2016年4月12日火曜日

今日のソ連邦 1988年7月1日 第13号 & お知らせ

久しぶりに本来のネタである「今日のソ連邦」の紹介です。
今回の特集は、まずソ連のテレビ事情から。
ソ連におけるテレビ放送は(当然のことながら)ソビエト共産党のプロパガンダ手段として最も有力かつ重要なものとして位置づけられています。監督官庁はテレビラジオ国家委員会
Гостелерадио СССР(ゴステレラジオ)】。名称こそ委員会ですが、閣僚会議直属で省クラスの権限を持ちます。

ソ連のテレビ放送は1930年に試験放送が行われ、本格的な放送は1932年10月1日に開始されました。といってもこの時はモスクワ周辺のみにしか電波が届かず、音声も無かったそうです
。つーか、そもそもテレビを売ってたのかな?
その後、大都市圏を中心に放送網が整備され、1934年には音声つきの放送が開始されます。もっとも1936年の1年間に放送された番組はおよそ300で、トータルの放映時間は200時間ということですから、放送時間は1日平均で30分程度だったことになります。

ソ連のテレビ放送の体制が確立するのは1970年代の後半です。チャンネルは全部で8つ、そのうち4つは時差をカバーするための遠隔地向け放送です。
純粋な意味での放送チャンネルは第1放送(総合テレビ)、第2放送(報道と芸能)、第3放送(教育テレビ)、第4放送(芸能・教養・スポーツ・再放送)となっています。ちなみに4つの放送すべてが見られるのはモスクワなどのヨーロッパ地域。シベリアや極東では大都市でもチャンネルが2つしかない地方が普通でした。放映時間も限られており、首都モスクワでも昼には放送を休止していました。ソ連の市民はテレビを見ながら昼食をとる習慣がなかったのですね。1980年代になるとMTVやBBC放送などの配信が始まりますが、これは外国人専用ホテル限定でした。

さて、表紙はなにやらお固い番組のようですが、これは「問題=探求=解決」というタイトルの番組。司会者は右端にいる人物。レフ・ボズネセンスキー氏。1980年から放送されている人気番組だそうです。番組のテーマは事前に告知され、その分野のエキスパートがゲストとして呼ばれます。
テレビ雜誌や新聞にはスタジオにつながる電話番号が20本公開され、視聴者はゲストの発言やテーマへの疑問を直接ぶつけることができるというものです。

以下、紙面で紹介されている番組を見てみましょう。残念ながら日本語訳メインで、本来の番組タイトルはあったり、無かったりです。

「カメラ速報」・月曜~金曜の19時30分からスタートする「こんばんは、モスクワ」という生放送番組の中の1コーナー。わずか5分ですが、レポーターとカメラマン、ADの3人だけで作られる機動性の高い番組。きわどい質問がウリの突撃レポーターものです。たとえばフリーマーケットで売られている女性のヌード絵画についてどう思うか?などでは「美しいからいいじゃないか」と答える中年男性、「恥だよ。我が国では女性は人前で裸になるべきではない」と渋面の年金生活者、「裸が許されるのは腰までだね。・・・男は!」とジョークを飛ばす若い警官などが放送されます。
取材班は2チームの交替制。朝、テレビ局を出て、取材に4~5時間。午後3時には戻って編集し、17時30分までに完パケを引き渡さなければなりません。

「120分」【120 МИНУТ】・朝の6時30分からスタートするニュースと音楽の総合番組。といっても子供向けアニメやエアロビクス、ロックミュージシャンやフォークミュージシャンの演奏、生活情報や料理メモ、上手な家事のアドバイスなどもあり、120分で全部おさまるのか?という番組です。ファッション情報もあり、女性キャスターの服やヘアスタイル、メイクなどが話題になるのは日本と同じです。

「陽気なとんちクラブもっとマシな訳はなかったのか?)・若者向け娯楽番組。【КВН(英語だとKVN)】の略称で知られており、1960年代からスタートした長寿番組だそうです。参加者は全国の大学から選出されたチームで、機知を競い合うというもの。しかし、やがてこの番組は都市対抗戦の様相を帯び始め、勝利は市の権威を高める一方、敗北は市の名誉に泥を塗るものと見なされます。
各地の大学に番組に出る前提でKVNクラブが作られ、行政府の首長や地方の共産党委員会は舞台装置や衣装に多額の資金を提供するようになります。過熱した番組は批判にさらされ、生放送は録画され、編集されたものが流されるようになりました。内容は明らかにつまらなくなり、ついには打ち切りの憂き目をみます。復活したのは1987年。最初の形式に戻り、人気を博しているとのことです。

