2016年10月1日土曜日

今日のソ連邦 1988年9月1日 第17号

どもです。あれよあれよと10月になってしまいました。
あれこれ色々なネタでお茶を濁してきましたが、心を入れ替えて、本来のネタに戻りますです。たぶん・・・。

 まずは奇妙な表紙から。一見、ヨットの乗組員ですが、何か変。船は港に係留されているのに舵輪を握っていたり、六分儀を持っていたり、双眼鏡であらぬ方向を見ていたり。実は彼らは「クレド」という名のロック・グループ。よく見ると手すりにグループ名のペナントが付いています。同名のグループはイギリスなどにもありますが、彼らはラトビア共和国のグループです。

 ラトビアの画家グナルス・クロリスがヒロシマをテーマに描いた「白いツルの国」という作品を見た同国の作曲家ライモンド・パウルスは、その印象を7つの曲にまとめます。しかし、これを通常のピアノや弦楽器で表現することには限界があると感じ、クレドのリーダー、ワルジス・スクイニンに相談したのだそうです。クレドは反核をテーマにしたロック組曲「叫び」を作り上げ、ソ連のバルト海沿岸地方で開催される音楽コンクール「リエバヤの琥珀」で発表したのだそう。

 今回、そんなクレドの楽曲を見つけることができました。1987年にリリースされた曲をここで聞くことができます。ソ連崩壊の混乱で活動を休止していたようですが、2000年ごろには復活したようです。現在どうなっているのかは不明ですが、ラトビアではかなり有名なグループのようです。


 次はモスクワで活動する児童美術アトリエ「創造クラブ」の記事。一般住宅を開放し、4才から12才までの子供たちを受け入れています。月謝は6ルーブルですが、子供が沢山いる家庭などの場合は免除されます。
 アトリエは毎日開かれており、年に2回、子供たちによる発表会が行われます。発表会では、必ずどこかの国がテーマになるのが決まりで、写真を見る限り、今回は日本とインドがテーマになったようです。
 ちなみにキャプションにある「あいびき」はツルゲーネフの短編を二葉亭四迷が訳したものらしいです。ロシアの文学作品なんだから、そのまま演じれば良さそうなものですが、わざわざ日本語に翻訳されたものをベースに、これまた日本風に演じるというのが面白いです。
 キモノとかメイクと小道具とかは、子供たちが独自に調べて工夫をこらしており、それ自体が学習というわけです。なかなか艶やかな雰囲気が出ていますが、それにしても小学生が「あいびき」なんて演じちゃっていいんでしょうか。

 次はスポーツ大会の話題。エストニア共和国のタリンで開かれた「女子ジョギング大会」の記事。これはエストニアの雜誌「ヌイウコグデ・ナイネ」が主催したもので、健康推進キャンペーンのひとつとして実施されました。
 このヌイウコグデ・ナイネという雑誌名、日本人にはあまり馴染みのない響きですが、実は日本版も出ていた「ソビエト婦人」のエストニア版です。綴りは「Nõukogude naine」。わたしも知りませんでしたが、エストニア語でソビエトはヌイウコグデというのですね。というわけでエストニア語でソビエト社会主義共和国連邦というと「Nõukogude Sotsialistlike Vabariikide Liidu」。略称もCCCPでもなければUSSRでもなくNSVLとなります。

 お次は前回の続き。第19回全国党協議会から。この大会は「官僚主義との闘争」と位置づけられ、記事にも「最悪の敵」とか「社会的偽善」とか、過激な言葉が並んでいます。もっとも改革にブレーキをかける具体的な個人名が名指しされているわけではなく、あくまでも「官僚主義」が槍玉。なんとなくどこぞの首都のお役所のような話になっております。

 そんな中、注目を集めたのが「他に道はない」という一冊の本。党協議会開催の直前にプログレス出版所から発行されました。著者は34人にも及び、その中には反体制物理学者アンドレイ・サハロフ氏の名前もあります。本文だけで700ページという大著ですが、「最近のソ連の本ではもっとも大胆で面白い」と、海外のソ連研究者からも注目された本です。

 記事ではその中のひとり、タチアナ・ザスラフスカヤのエッセーに焦点をあてています。エッセーといっても、この本の冒頭を飾るもので、約1万2000語という長いもの。その中で彼女は、ソ連市民を10の社会グループに分類し、それぞれが示している(内包している)ペレストロイカへの態度を、8つの立場に置いています。一覧表になっていますが、社会階層はなんとなくわかるものの、立場というのが、よくわかりません。本文によりますと・・・。

【先導者】というのは、言うまでもなくゴルバチョフに代表されるペレストロイカに積極的な指導者と、彼に従って率先して行動していく人たちです。

【賛同者】は似ていますが、ちょっと違います。多くの場合、大きな困難と失望を経験してはいるものの、自己の信念は変えていない人たちのことです。ソ連でも何度も改革が叫ばれたけれど、その都度、失敗に終わっています。それでも希望を失っていない人たちということでしょうか。

【同盟者】は改革の個々の側面、たとえば協同組合の拡充など、それまでのソ連社会にはなかったビジネスチャンスに個人的な興味は持っているけど、ペレストロイカ構想そのものにまで全面的な確信を抱くには至っていない人たちが入ります。

【擬似賛同者】は深い道義上の原則も、しっかりとした政治的信念も持っていない人たちのこと。彼らはどんな主人にも仕え、どんな真実も肯定し、上司からの好意と昇進が約束されるなら、いかなる課題もこなす人たち。「はいはい、ペレストロイカ。ペレストロイカね」って人たちです。

【傍観者】はペレストロイカは必要だと感じているけれど、ソ連社会にはそれを実現するための力も手段もないと考えている人たち。彼らはペレストロイカの賛同者にシンパシーを抱いてはいるけれど、彼らが勝利することはないだろうと考えています。

【中立主義者】はペレストロイカの対する自分の態度を決めていない、社会的に無気力な人たち。彼らは個人的な興味に没頭し、十分な文化的・社会的経験を積んでいません。中立という言葉が、まさに毒にも薬にもならない階層という意味で使われていますが、実際、ソ連では中立はあまりいい意味では使われない言葉だったりします。

【保守主義者】は言うまでもなく、ペレストロイカのもっとも大きな障害です。彼らは社会のあらゆる主要な側面で改革にブレーキをかけようとしてます。もちろん様々な特権や既得権益を享受している層でもあります。

 【反動主義者】は保守派と同様、ペレストロイカを受け入れようとはしていませんが、理由はもっと深いものです。保守主義者はペレストロイカに対抗してスターリン型の「兵営社会主義」を信奉していますが、反動主義者は、およそいかなる社会主義的価値観とも無縁の存在です。

