の子弟たちで、特権階級)が加わり、悲劇が起こります。ハッピーエンドの鍵は一組の恋人。

どれもなかなか興味深いですが、今のロシアでは、ソビエト演劇ってどういう評価なんでしょうかね。

次の記事は、ソ連のアマチュア芸術家の話題。ここに紹介されてる草花は、すべて人工物。79歳のニコライ・コチン(右)が暇つぶしに始めた趣味です。

ちなみに中央の花の鮮やかな青は、KGBなどのソ連の治安機関のシンボルカラーとして有名です。西側の文献ではロイヤルブルーとかペールブルーと表現されていますが、正確には「ヤグルマギク色」なのです。それにしても、ロシアのお年寄りは風格ありすぎだ。

最後の記事はロシア語散歩から「クマをなぜ“蜂蜜食い”と呼ぶか?」です。
これ、大好きな話。

えーと、ロシア語でクマのことをメドベージ(Медведь)と言います。
これ本当は「蜂蜜を食う奴」という意味。現ロシア首相のメドベージェフさんの名前でもありますが、彼も、「熊おじさん」ではなく、本当は「蜂蜜大好きおじさん」なのです。そういえば大統領はプーさんだ。

ではなぜ、こう呼ぶようになったか?
ロシアでは熊は畏敬の対象でした。森の中で出会ったら、100パーセント助からないからです。だから彼らが森の中で、その名を口にすることは絶対にありませんでした。うっかり言ったら「呼んでしまう」からです。とはいえ、名無しというのも不都合です。そこでロシア人たちは「蜂蜜=мед(ミョード)を食べる奴」というニックネームをつけたのでした。

ちなみに、この習慣は森の外でも人々に染みついていました。おそらくロシアの子供たちは「いい子にしてないとメドベージに食べられるぞ」などと言われたに違いありません。それは都市でも変わらず・・・近代化しても変わらず・・・革命が起きても、ソ連が崩壊しても変わらず・・・。

気づいた時には「熊」という言葉は消滅していました。

今、ロシア語の辞書で「熊」を調べても「メドベージ」しか出てきません。知り合いのロシア人たちに聞いたことがありますが、彼らも「熊」という単語を知りません。「メドベージ」だけが残ったのです。

禁忌が消滅させた言葉。
わたしには、この上なく魅力的な物語に感じられます。

しかし! この話には続きがあります。
熊という単語は、本当に消滅してしまったのか? この単純な疑問に果敢に挑んだ言語学者がいたそうです。彼は文字通りロシアじゅうを歩き回り、そしてシベリアのド僻地で、ついにその単語が生き残っていたことを突き止めたのだそうです!

ただ、残念なことに、その肝心の単語がわかりません。ぐぬぬぬ・・・・。
確かにニュースになったそうなのですが、ロシアでも関心は低かったみたいです。使い慣れた言葉を今さら変えても……ということなんでしょうか。
わたしも、知りたいような知りたくないような・・・・。

今回はこんな感じで。
でわでわ~。



2012年10月19日金曜日

今日のソ連邦 第16号 1986年8月15日 その1

今日のソ連邦。今回はなにやらカラフルで楽しげな表紙ですが、この詳細は次へということで。あと、帯に書かれた「第12次 五ヶ年計画とソ連極東」や「ドン河畔のまちロストフ」の特集記事も、内容が地味なのでカットします。
今日のソ連邦という広報誌、表紙での扱いが中身に反映されるのかというと、必ずしもそういうわけでもないようです。

さて、今回まず目に飛び込んでくるのは、1985年からソ連が一方的に中止を宣言した「核実験モラトリアム」の記事。これはあらゆる種類の核爆発を中止し、く核廃絶への道筋をつけようという、ゴルバチョフ書記長の政策です。

当初は「アメリカが核実験をしない限り、ソ連も核実験はしない」という主張でしたが、アメリカはその後も核実験を続けました。ソ連はそんなアメリカの姿勢を非難するとともに、3回に渡ってモラトリアムを延長。核廃絶に真剣に取り組んでいる、という姿勢をアピールしたのです。

“ソ連は、兵器に頼らずに、平和を愛する手本を示して、他国の立場に影響を及ぼすために、あらゆるチャンスを生かそうという意図や善意を改めて発揮した”