「レッツゴー・ガールズ!」・若い女性向けの娯楽番組で、これも視聴者参加型のゲーム形式。出演者(女の子)には仮想の設定が与えられ、妻、母、労働者、そして社会を構成する市民として振る舞うことが要求されます。勝利者は視聴者によって選ばれ、「性格がはっきりしていて、実生活に即した頭の良さと、打てば響くノリの良さがあり、しかも女性的魅力を秘めた一番調和のとれた女の子」という理想像を追求する番組のようです。

「何が? どこで? いつ?」【ЧТО? ГДЕ? КОГДА?】・人気の高い若者向け番組のひとつ。やはり視聴者参加型です。6人が1チームとなり、丸テーブルにつきます。中央にはルーレットが置いてあり「歴史」「文化」「科学」などのカテゴリーが並んでいます。参加者はこのルーレットが提示する質問に協力して答えていくというもの。

「メガネ・ケース」【Prillitoos ※エストニア語・エストニア共和国で制作された高齢者向けの番組。バルト3国ではチャンネルが7つもあり、さらに隣接するフィンランドの番組を傍受することができます。番組制作者にとっては競争相手が多い地域というわけで、若者向け番組ばかり作るのではなく、高齢者のニーズを掘り起こそうと作られた番組です。番組内容はざっくばらんに言うと、「お年寄りの知恵とか体力、技能を見直そう」というもの。祖母仕込みのハーブティーを作ってみせるおばあさん、民族固有の編み物を披露するおばあさん、老人たちのコーラスクラブ、老若男女が集まってウォーキングする「歩け歩け3キロメートル」などなど。番組は現在も続いています。公式サイトはこちら


「推理ゲーム」・古今東西のミステリー小説や映画のパロディ番組。殺人・強盗・恐喝・誘拐なんでもあり。幽霊が出る古城まであります。出演者はソ連でも人気の実力派俳優たちで、アフトル(作者という意味)、インスペクトル(捜査官)、セルジャント(軍曹)の3人がレギュラーです。
視聴者は彼らと一緒に推理して、テレビの中の犯罪を解明しなければなりません。殺人であれ、誘拐であれ、窃盗であれ、「犯人、手口、時間、場所、動機」のすべてに正解する必要があります。
毎回、1000通を超える回答が寄せられ,正解者全員にアガサ・クリスティやジョルジュ・シムノンの作品、そして中心的な役割を演じた出演者たちの「指紋」がついたサイン入りブロマイドが送られます。


さて、ソ連を代表する番組といえば、なんといってもニュース番組【ВРЕМЯ(「ブレーミヤ=時間)】です。キャスターはもっとも経験があり、信頼される人物。ファンレターが来るほどの人気なのです。
番組はモスクワ時間の午後9時スタート。放映時間は平均40分で、国内の主要ニュース、海外ニュース、ルポとニュース解説、科学・文化・スポーツのコーナーで構成されています。

この番組のテーマ曲は【Время, вперед!(時よ、前進!)】のサビ部分が使われています。元々は同名小説の映画のテーマ曲で、作曲者はスヴィリードフ。ソチ・冬季オリンピックの開会式典で、宙に浮かぶ巨大な機関車のオブジェが登場する場面のバックに流れたのをご記憶の方もいるのでは。カッコいい曲なので
リンクを。ブレーミヤで使われてる部分は1分ぐらいからです。

おしまいはソ連の有名テレビ業界人リストです。
大きめにスキャンしたので詳しいプロフィールは拡大してご覧ください。全員を知ってたら変態を通り越して、狂人レベルのソ連マニアだと思います。わたしは一人しかわかりませんでした。だから正常です。

さて、次はいささか重い話題。
当ブログの更新ペースの遅さは弁明の余地がありませんが、今回の号を取り上げるのが、あと2週間早ければ、この記事の紹介はまったくトーンが異なったものになっていたはずです。
本来なら「ソ連時代にこんなことがあった」と過去形で書きたかったところですが、2016年4月2日。まさにこの地で武力紛争が発生してしまいました。
当事者も同じ。それがナゴルノ・カラバフ紛争です。本稿執筆時点ではなんとか停戦状態のようですが、双方が相手を非難しており、報道されない戦闘があっても不思議ではありません。