 1980年代末期のソ連の社会の分析結果としてはなかなか興味深いものです。

最後はモスクワ放送の日本人アナウンサー、清田彰氏の記事。
ソ連最高会議幹部会令により民族友好勲章が授与されたという内容です。新聞のモスコフスカヤ・プラウダは、いつもの調子で「祖国の褒賞」という決まり文句で、このニュースを報じていますが、今日のソ連邦は「ちょっと考えれば見出しは別のものになっただろう。セイタ・アキラは100パーセント日本人なのだから」とチクリ。

清田彰氏は、1922年岡山市生まれ。父親は岡山市役所につとめる公務員でしたが、暮らし向きは楽ではありませんでした。1939年、山口市の商業高校1年だった時に軍に召集され、工兵連隊、歩兵連隊と渡り歩くうちに満州の長春にある主計学校に入ります。その後はソ満国境にほど近い連隊に異動。そして1945年9月にソ連軍と交戦状態に入ります。(今日のソ連邦、ちゃんと9月と表記してますよ。)
 最初の激突から数日後、彼は捕虜となり800人ほどの仲間とともに収容所へ送られます。近くにはアムール・スターリという巨大製鉄所があり、 清田さんたちは石炭やセメントの荷卸し、森林での伐採作業などに従事します。製鉄所が近くにあったということは、すでに鉄道が建設されていた地域だったわけで、その意味では幸運だったのかもしれません。

 清田さんはその間、ロシア語に興味を持つようになっていました。収容所の警備兵がマホルカ(きざみタバコ)の包装紙として使っていた新聞紙を拾い、通訳が持っていて辞書を借りて勉強を始めます。辞書は一冊しかなかったので、清田さんが勉強するのは通訳が寝ている時だけでした。
 そんな彼にソ連軍のボリソフ上級中尉が声をかけます。彼は温厚で親切で、捕虜たちとタバコを分け合いながら、ソ連のことを色々話してくれたそうです。
 清田さんはそんな彼に洗脳されの人柄にひかれ、あと半年で帰国できるというのに、ソ連に残る決意をします。ちなみに収容所から清田さんは何度も日本に手紙を出していましたが、返事は一度もなく、清田さんは家族はみんな死んだのだろうと思っていたそうです。
 
 1948年にハバロフスクの放送局に日本語担当アナウンサーとして配属されますが、原稿は自分で翻訳しなければなりません。彼は地元の子供と机を並べて中学校に通い、5年かけて卒業します。その後、30才になってモスクワ大学の経済学部に入学し、モスクワの放送局から日本向けラジオ放送をすることになります。
 この放送をたまたま聞いていた叔父さんが、清田さんが生きていることを知り、手紙を寄こします。家族は全員無事でした。しかし、その頃には清田さんはロシア人女性と結婚しており、娘も生まれていたのでした。それでも一時帰国を果たし、日本から家族を招くこともあったそうです。
 
 画像は映画に出演した清田さん。当時は日本人の役者なんてそう簡単に呼べるわけないですから、彼のような存在は貴重だったのでしょうね。探せばDVDが見つかるかもしれません。

今回はこんなところでしょうか。
でわでわ~。

六本木ヒルズ展望台 東京シティビューにて開催中の「空想驚異展」もよろしくです。




2016年9月23日金曜日

大都市に迫る 空想脅威展

なんとなく秋の気配ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか? お仕事の告知であります。

六本木ヒルズ展望台・東京シティビューにて開催されます「空想脅威展」の展示企画の一部をお手伝いさせていただきました。


展示のメインは平成ガメラシリーズ。
もちろんガメラだけでなくウルトラシリーズなど、東京にまつわる様々な大破壊の歴史を振り返るというものです。
「最終防衛戦2016」はGoogleと森ビルのコラボ企画。ガメラ2のシナリオを元に2016年の今、レギオンが現れた場合、自衛隊はいかに戦うのかをシミュレーションします。某A省の関係者も巻き込んで、構成をお手伝いさせていだだきました。






 
本日9月23日は内覧会でした。自分も実際の展示状況を見るのは初めてだったので興味深かったです。懐かしの小型レギオン。もう20年前だなんて信じたくない・・・。
奥はガメラ3のイリスです。








圧巻は東京の巨大都市模型。1/1000のスケールで精密に再現されたジオラマです。元々は都市開発のシミュレーションに使うもので、普段は非公開。
凄いのはこのジオラマ、作って終わりではなく、東京の実際の変化に合わせて更新されていること。あんな施設やこんな施設も見ることができます。しかも、これ全体のごく一部。ご来場の際は、低倍率でもいいので双眼鏡やオペラグラスをご持参されることをお勧めします。


 「空想脅威展」 は9月24日より11月13日まで、六本木ヒルズ52階の展望台・東京シティビューにて開催されます。もちろん窓からは東京のリアル眺望もお楽しみいただけます。

是非是非、おいでくださいませ~。






2016年8月3日水曜日

ゴジラとバレエと秘密警察。

気づいたら梅雨明けで、7月の更新をすっぽかしておりました。まぁ、いつものことであります。

さて、お知らせであります。
巷では「シン・ゴジラ」が公開されて、話題になっておりますが、それに関連して書籍のご紹介。PHP研究所から出版されました「自衛隊対ゴジラ 怪獣要撃戦」です。

タイトルに気づいた人もおられるかもしれませんが、これは1993年にバンダイ出版から出版された書籍を再構成したものです。その後、銀河出版や角川ザテレビジョン文庫版などでも版を重ね、今回で4度目のご奉公になります。働き者の原稿であります。
ちなみに、この本は東宝映画のプロデューサーさんの目にも止まり、自分が「ゴジラ×メカゴジラ」と「東京SOS」に参加させていただくきっかけにもなりました。思い出深い内容ですので、機会がありましたら、手にとって頂けると幸いであります。



次はまったく趣向を変えて伝記マンガのお話。

8月8日にポプラ社より「コミック版 世界の伝記(34) マイヤ・プリセツカヤ」 (迎 夏生/漫画    村山久美子/監修)が刊行されます。

20世紀最高とうたわれる闘うバレリーナ!!
モスクワのユダヤ人一家に生まれたマイヤは、バレエ学校に入学する。しかし、父はスターリンの粛清により処刑され、母も収容所に送られてしまい……!?
厳しい環境のなか、バレエを踊るために闘い続けた、偉大なバレリーナの物語。