もっともこの時、すでにソ連経済はガタガタで、核実験どころではありませんでした。ソ連は平和外交に転じることでアメリカにも軍縮を促し、相対的に戦力差を縮めようと考えていたわけです。

ところで、この記事にはもうひとつの側面があります。ページをめくって次に現れるのが、この年の4月に起きた「チェルノブイリ」関連の記事なのです。

本誌では事故の経緯やその後の対応が紹介されていますが、その前に、核実験モラトリアムの記事をもってくる構成にすることで、事故がもたらしたソ連へのマイナスイメージを弱めようという、編集意図が見て取れます。ついでに言うと、チェルノブイリの記事の次は、広島原爆に関する記事です。

ざっと見たところ、事実関係に関しては、今とさほどの差異は感じないという印象です。ソ連当局としては、事故はあくまでも「不幸な偶然」によるもので、技術に欠陥があるわけではない、と主張していることがわかります。興味深いのは、アメリカの原子力機関の研究員の証言を持ち出して、主張の補完をしている点。ほんの数ページ前ではアメリカを非難していたのに・・・。

では、ここで本誌が紹介しているソ連の当時の対応策を見てみます。

まず、原発周辺30㎞地帯からの人々の疎開計画が緊急立案された。実際には、この地域の人々に直接の脅威はなく、放射線計測値は毎時10-15ミリレントゲンであったものの、万一に備えて疎開させることが決定された。

日常生活では融通性が足りないといって、
しばしば辛辣に批判されていた組織中央集権制が、
この場合はモノを言った。

最短時間内に、2172台のバス、1786台のトラックが確保され、約4000人の運転手が動員された。疎開者の新しい土地での受け入れが組織され、ホテル、国民宿舎、サナトリウムが確保された。その結果、チェルノブイリから近いプリピャチ市の4万人の市民は、約3時間で疎開を完了した。

町や村からの疎開はもっと複雑だった。農民は春の農作業の盛りに村を去ることを望まなかった。それでも放射線の高い地帯に入っていた50の町村から、26,000人が疎開した。

新しい場所では転入者のために住居、3回の無料の食事が提供され、各人に200ルーブルの手当てが当てられた(当時のソ連では1ルーブル=1000円ぐらいの見当です)。

村では菜園用の土地が割り当てられた。疎開者の大多数は、最初の数日間で現地当局が提供した仕事に就いた。疎開した人々はだれも疎開のために1コペイカも支払わなかった。

しかし、非常事態によってもたらされた様々な要求を、すべての指導者が満たすことができたわけではなかった。結論は、事故と関連したすべての問題と同様、速やかに断固として下された。
ふたりの企業の指導者が解任され、ひとりは党から除名された。もうひとりは党の厳しい処分を受けた。確かに場所によっては足並みの乱れもあった。しかし、これらの手落ちは中央集権的指導部のおかげで直ちに正された。

一方、事故の収拾はどのように行われたのでしょう?
記事では「4号炉に対する攻撃」という表現で説明されています。

空には内部に鉛の板を張ったヘリコプターが飛び回り、地上では放射線防護機能を持つ装甲車が走り回っていた。原発から12㎞のところにヘリポートが設けられた。
毎日、日の明るい間じゅう、パイロットたちは事故を起こした原子炉の噴火口を塞ぐために200メートルの高度から、砂、大理石の粉末、白雲石、鉛、ホウ素の入った袋で原子炉を“爆撃”した。

いささか長い引用になってしまいました。
疑おうと思えば、いくらでも疑える記事ですが、信憑性については、今なら十分に検証可能だと思います。それにしても、有無を言わさぬ中央集権体制が、強制的に事態を収拾していくくだりは、思わず納得してしまうものがあります。ソ連共産党すごい。

加えて言うなら、ソ連は軍事超大国として、つねに核戦争を意識していました。
工業地帯や都市が核攻撃された場合、さらには原子力発電所そのものが核攻撃された場合の想定などが、なかば強迫観念のように整備されていたはずです。

チェルノブイリ事故の対応策は、その場でいきなり考え出されたものではなく、あらかじめ準備されていた核戦争のマニュアルを応用したと考えるべきでしょう。世の中、何が役に立つかわからない、という話ですが、元をたどっていくとなんとも複雑な気分です。


今回の更新は、いささか堅苦しい内容になってしまいましたが、
「その2」はもっと気楽なものにしますです。

でわでわ~。