ナゴルノ・カラバフはソ連憲法第87条第3項にも明記される自治州で、アゼルバイジャン共和国の中にありますが、自治州人民代議員ソビエトが独自に法律を制定することができます。人口は1988年時点で17万7000人。そのうち75パーセントがアルメニア人です。

アゼルバイジャンとアルメニアは隣国で、どちらもソ連邦を構成する社会主義の共和国です。ソ連の国土面積から見れば小さな地域ですが、それが大事件の舞台となってしまいました。

1988年2月20日、ナゴルノ・カラバフ自治州ソビエトは、2つの要請を採択します。ひとつはナゴルノ・カラバフの帰属をアゼルバイジャンからアルメニアへ変更してほしいという要請。これはアゼルバイジャンとアルメニアの2つの共和国に対して出されました。もう一つは、この問題をソ連最高会議で審議して欲しいという要請。これはモスクワに対して出されたものです。採択を支持したのはナゴルノ・カラバフ選出のアルメニア系代議員たちです。

この要請自体はソ連の法律に基づいたもので、ソ連の基準でも民主的なプロセスと呼べるものでした。しかし、結果的にアルメニアとアゼルバイジャン双方の民族主義者を刺激することになり、両者の間で衝突を生み出してしまいます。
この事件についてプラウダは社説でこう書いています。

「我々の連邦は歴史的に若く、民族的な残滓の根は深く何世紀にもわたって隠されており、この根は、我々が望む・望まないにかかわらず、一定の条件のもとで発芽するということが忘れられていた。したがって新しい世代はそれぞれ、国際主義的の意識が育つ畑となる民族感情の文化をもっとも真剣に身に付けることが必要である。そして、民族感情の文化を身に付けることが放置されていた間に、民族的エゴイズムの感情の芽が出てきた。結局はこれが、アルメニアの通りや広場に何千、何万という人々を引っ張りだしたのである」

ところで、ナゴルノ・カラバフとはどんな場所なのでしょう。今日のソ連邦では、今回の問題(まだ紛争という言葉を使っていません)とは切り分けて、ナゴルノ・カラバフという土地を紹介しています。
写真は古都シューシャと郊外の村との風景です。

ナゴルノ・カラバフは2~3世紀にかけて大アルメニアの領土となり、もっとも初期のキリスト教国家のひとつとなります。その後、4世紀に入るとペルシャ人の侵入を受け、その後はアラビアの支配を受けます。この時、イスラム教が入りました。
その後はセルジューク・トルコ、モンゴル・タタールと異民族による支配が続きます。16世紀から18世紀にかけてはペルシャとトルコの領土紛争の舞台となります。
ショーシャはこの頃に建設された要塞都市で、ナゴルノ・カラバフ(当時はカラバフ汗国)の首都となります。その後、再びペルシャの脅威が高まると、カラバフ汗国は帝政ロシアの支援を求めます。この接近は、カラバフ汗国のロシア帝国の編入という結果をもたらし、20世紀初頭のロシア革命で、この地もソ連邦の一部となります。
 ややこしい歴史経緯があるとはいえ、この地に早く平和が戻ってほしいものです。


■さて、最後は告知で~す。
以前、お仕事を手伝わせていただいたスケール・アヴィエーション(大日本絵画)さんにまたまた協力させていただきました! 毎号、好評を博しているノーズアート・クィーン。今回のモデルさんは倉持由香さんです。

こちらの企画ではミリタリーアイテムをスタイリストさんが自由にコーディネートしており、前回のモデルグラフィックス誌上におけるジェーニャさんのような、軍の正式な規定書に基づくコーディネートとはまた違った趣が楽しめます。

メインの特集も「Su-27フランカーとそのファミリーの最新事情」というわけで、わくわくもんだぁ!
4月13日発売ですから是非是非~。




今回はこんなところで。でわでわ~。


2016年3月25日金曜日

アカが戦車でやってくる

どもです。
日付が変わりましたので情報解禁です。
3月25日発売のモデルグラフィックスの企画を
ちょっとお手伝いさせていただきました。
現在、大ヒット中の映画&テレビシリーズのアニメ「ガールズ&パンツァー」のプラウダ高校特集です。

表紙の背景になっているプラウダ高校の学園艦は、もちろんソ連海軍のキエフ級戦術航空巡洋艦がモデルなのですが、今回の企画にあたり、アニメ制作会社アクタス様に資料提供をさせていただきました。