ロシア・バレエというとアンナ・パヴロワが有名ですが、マイヤもその名声と実力は勝るとも劣りません。マンガなのでとても読みやすく、ソ連の体制やバレエの基本知識などもよくわかる良書です。
ディティールも細かくて、アメリカ公演で搭乗する飛行機がちゃんとTu-104 (Tu-16爆撃機“バジャー”の旅客機型)だったり、ソ連人民芸術家やレーニン賞(レーニン勲章じゃありません)などの勲章類も正確に描かれています。もちろんKGBもちゃんと私服です。
なにしろ監修を担当された村山久美子さんは、ソ連・ロシアの専門家でバレエにも大変お詳しい方。正直、自分が出る幕など(バレエだけに!)無かったのですが、それでもほんのちょっぴりお手伝いさせていただきました。
ソ連の人物が児童書の伝記シリーズに登場する時代になったのだなぁと思うと感慨深いものがあります。

この夏、お子さまに安心してお勧めできる本ですので、是非。

でわでわ~。



2016年6月25日土曜日

今日のソ連邦 1988年8月15日 第16号

どもです。気づいたら6月の最終週にさしかかってますよ。
うっとおしい梅雨空を見上げつつ、更新であります。
ごめん。今回、文字多めだ。

今回の表紙はモスクワで開催された美人コンテストで優勝したマーシャ・カリーニナ(17才)の喜びの表情です。といっても、本誌での扱いはこじんまりとしたものでちょっとがっかり。詳細は後ほど。
 さて、今号では目次にちょっと違う部分があります。
わかりやすいよう、赤枠で囲んでみましたが、この勲章みたいなイラストは「ソ連対文連友好促進顕章」といいます。創刊30周年を迎え、ソ連邦の情報発信と日ソ間の友好促進に多大な功績があったとして、今日のソ連邦編集部に授与されたのです。

「対文連」というのは「ソ連対外友好・文化交流団体連合会」の略で、日ソ協会なども加盟している団体です。 今日のソ連邦はノーボスチ通信社から記事と写真の提供を受け、モスクワで編集されています。今回の授与のセレモニーもモスクワで行われました。 スタッフは10人弱といったところで、編集長はフェリクス・プラテという男性です。名前、初めて知ったよ。 とはいえ、さすがに版下作業までしているとは思えませんので、日本側でも編集作業はあるのだと思います。こうして印刷された本誌はソ連大使館広報部を通じて日本中にバラまかれ……じゃない、配布されていたのです。


それでは美人コンテストの記事を。といってもたったの2ページなんですが。
6月12日、モスクワでソ連初となる美人コンテストが行われました。もちろん、今までも学校や職場などで非公式なものはあったかもしれません。ですが、こちらは格が違います。

企画・主催はモスクワ市執行委員会(市役所)の文化総局、全ソ・レーニン共産主義青年同盟(コムソモール)、モスクワ市委員会(ソビエト共産党)、モスコフスキー・コムソモーレツ紙編集部、ブルダ・モーデン・モスクワ(ソ連と西独の合弁会社)、国際青年観光局スプートニク。その他一連の組織というそうそうたる顔ぶれ。 正式なイベント名は“モスクワ美人88”。テーマは「女性の美と女性らしさを歌い上げる」というものです。

参加資格は17才以上、27才未満でモスクワ在住の女性。既婚・未婚は問われません。エントリーは2750人。審査基準は人を惹き付けるルックス、端正なスタイル、女性的魅力、所作の美しさ、機転やユーモア感覚、踊れて歌える能力、エチケットのわきまえなどなど。

第一次予選は4月。モスクワ市内のゴーリキー公園で11日間にわたって行われ、まずは185人に絞られました。5月には第二次審査。イブニングドレスや水着姿を競い合い、36人に。
第三次審査は6月10日から12日まで“ルジニキ”スポーツ文化宮殿で行われました。
審査委員は有名作家や人気俳優、著名なジャーナリストなど。会場には1万人もの観衆が詰めかけ、テレビ中継も。内外の注目も集め、実行委員会が発行した取材パスは300。もちろんプラウダ紙の記者もいました。

最終審査に残ったのは6人。
彼女たちへ与えられた課題は「100年後。すなわち2088年のモスクワについての自分の考えをプレゼンテーションする」、「自己を宣伝するための広告アイデアを出す」、そして皮肉っぽい諷刺作家たちのクセのある質問にうまく答えてみせること。なかなか手ごわいハードルではありませんか。
そんな激戦を勝ち抜いて栄冠を勝ち取ったのが表紙のマーシャ。身長176センチ、スリーサイズは88、62、93。モスクワ第110中等学校の10年生。日本でいう高校3年生です。目下の目標はレーニン記念モスクワ国立教育大学へ合格すること。・・・って、あっちの新学期は9月なんだから受験目前じゃん! 
ちなみにマーシャを始めとする上位入賞者にはソ連の各種団体、外国スポンサー(イブ・サンローランなど)から高価な賞品が贈られました。また、最終審査に残った6人全員に順位に応じた賞金が贈られました。

最後にこうしたイベントに批判は無かったのか?ですが、記事はそこにも触れています。
西側の習慣ともいえるイベントをコピーする必要があるのか? 高価な賞品や外国企業との契約などがコンテストに不健全な投機的思惑を発生させ、ユーモアあふれる明るいショーから競馬場的な雰囲気を醸しだすものになってしまうことはないのか? なによりもコンテストの参加者たちは年齢的に若く、人格的に成熟しているとは言い難い。そんな彼女たちにコンテストでの勝利は道徳的マイナスになりはしないか?などなど。
プラウダ紙は「我々はこうした問題に初めてぶつかるわけだから、 特に責任をもってこれらの問題解決に当たらなければならない」と述べています。


次はなぜかもう一つの表紙。ゴルバチョフさんです。
さては第19回全国党協議会という重要事項を紹介する号でありながら、指導者を表紙にしなかったことを誤魔化そうと・・・(ウソ)

えーと、この党協議会。基本的には党大会と同じものです。党大会が5年に1度の定例開催であるのに対し、党協議会は必要に応じて開催できるとされています。第27回ソ連共産党大会からまだ2年しかたっていませんから、これは1991年に開催されるはずだった第28回ソ連共産党大会を前倒しして開催したものとも言えます。

党大会が通常国会だとすれば、党協議会は臨時国会のようなものでしょうか。ただし、この国会はソビエト共産党員限定です。
「自由選挙で選ばれた代議員によって構成される」という真の意味の国会は、このあと誕生する人民代議員大会まで待たなければなりません。というより、この党協議会で決定されたのが、まさにその人民代議員の創設だったのです。

これによってペレストロイカは一気に加速します。
ゴルバチョフが追いつけなくなるほどに。
対する保守派の反撃も激しくなっていきます。
ゴルバチョフが抵抗できなくなるほどに。