最初にお話をうかがった時、キエフの資料なんて、いくらでもあるんじゃないのかなぁ?なんて思ったのですが、いざ探してみると「作画資料としてのクオリティ」に耐えうるものは結構少ないことがわかり、軽い気持ちで引き受けて、ちょっと焦りました。

でも、その甲斐あって実際に出来上がったイラストは素晴らしいです。画面中央右端に見える飛行甲板の前縁に防風パネルが展開しているところを絵にしたのはガルパン・スタッフが世界初ではないでしょうか。
全国の書店や模型専門店で絶賛発売中ですので、是非、お買い求めいただければと思います。



さて、今回の目玉はなんといっても、声優のジェーニャさんのグラビアです!
「ガールズ&パンツァー劇場版」ではプラウダ高校の新キャラクター「クラーラ」を演じ、ロシア人キャラをロシア人声優が演じるという画期的なキャスティングとなりました。すばらしい!

モデルグラフィックスは模型雜誌ですので、当然、メインはソ連戦車。そこにジェーニャさんがゲストで登場するなら・・・というわけで今回、ソ連軍の軍服の提供およびコーディネートをさせていただきました!

詳しい内容はモデルグラフィックス本誌を見て頂ければと思いますが、見てのとおり「ただのホンモノ」です。いや、準備もさることながら、撮影も大変でした。なにしろジェーニャさんはスタイルが良く、一方の軍服は男性用でだぶだぶ。写真ではなんとかそれなりに決まっていますが、背後は安全ピンとクリップと洗濯バサミで大変なことになっています。


ソ連は多民族国家なので、アジア系の人間でもそれなりに軍服は似合うのですが、やはりロシア人が着るとレベルが一気に上がりますね。

モデルグラフィックス誌上では、すばらしいクオリティの写真やジェーニャさんのインタビュー、その他、ガルパンの魅力がいろいろ詰まっております。
是非是非、お買い求めください。






今回のコーディネート。
ソ連の軍服は一般的には地味で野暮ったい印象があるので、メダル増し増しで揃えてみました。一部はレプリカです。
ぶっちゃけ「あなた、何万人のナチス殺しましたか?」って感じですが、勲章の性格上、戦争前に人民の敵の粛清も相当やったのではないか?なんてストーリーが浮かんでくるような、こないような(妄言)。


ちなみにモデルグラフィックス本誌にも解説を書かせていただきました。
補足しますと、金星メダルを授与された将兵にはレーニン勲章も授与されるのですが、今回は別の企画でレーニン勲章を貸し出してしまっていたため、残念ながら間に合いませんでした。
まぁ、ソ連邦英雄の称号をもらい、これからレーニン勲章を授与される直前の様子・・・なんてシチュエーションでご了承くださいませ。



参考までに。
今回の撮影のために勲章・メダル類を揃えていた時、「正直、盛りすぎたかな?」とか思ったのですが、史実を調べてみると上には上がいました。
アントニーナ・ヴァシリエーヴナ・・レベデヴァ(1916~1943)【Антонина Васильевна Лебедева】は空軍中尉として戦闘機に搭乗。叙勲歴に共通点が多く、偶然ながらびっくりしました。










というわけで「ガルパンはいいぞ!」

今日のソ連邦の紹介は次回ということで、すみません。
とりあえず、引き続きよろしくです。
でわでわ~。

2016年2月20日土曜日

艦船模型の展示会 ~2016~

新春恒例のミンダナオ会さまによる艦船模型展示会です。
今回は2月12日.13日.14日の3日間に渡る開催となりました。
今回は「第一次世界大戦の艦船」がテーマ。
というわけで早速、会場の様子をレポートしてみたいと思います。

ミンダナオ会というと会場に所狭しと並べられた圧巻の艦船模型展示が定番ですが、
今回はちょっと様子が違います。なんかスカスカ。これはもちろん手抜きではなく、
1916年5月31日午後から6月1日未明にかけて行われた「ジュットランド沖海戦」
様子を
再現したものです。
これは第一次世界大戦に行われた英国VSドイツの海戦で、主力戦艦同士がガチで
ぶつかりあった空前絶後の艦隊戦です。今年でちょうど100周年になりますが、おそらく
こんな海戦は二度と起こらないでしょう。今回の展示会では、この海戦のクライマックスを
5月31日午後6時30分と定め、その瞬間を立体的に把握できるよう心が配られています。


イギリス艦隊“グランドフリート”の旗艦アイアン・デューク。座乗するのは
ジェリコー大将。麾下に戦艦28隻、巡洋戦艦9隻を擁し、さらに20隻を
越える巡洋艦と70隻を越える駆逐艦を従えていました。


対するドイツ艦隊旗艦のフリードリヒ・デア・グローセ。率いるはシェーア中将。
麾下に戦艦22隻、巡洋戦艦5隻を擁し、さらに数隻の巡洋艦が加わっています。
イギリス艦隊に比べると数では下回っていますが、機動力に富む水雷艇が
50隻以上も参加しており、イギリス海軍の壊滅を目論んでいました。


さて、この作戦。最高司令官とは別に2人の指揮官が重要な役割を演じています。
ひとりは英国海軍のビーティー中将。巡洋戦艦だけで構成される巡洋戦艦艦隊を率いて
いました。画像では右側にある独立した薄いブルーのテーブル上の展示です。
もうひとりはドイツ海軍のヒッパー中将。こちらも巡洋戦艦5隻からなる第一偵察戦隊を
率いていました。こちらは濃いブルーのテーブル。両者はジュットランド沖海戦の前に起きた
「ドッガー・バンク海戦」でも砲火を交えた因縁の仲。ヒッパーはビーティをおびき出して
シェーア率いる主力艦隊の前に引きずり出し、壊滅することを企図していました。

この展示ではビーティーとヒッパーがそれぞれ左右に進路を変えています。両者は一旦、
離れているのですが、この時、ジェリコー大将率いるグランドフリートがシェーアの前に
あらわれ、進路を遮ります。横一列に並んだ艦隊が単縦陣の先頭に火力を集中できる
丁字戦法の型が形成され、シェーアは危機に陥ってしまいました。
これを見たヒッパーは艦隊を反転させてグランドフリートに突進。シェーアの艦隊が逃げる
時間を稼ぎます。しかし、そんなシェーアを今度はビーティの艦隊が追撃します。
一連の戦闘でイギリス艦隊は14隻を失い、ドイツは11隻を失いました。戦術的にはドイツの
勝利と言えなくもありませんが、残存艦隊では英国が優位になります。とはいえ両者の差は
それほど決定的になったわけでもなく、戦いは引き分けといったところでしょうか。



個別の艦の展示を見ていきましょう。これは1/350スケールの英国戦艦ハーキュリーズ。
ジュットランド沖海戦では第1戦艦艦隊の第6戦隊に所属していました。

こちらは1/350スケールの英国戦艦ロイヤルオーク。1916年5月1日就役といいますから、
ジュットランド沖海戦ではピカピカの新鋭戦艦です。1939年にドイツ潜水艦の攻撃を受け
多数の乗組員とともにスカパフロー軍港で撃沈されてしまいます。
船体は今も軍港内に沈んでおり、毎年10月14日に海軍のダイバーが艦尾の軍艦旗を
交換する慰霊式典が続けられているとか。これはつまり同艦が未だに除籍されておらず、
形式上は現役のイギリス海軍艦艇として扱われているということです。


第一次世界大戦では航空機が本格的に導入された戦争です。当時はまだ複葉機ですが、
それでもとてつもない破壊力を持っていることが証明されました。海軍も早速、航空機の
活用を考え、実戦投入されます。画像は左からアークロイヤル、エンガディン、アーガス、
フューリアス(1917年改装)、同じくフューリアス(1925年改装)。このうちエンディガンは
ジュットランド沖海戦に参加し、史上初の航空機による偵察を行っています。

ルシタニア号。英国キュナード・ラインの客船で、1915年5月7日、南アイルランド沖で
ドイツ潜水艦の攻撃を受けて沈没。1200人近い犠牲者が出ました。この中にはアメリカ人
128人も含まれており、アメリカの対独参戦のきっかけになったことで知られています。
この件では、とかく悪く言われがちなドイツですが、実は大使館を通じてアメリカ人に
利用しないよう呼びかけています。
また、後世の調査では127トンもの武器弾薬が積み込まれていたことが判明しており、
ドイツだけが一方的に悪いわけでもなさそうです。

イギリス海軍の巡洋戦艦タイガー。1914年10月に就役した新鋭艦でビーティ中将率いる
巡洋戦艦艦隊に所属し、ドッガー・バンク海戦とジュットランド沖海戦に参加しています。
ただ、いずれも戦果ははかばかしくなく、多数の命中弾を受けて死傷者を出しています。
言うなれば「傷だらけの虎」でしょうか。