次は「KGBの発表とコメント」というギョッとするような話題。(写真なし)
これは「論拠と事実から」という記事で紹介されたものです。論拠と事実とはロシア語で「Аргументы и Факты」という週刊新聞のこと。全ソ協会「ズナーニエ(知識)」が発行し、総発行部数は900万部以上。とても人気があり、現在のロシアでも活動をしています
今日のソ連邦では論拠と事実の紙面の中から、海外の読者の興味を引きそうな話題をピックアップして載せてくれています。
「KGBの発表とコメント」は、1988年の春から論拠と事実の紙面に新設されたコーナーのこと。国家保安委員会(KGB)の活動や歴史、有名な情報部員の伝記に対する一般国民の大きな関心に応えるためとされています。これも民主化。これもグラスノスチ。

記事はまずKGBからのご挨拶から。

「党によって厳しく統制され、方向づけられているKGBの活動は、まず何よりも帝国主義諸国の特務機関による経済分野のスパイ行為、イデオロギー分野の破壊工作の機先を制することにある。
この種の活動の具体的な事実、KGBの活動原則、その活動のペレストロイカ、法の厳守措置、過去からの結論とその教訓についてお知らせし、読者の質問に答え、事実、事件、経過に対して正しい、客観的な見方をすることがしばしば必要とされる事柄についてコメントしていくつもりである。」


ただのご挨拶なのに、なんでこんな高圧的で恐いんだ、こいつら・・・。

で、具体な中身はというと。
「しばらく前にKGBは、外国のある会社の代表が非合法に機密文書の写しを手に入れ、それをソ連から運び出そうとしている、という確実な情報を入手した。この機密文書には、ソ連通信工業省に所属する諸企業の輸入設備の需要と、その購入のために支出された外貨の情報が含まれていた。
この文書を国外に持ち出す試みは未然に阻止された。
捜査の過程でソ連通信工業省の中央研究所職員V・ラズーチンとV・シプントが、その文書を外国人に手渡したことが判明した。取り調べの結果、ふたりは常習犯であることも判明した。
今年の5月12日、モスクワ市裁判所は、V・ラズーチンとV・シプントの刑事事件を審理したのち、ロシア連邦共和国刑法第76条・第1項(職務上、知り得た機密情報を外国機関に手渡すこと)、および第173条(収賄)によって規定された罪を犯したかどで有罪判決を下した。
しかし、彼らの反省の態度と捜査協力に鑑み、それぞれに対して「財産没収と国民経済建設場への強制的な労働参加をともなう自由剥奪3年の刑」を、執行猶予つきで宣告した。
この件は残念ながら例外ではない。
機密情報と引き換えに物質的利益を得る目的で外国市民との接触を試みるソ連市民の犯罪はこの数年間に何度も摘発されている。さらには贈り物(正確には賄賂)に目のない者が、外国の特務機関の目に止まり、彼らの挑発に乗せられる事例も含む」

記事を読む限り、紹介された事件は西側企業による産業スパイ的なもののようです。


次の記事は「科学者から聖職者へ」
エブゲニー・ゲルツェスキーはベロルシア共和国(現ベラルーシ)のミンスクに住む39才。妻ナタリアと娘クセニアとの3人家族。
彼はもともとベロルシア科学アカデミー遺伝学・細胞学研究所の研究員でした。専門は農作物の染色体に対する中性子の影響。
そんな彼がロシア正教の司祭になったのはまさに「天啓」だったそうで。

ある日曜日、当時26才だった彼は、まったく偶然に生まれて初めてミンスク大聖堂にふらりと立ち寄った。そして足を踏み入れた瞬間「ここにしか自分の居場所はない」と悟ったのだとか。

うーむ・・・。ソ連の基準でも立派な奇人・変人です。というのもソ連では圧倒的多数の人々が無神論者だからで、当然のことながらゲルツェスキーの友人、知人はこぞって彼を思い止まらせようとしました。
ある友人は「宗教にうつつを抜かせるのはヒマな奴だけだ。研究職の君が聖職者になる時間なんてない」といい、別の友人は「遺伝学は前途洋々な分野で、活躍の機会はますます広がる」と説きます。両親は「息子が宗教の世界に入ったら、家族全体の社会的地位に悪影響をおよぼすかもしれない」と心配しました(記事では「当然、そんなことはなかった」とフォローするのを忘れていません)。後に妻となるナタリアとはまだ友人関係でしたが「文字通り、寝耳に水」で困惑しきり。それでも彼女は反対を口にすることはなく、彼の好きにさせてあげたそうです。愛やなぁ。

かくしてゲルツェスキーは信仰の世界に飛び込みます。
驚いたのはミンスク大聖堂の司祭長。見知らぬ若者がやってきて神学アカデミーへの紹介状を書いてくれと言ってきたのだから当然です。それでもアントニー府主教は律儀に紹介状をしたためてくれ、ゲルツェスキーはレニングラード神学アカデミー入学。5年後に卒業するとほどなくミンスクに戻り、司祭長になっています。

キリスト教つながりで「ロシア絵画の傑作」より。
アレクサンドル・イワノフ作「民衆の前にあらわれたキリスト」。
縦540センチ×幅750センチという大作で、1837年から57年まで20年もかけて描かれました。
主題であるキリストは画面の奥にいます。右端にはその姿を見てギョッとしているかのようなローマの騎兵。手前の群衆は実は奴隷です。この絵はトレチャコフ美術館に収蔵されているそう。



最後はレイアウト的になんとなく貼りそびれた党協議会の休憩時間の様子。せっかくスキャンしたのでもったいないから貼ります。
ソ連邦英雄である金星メダルをつけた人や、社会主義労働英雄であるの金の槌鎌メダルをつけた人。名誉労働勲章や民族友好勲章をつけた人がいます。
こちらもいわゆる群衆絵画のようです。





今回はこんなところで。

でわでわ~。






2016年5月21日土曜日

今日のソ連邦 1988年7月15日 第14号

ども、お久しぶりです。座骨神経痛をやらかし、ゴールデンウィークが丸ごとムダになりました。まぁ、旅行の予定とか無かったからいいけど(泣いてなどいない)。

さて、今回は華やかで懐かしい顔ぶれの表紙です。
この日、モスクワ・ボリショイ劇場の貴賓席に現れたのは、青いドレスのライサ夫人、その横で手をふるレーガン大統領。上を見上げるゴルバチョフ書記長、白いドレスのナンシー夫人。今年の3月にナンシー・レーガン夫人が鬼籍に入り、現在も存命中なのはゴルバチョフ氏だけになってしまいました。さすがに寂しいですねぇ。


両首脳の会談は、実際には5月29日から6月2日までと、かなり前に行われているのですが、速報性を重視する西側メディアと違い、会談内容とか共同声明とかの評価が定まらないうちは記事にしないのが、いかにも社会主義国の広報誌です。本文ページの特集記事も「客を見送って」の見出しから始まります。

ゴルバチョフ・レーガンの首脳会談はジュネーヴ、レイキャビク、ワシントンD.C.に続き、4回目。この会談でINF(中・短距離ミサイル)全廃条約の批准書が交換され、歴史的な核軍縮が始まりました。
ちなみにレーガン大統領といえば、ソ連を「悪の帝国」と呼んだ人物です。
ロシアには「言葉はスズメじゃない。飛び出したらつかまらない」ということわざがありますが、この一件はソ連のメディアで繰り返し取り上げられ、この時の訪問でもソ連側の記者から「今でもそう思っているか?」という質問が投げかけられました。
ここで彼は、過去の自分の発言をはっきりと否定してみせるのですが、このやりとりがクレムリン宮殿の名物のひとつである「大砲の王様」の前だったことにソ連のメディアはある種の象徴的な意味を見出したようでした。
もっとも、この時のレーガンは翌年1月に任期切れを控え、政治の表舞台から去ろうとしていました。記事では「ゴルバチョフ書記長は、ホワイトハウスの主の交替によって不可避的に中断される対話を、誰と復活しなければならないか考えないわけにはいかない」と述べています。

見開きのカラーページには、首脳会談の合間を塗って交流にいそしむナンシー夫人の様子が紹介されています。
右上の写真は歓迎夕食会の様子。晩餐会ではなく、夕食会という表記に注意です。ソ連=ロシアでは伝統的に午餐(昼食)が正式な食事ということもありますが、晩餐会という表現が「資本主義的」と見なされたのかもしれません。
実際、写真をよく見ますとゴルバチョフもレーガンもディナージャケットではなく、普通のスーツにネクタイなのがわかります。

余談になりますが、第3回首脳会談が行われたホワイトハウスでの晩餐会でも、レーガン以下、アメリカ側の出席者全員がタキシードにブラックタイだったのに対し、ゴルバチョフはスーツ姿のままでした。オシャレなことで有名なゴルビーですが、この時の態度が「無粋である」として、ファッション誌「VOGUE」がベストドレッサー賞の授与を見送ったという逸話があります。


次の記事は「アカデムゴロドク」の特集。
アカデムゴロドクは正式名称を「ソ連科学アカデミー・シベリア部ノボシビルスク学術センター」といいます。ノボシビルスクといえばガルパン声優のジェーニャさんの地元として有名ですが、その郊外に22のソ連科学アカデミー研究所、6つの特別設計事務所が集中する区画があり、科学技術図書館、試験工場、実験生物学ステーションなどが併設されています。住民は1万人におよぶ科学者・技術者とその家族。医学アカデミーの研究施設やその他の省庁の実験施設も置かれています。

いかにも理系が集中していそうですが、実際には社会学や経済学など人文科学系の人材も揃っており、ペレストロイカで打ち出された経済自由化構想なども、アカデムゴロドク出身の学者によって提言されたものだそうです。このことからノボシビルスクはペレストロイカのゆりかご。アカデムゴロドクはその頭脳と呼ばれているのです。
記事によるとアカデムゴロドクでは、ペレストロイカの推進を受けて、純粋科学にとどまらず実用面での完成度にも目が向けられているとのこと。独立採算制の企業「ファーケル」が生まれ、アカデムゴロドクの様々な研究成果から実用的に利用できるアイデアをすくいあげ、ソ連各地の企業に売却する事業を行っています。

ところで、なぜシベリアのド真ん中に科学の殿堂のような都市が作られたのか? きっかけはフルシチョフ時代で、当時の自由闊達な空気が新天地シベリアと相性がよかったのだといいます。
これはブレジネフ政権になってから思わぬ効果を生みました。モスクワから3000キロも離れていたおかげで、中央政府の保守的な空気が流れ込みにくく、停滞の時代にあってもその影響は少なくて済んだのです。

もちろんアカデムゴロドクにも問題はあると記事は書いています。皮肉にもその原因はペレストロイカで、優秀な人材が次々と “モスクワ送り” になり、研究を牽引する力が弱まることが懸念されているとか。うまくいかないものですねぇ。

次もペレストロイカ関連記事。エストニア共和国のピャルヌ地区というところを統括しているエストニア共産党・地区党書記のお話。
ピャルヌ地区はバルト海沿岸にある保養都市で毎年、ソ連全土から大勢の人々が余暇を楽しみにやってきます。面積でもエストニア最大の行政地区で、牛乳と食肉の最大の産地。農業と観光の町というわけです。

写真の人物は地区委員会第一書記のワルテル・ウダム氏。それまでにも各地の地区で第一書記をつとめ、ピャルヌ地区の第一書記になって10年になります。
若い頃から彼は、エストニア共産党の中で「変人」として扱われていました。牛乳の生産性をあげるために自ら搾乳機の講習会へ通い、夜遅くまで機械の操作を練習し、ついには機械の分解や組み立てまでできるようになったからです。
「第一書記なのに、まるで工場長」のような仕事をする彼は、他の地区の書記たちから冷やかしの対象となります。「ウダムは党活動家ではなく、経営者だ」と揶揄する者もいました。

それ以前にも彼は、あやうく書記を解任されそうになったことがあります。それはフルシチョフの時代。
1960年代初頭、時の指導者フルシチョフは「トウモロコシの奇跡」というアイデアに取りつかれていました。シベリアでもウクライナでもウラルでもトウモロコシの栽培が奨励され、その波はエストニアにも押し寄せます。
当時のエストニアの党幹部たちは出世欲のためか、それとも単なる無知なのか、特に深く考えることなくフルシチョフの指示に従いました。乳牛のために整備された数千ヘクタールの牧草地が掘り返され、その面積は全農地の15パーセント以下に制限されてしまいます。当然、乳牛たちは深刻なエサ不足に陥り、牛乳の生産量は激減。それでもフルシチョフの大号令は止まりません。ウダムは回想します。

「みんなが仲良く  “畑の女王” (当時のトウモロコシはこのように大げさに呼ばれていた)のために行進している時、歩調を乱すのは容易なことではありませんでした。今でこそ  “反トウモロコシ主義者”  という言葉は自慢できますが、当時は反抗者に貼られたレッテルだったのです」

ウダルはモスクワからやってきた党幹部から圧力をかけられます。
もう5月も終わりだというのに幹部は、牧草地を掘り返してトウモロコシを蒔けと命令。ちなみに寒冷地でのトウモロコシの種まきは4月中旬。ウダルは「これは大変な冒険になる」と直感し、のらりくらりと即答を避けて、結局、種まきをしませんでした。
もちろん、タダで済むはずがありません。首都タリンの共産党大会でウダルは「経済的な過ちだけでなく、政治的な過ちも犯している」と非難されます。どうしてクビがつながったのか、ウダルは記事でも多くを語りませんでした。

「現在に目を向ければ、モスクワの農工委員会はまだ各地の自然的、社会的差異や、幾世紀来の伝統を考慮せずに、単一の指令台から指揮する同じやり方で活動していることがわかります」

この記事は、当時のフルシチョフ政権に面従腹背の党幹部がいたという事実を、ソ連当局が評価した形になっているのが興味深いです。図らずもペレストロイカの未来と重なります。これより後、ゴルバチョフの指示をのらりくらりと拒む党幹部でソ連はあふれかえることになるのですから。


最後はヴァツラフ・ヴォロフスキー (Воровский, Вацлав Вацлавович) の記事。ヴォロフスキーは1919年、ソビエト政権最初の全権代表としてスウェーデンに赴任した人物。つまり最初のソ連大使です。
彼は1871年、世襲貴族の家柄に生まれました。23才の頃にはすでに共産主義に傾倒し、帝政ロシアで革命活動を始めています。26才の頃には革命思想のプロパガンダ活動と非合法文献配布の罪で逮捕されています。
貴族出身の革命家というのは、実はあまり珍しくないのですが、それでも困惑する人は少なくなかったようです。
彼はレーニン宛の手紙の封蝋に自分の家の指輪を使って封印していました。国境で郵便物の検査に当たっていたコミッサール(政治委員)のチモチェーエフは、レーニン宛の手紙に貴族の紋章が押されていることにどうしても納得がいかず、自分でレーニンのもとへ届けたと言います。

スウェーデンでの勤務ぶりも、当時の外交官(それも大使)とは思えぬ型破りなものでした。そもそも大使館が普通の住宅。訪問するとドアを開けるのはヴォロフスキー大使本人。執務室には幼い娘のためのベビーベッドが置いてあり、その横で書類を作成するのも大使自身。
しかし、当時の人々が一番驚いたのは、各種の公式書類や査証(ビザ)の発給が無料だったことでした。現在でも、たとえばアメリカへ旅行する場合、観光目的でも160ドルほどの手数料を取られます。

ヴォロフスキーの最期は、この時代の革命家に相応しいものでした。1923年5月10日、スイス・ローザンヌのホテルで銃撃されたのです。犯人は白系ロシア人で元チョコレート工場主だったモリス・コンラジ。彼をそそのかした黒幕はツァーリの軍隊に所属していた元大佐でファシスト連盟のメンバー、アルカージ・ボルーニン。ソ連では「ホテル・セシルの惨劇」として有名な事件だといいます。彼の遺体はクレムリンの壁に妻とともに埋葬されています。

一番下の画像はヴォロフスキーに交付されたソ連最初の外交旅券で、1917年12月23日に作成されたもの。
「この旅券で人民委員会議(ソビエト政府は)、ソビエト外交代表B.ヴォロフスキーを遅滞なく通貨させ、彼に援助を与えるよう外国官吏に要請し、ロシアの官吏に対しては命令するものである」とあります。


今回はこんなところで。
でわでわ~。


2016年4月12日火曜日

今日のソ連邦 1988年7月1日 第13号 & お知らせ

久しぶりに本来のネタである「今日のソ連邦」の紹介です。
今回の特集は、まずソ連のテレビ事情から。
ソ連におけるテレビ放送は(当然のことながら)ソビエト共産党のプロパガンダ手段として最も有力かつ重要なものとして位置づけられています。監督官庁はテレビラジオ国家委員会
Гостелерадио СССР(ゴステレラジオ)】。名称こそ委員会ですが、閣僚会議直属で省クラスの権限を持ちます。

ソ連のテレビ放送は1930年に試験放送が行われ、本格的な放送は1932年10月1日に開始されました。といってもこの時はモスクワ周辺のみにしか電波が届かず、音声も無かったそうです
。つーか、そもそもテレビを売ってたのかな?
その後、大都市圏を中心に放送網が整備され、1934年には音声つきの放送が開始されます。もっとも1936年の1年間に放送された番組はおよそ300で、トータルの放映時間は200時間ということですから、放送時間は1日平均で30分程度だったことになります。

ソ連のテレビ放送の体制が確立するのは1970年代の後半です。チャンネルは全部で8つ、そのうち4つは時差をカバーするための遠隔地向け放送です。
純粋な意味での放送チャンネルは第1放送(総合テレビ)、第2放送(報道と芸能)、第3放送(教育テレビ)、第4放送(芸能・教養・スポーツ・再放送)となっています。ちなみに4つの放送すべてが見られるのはモスクワなどのヨーロッパ地域。シベリアや極東では大都市でもチャンネルが2つしかない地方が普通でした。放映時間も限られており、首都モスクワでも昼には放送を休止していました。ソ連の市民はテレビを見ながら昼食をとる習慣がなかったのですね。1980年代になるとMTVやBBC放送などの配信が始まりますが、これは外国人専用ホテル限定でした。

さて、表紙はなにやらお固い番組のようですが、これは「問題=探求=解決」というタイトルの番組。司会者は右端にいる人物。レフ・ボズネセンスキー氏。1980年から放送されている人気番組だそうです。番組のテーマは事前に告知され、その分野のエキスパートがゲストとして呼ばれます。
テレビ雜誌や新聞にはスタジオにつながる電話番号が20本公開され、視聴者はゲストの発言やテーマへの疑問を直接ぶつけることができるというものです。

以下、紙面で紹介されている番組を見てみましょう。残念ながら日本語訳メインで、本来の番組タイトルはあったり、無かったりです。

「カメラ速報」・月曜~金曜の19時30分からスタートする「こんばんは、モスクワ」という生放送番組の中の1コーナー。わずか5分ですが、レポーターとカメラマン、ADの3人だけで作られる機動性の高い番組。きわどい質問がウリの突撃レポーターものです。たとえばフリーマーケットで売られている女性のヌード絵画についてどう思うか?などでは「美しいからいいじゃないか」と答える中年男性、「恥だよ。我が国では女性は人前で裸になるべきではない」と渋面の年金生活者、「裸が許されるのは腰までだね。・・・男は!」とジョークを飛ばす若い警官などが放送されます。
取材班は2チームの交替制。朝、テレビ局を出て、取材に4~5時間。午後3時には戻って編集し、17時30分までに完パケを引き渡さなければなりません。

「120分」【120 МИНУТ】・朝の6時30分からスタートするニュースと音楽の総合番組。といっても子供向けアニメやエアロビクス、ロックミュージシャンやフォークミュージシャンの演奏、生活情報や料理メモ、上手な家事のアドバイスなどもあり、120分で全部おさまるのか?という番組です。ファッション情報もあり、女性キャスターの服やヘアスタイル、メイクなどが話題になるのは日本と同じです。

「陽気なとんちクラブもっとマシな訳はなかったのか?)・若者向け娯楽番組。【КВН(英語だとKVN)】の略称で知られており、1960年代からスタートした長寿番組だそうです。参加者は全国の大学から選出されたチームで、機知を競い合うというもの。しかし、やがてこの番組は都市対抗戦の様相を帯び始め、勝利は市の権威を高める一方、敗北は市の名誉に泥を塗るものと見なされます。
各地の大学に番組に出る前提でKVNクラブが作られ、行政府の首長や地方の共産党委員会は舞台装置や衣装に多額の資金を提供するようになります。過熱した番組は批判にさらされ、生放送は録画され、編集されたものが流されるようになりました。内容は明らかにつまらなくなり、ついには打ち切りの憂き目をみます。復活したのは1987年。最初の形式に戻り、人気を博しているとのことです。

「レッツゴー・ガールズ!」・若い女性向けの娯楽番組で、これも視聴者参加型のゲーム形式。出演者(女の子)には仮想の設定が与えられ、妻、母、労働者、そして社会を構成する市民として振る舞うことが要求されます。勝利者は視聴者によって選ばれ、「性格がはっきりしていて、実生活に即した頭の良さと、打てば響くノリの良さがあり、しかも女性的魅力を秘めた一番調和のとれた女の子」という理想像を追求する番組のようです。

「何が? どこで? いつ?」【ЧТО? ГДЕ? КОГДА?】・人気の高い若者向け番組のひとつ。やはり視聴者参加型です。6人が1チームとなり、丸テーブルにつきます。中央にはルーレットが置いてあり「歴史」「文化」「科学」などのカテゴリーが並んでいます。参加者はこのルーレットが提示する質問に協力して答えていくというもの。

「メガネ・ケース」【Prillitoos ※エストニア語・エストニア共和国で制作された高齢者向けの番組。バルト3国ではチャンネルが7つもあり、さらに隣接するフィンランドの番組を傍受することができます。番組制作者にとっては競争相手が多い地域というわけで、若者向け番組ばかり作るのではなく、高齢者のニーズを掘り起こそうと作られた番組です。番組内容はざっくばらんに言うと、「お年寄りの知恵とか体力、技能を見直そう」というもの。祖母仕込みのハーブティーを作ってみせるおばあさん、民族固有の編み物を披露するおばあさん、老人たちのコーラスクラブ、老若男女が集まってウォーキングする「歩け歩け3キロメートル」などなど。番組は現在も続いています。公式サイトはこちら


「推理ゲーム」・古今東西のミステリー小説や映画のパロディ番組。殺人・強盗・恐喝・誘拐なんでもあり。幽霊が出る古城まであります。出演者はソ連でも人気の実力派俳優たちで、アフトル(作者という意味)、インスペクトル(捜査官)、セルジャント(軍曹)の3人がレギュラーです。
視聴者は彼らと一緒に推理して、テレビの中の犯罪を解明しなければなりません。殺人であれ、誘拐であれ、窃盗であれ、「犯人、手口、時間、場所、動機」のすべてに正解する必要があります。
毎回、1000通を超える回答が寄せられ,正解者全員にアガサ・クリスティやジョルジュ・シムノンの作品、そして中心的な役割を演じた出演者たちの「指紋」がついたサイン入りブロマイドが送られます。


さて、ソ連を代表する番組といえば、なんといってもニュース番組【ВРЕМЯ(「ブレーミヤ=時間)】です。キャスターはもっとも経験があり、信頼される人物。ファンレターが来るほどの人気なのです。
番組はモスクワ時間の午後9時スタート。放映時間は平均40分で、国内の主要ニュース、海外ニュース、ルポとニュース解説、科学・文化・スポーツのコーナーで構成されています。

この番組のテーマ曲は【Время, вперед!(時よ、前進!)】のサビ部分が使われています。元々は同名小説の映画のテーマ曲で、作曲者はスヴィリードフ。ソチ・冬季オリンピックの開会式典で、宙に浮かぶ巨大な機関車のオブジェが登場する場面のバックに流れたのをご記憶の方もいるのでは。カッコいい曲なので
リンクを。ブレーミヤで使われてる部分は1分ぐらいからです。

おしまいはソ連の有名テレビ業界人リストです。
大きめにスキャンしたので詳しいプロフィールは拡大してご覧ください。全員を知ってたら変態を通り越して、狂人レベルのソ連マニアだと思います。わたしは一人しかわかりませんでした。だから正常です。

さて、次はいささか重い話題。
当ブログの更新ペースの遅さは弁明の余地がありませんが、今回の号を取り上げるのが、あと2週間早ければ、この記事の紹介はまったくトーンが異なったものになっていたはずです。
本来なら「ソ連時代にこんなことがあった」と過去形で書きたかったところですが、2016年4月2日。まさにこの地で武力紛争が発生してしまいました。
当事者も同じ。それがナゴルノ・カラバフ紛争です。本稿執筆時点ではなんとか停戦状態のようですが、双方が相手を非難しており、報道されない戦闘があっても不思議ではありません。

ナゴルノ・カラバフはソ連憲法第87条第3項にも明記される自治州で、アゼルバイジャン共和国の中にありますが、自治州人民代議員ソビエトが独自に法律を制定することができます。人口は1988年時点で17万7000人。そのうち75パーセントがアルメニア人です。

アゼルバイジャンとアルメニアは隣国で、どちらもソ連邦を構成する社会主義の共和国です。ソ連の国土面積から見れば小さな地域ですが、それが大事件の舞台となってしまいました。

1988年2月20日、ナゴルノ・カラバフ自治州ソビエトは、2つの要請を採択します。ひとつはナゴルノ・カラバフの帰属をアゼルバイジャンからアルメニアへ変更してほしいという要請。これはアゼルバイジャンとアルメニアの2つの共和国に対して出されました。もう一つは、この問題をソ連最高会議で審議して欲しいという要請。これはモスクワに対して出されたものです。採択を支持したのはナゴルノ・カラバフ選出のアルメニア系代議員たちです。

この要請自体はソ連の法律に基づいたもので、ソ連の基準でも民主的なプロセスと呼べるものでした。しかし、結果的にアルメニアとアゼルバイジャン双方の民族主義者を刺激することになり、両者の間で衝突を生み出してしまいます。
この事件についてプラウダは社説でこう書いています。

「我々の連邦は歴史的に若く、民族的な残滓の根は深く何世紀にもわたって隠されており、この根は、我々が望む・望まないにかかわらず、一定の条件のもとで発芽するということが忘れられていた。したがって新しい世代はそれぞれ、国際主義的の意識が育つ畑となる民族感情の文化をもっとも真剣に身に付けることが必要である。そして、民族感情の文化を身に付けることが放置されていた間に、民族的エゴイズムの感情の芽が出てきた。結局はこれが、アルメニアの通りや広場に何千、何万という人々を引っ張りだしたのである」

ところで、ナゴルノ・カラバフとはどんな場所なのでしょう。今日のソ連邦では、今回の問題(まだ紛争という言葉を使っていません)とは切り分けて、ナゴルノ・カラバフという土地を紹介しています。
写真は古都シューシャと郊外の村との風景です。

ナゴルノ・カラバフは2~3世紀にかけて大アルメニアの領土となり、もっとも初期のキリスト教国家のひとつとなります。その後、4世紀に入るとペルシャ人の侵入を受け、その後はアラビアの支配を受けます。この時、イスラム教が入りました。
その後はセルジューク・トルコ、モンゴル・タタールと異民族による支配が続きます。16世紀から18世紀にかけてはペルシャとトルコの領土紛争の舞台となります。
ショーシャはこの頃に建設された要塞都市で、ナゴルノ・カラバフ(当時はカラバフ汗国)の首都となります。その後、再びペルシャの脅威が高まると、カラバフ汗国は帝政ロシアの支援を求めます。この接近は、カラバフ汗国のロシア帝国の編入という結果をもたらし、20世紀初頭のロシア革命で、この地もソ連邦の一部となります。
 ややこしい歴史経緯があるとはいえ、この地に早く平和が戻ってほしいものです。


■さて、最後は告知で~す。
以前、お仕事を手伝わせていただいたスケール・アヴィエーション(大日本絵画)さんにまたまた協力させていただきました! 毎号、好評を博しているノーズアート・クィーン。今回のモデルさんは倉持由香さんです。

こちらの企画ではミリタリーアイテムをスタイリストさんが自由にコーディネートしており、前回のモデルグラフィックス誌上におけるジェーニャさんのような、軍の正式な規定書に基づくコーディネートとはまた違った趣が楽しめます。

メインの特集も「Su-27フランカーとそのファミリーの最新事情」というわけで、わくわくもんだぁ!
4月13日発売ですから是非是非~。




今回はこんなところで。でわでわ~。


2016年3月25日金曜日

アカが戦車でやってくる

どもです。
日付が変わりましたので情報解禁です。
3月25日発売のモデルグラフィックスの企画を
ちょっとお手伝いさせていただきました。
現在、大ヒット中の映画&テレビシリーズのアニメ「ガールズ&パンツァー」のプラウダ高校特集です。

表紙の背景になっているプラウダ高校の学園艦は、もちろんソ連海軍のキエフ級戦術航空巡洋艦がモデルなのですが、今回の企画にあたり、アニメ制作会社アクタス様に資料提供をさせていただきました。

最初にお話をうかがった時、キエフの資料なんて、いくらでもあるんじゃないのかなぁ?なんて思ったのですが、いざ探してみると「作画資料としてのクオリティ」に耐えうるものは結構少ないことがわかり、軽い気持ちで引き受けて、ちょっと焦りました。

でも、その甲斐あって実際に出来上がったイラストは素晴らしいです。画面中央右端に見える飛行甲板の前縁に防風パネルが展開しているところを絵にしたのはガルパン・スタッフが世界初ではないでしょうか。
全国の書店や模型専門店で絶賛発売中ですので、是非、お買い求めいただければと思います。



さて、今回の目玉はなんといっても、声優のジェーニャさんのグラビアです!
「ガールズ&パンツァー劇場版」ではプラウダ高校の新キャラクター「クラーラ」を演じ、ロシア人キャラをロシア人声優が演じるという画期的なキャスティングとなりました。すばらしい!

モデルグラフィックスは模型雜誌ですので、当然、メインはソ連戦車。そこにジェーニャさんがゲストで登場するなら・・・というわけで今回、ソ連軍の軍服の提供およびコーディネートをさせていただきました!

詳しい内容はモデルグラフィックス本誌を見て頂ければと思いますが、見てのとおり「ただのホンモノ」です。いや、準備もさることながら、撮影も大変でした。なにしろジェーニャさんはスタイルが良く、一方の軍服は男性用でだぶだぶ。写真ではなんとかそれなりに決まっていますが、背後は安全ピンとクリップと洗濯バサミで大変なことになっています。


ソ連は多民族国家なので、アジア系の人間でもそれなりに軍服は似合うのですが、やはりロシア人が着るとレベルが一気に上がりますね。

モデルグラフィックス誌上では、すばらしいクオリティの写真やジェーニャさんのインタビュー、その他、ガルパンの魅力がいろいろ詰まっております。
是非是非、お買い求めください。






今回のコーディネート。
ソ連の軍服は一般的には地味で野暮ったい印象があるので、メダル増し増しで揃えてみました。一部はレプリカです。
ぶっちゃけ「あなた、何万人のナチス殺しましたか?」って感じですが、勲章の性格上、戦争前に人民の敵の粛清も相当やったのではないか?なんてストーリーが浮かんでくるような、こないような(妄言)。


ちなみにモデルグラフィックス本誌にも解説を書かせていただきました。
補足しますと、金星メダルを授与された将兵にはレーニン勲章も授与されるのですが、今回は別の企画でレーニン勲章を貸し出してしまっていたため、残念ながら間に合いませんでした。
まぁ、ソ連邦英雄の称号をもらい、これからレーニン勲章を授与される直前の様子・・・なんてシチュエーションでご了承くださいませ。



参考までに。
今回の撮影のために勲章・メダル類を揃えていた時、「正直、盛りすぎたかな?」とか思ったのですが、史実を調べてみると上には上がいました。
アントニーナ・ヴァシリエーヴナ・・レベデヴァ(1916~1943)【Антонина Васильевна Лебедева】は空軍中尉として戦闘機に搭乗。叙勲歴に共通点が多く、偶然ながらびっくりしました。










というわけで「ガルパンはいいぞ!」

今日のソ連邦の紹介は次回ということで、すみません。
とりあえず、引き続きよろしくです。
でわでわ~。