今回はこんなものも。ジュットランド沖海戦の様子が1/3200スケールのジオラマとなって
展示されています。奥にあるのはダーダネルス海峡突破作戦のパネル展示。


近くで見ると、ちゃんと作り込まれた戦艦です。水柱も再現されていて見ていて飽きません。

もうひとつのパネル展示。ダーダネルス海峡突破作戦です。ドイツと同盟関係に
あった
オスマン帝国(オスマン・トルコ)は第一次世界大戦で連合軍と敵対。
これに対し、
首都イスタンブール占領をもくろむイギリスおよびオーストラリアなどの
イギリス連邦、
そしてフランスの連合軍が海峡の突破を試みます。
トルコ側は海峡沿岸を要塞化し、
なおかつ湾内にびっしりと機雷を敷設。連合軍側
の前ド級戦艦6隻が撃沈・大破という結果になります。しかし、これは前哨戦に過ぎず、
後に「ガリポリの戦い」として知られる上陸作戦は、双方合わせて50万とも言われる
死傷者を出すことになるのです。


このガリポリの戦い、トルコ側では「チャナッカレの戦い」と呼ばれ、歴史上きわめて
重要な戦いと位置づけられています。多大な犠牲を出しながらも連合軍の撃退に
成功したからで、この時の指揮官のひとりムスタファ・ケマルは後年、オスマン帝国
帝政を廃してトルコ共和国を建国。初代大統領に就任します。
トルコでは2012年に映画化もされているのですが、会場でどういうわけかそのDVD
上映されていました。なんというか、トルコ版の「二〇三高地」みたいな感じです。
トレーラーはこちらちなみに原題で検索すると映画が丸ごと……ゲフンゲフン!


そんなわけでダーダネルス海峡は前ド級戦艦の墓場になってしまったわけですが、
そんな古い世代の戦艦を。カノーパス、レナウン、右はダンカンです。


こちらはオーストリア・ハンガリー海軍。一番手前が戦艦ブダペスト。そのとなりが
戦艦エルク・ヘルツォーク・フルディナント・マックスです。長い! 第一次世界大戦

の敗北でオーストリア・ハンガリー帝国は解体され、内陸国になったオーストリアと

ハンガリーは一大海軍を失い、小規模な河川艦隊だけになってしまいます。



一方、海の向こうのアメリカはというと大規模な工業化をすすめて海軍も増強しています。
画像は砲塔や上部構造物が派手ですが、リサーチに基づく正確な色だそう。白い船体は
「グレート・ホワイト・フリート」の由来にもなりました。これは1907年から1909年にかけて
世界一周航海を行ったアメリカ大西洋艦隊のことです。


もっとも、そんなキレイな装いも戦争になってくるとやってられないわけで。手前は戦艦
ヴァージニアの変わり果てた(?)姿。バスケット型のマストはより遠くを見通せるように
考え出されたものです。こんな頼りない構造物の上で見張りしなきゃいかんとかイヤですわ。
ところで、その頃、われらが大日本帝国海軍は何をしていたのか?というと第一次世界
大戦では連合国の一員としてしっかり参加しております。一等巡洋艦「出雲」を旗艦とする
第二特務艦隊が編成され、当時イギリス領だった地中海のマルタ島を拠点にマルタ=
マルセイユ(フランス)、マルタ=タラント(イタリア)、マルタ=アレキサンドリア(エジプト)の
3つの通商航路で護衛にあたりました。この任務で駆逐艦「榊」が被雷。78名の死者を
出しています。

世界大戦というだけあって、戦場は世界の海へと広がります。ここでは第一次世界大戦の
その他の海域で活躍した艦艇が豊富な資料とともに展示されていました。日本だと
アオシマ……じゃない青島要塞の戦いが映画になっていますが、ここではエムデンの戦いが
注目を集めていました。

エムデンはドイツ海軍の巡洋艦。といっても全長は100メートルちょっとしかありません。
この艦はインド洋からマレー半島にかけての広い範囲で通商破壊戦に従事しました。
撃沈したり拿捕した艦船は30隻以上。最後はオーストラリア海軍に撃破されてしまいますが、
その直前に陸戦隊がイギリスの洋上無線基地を破壊するべく南の島に上陸していました。
彼らはエムデンの戦闘を見ると、島にあったオンボロ帆船を奪って脱出。途中、ドイツ商船に
拾われ、イエメンに上陸。そこからラクダや船を乗り継ぎ、時にはアラブの盗賊と戦い、
アラビア半島からダマスカス、コンスタンチノープルへと逃げ延び、最後は鉄道でベルリンに
帰還するのです。ちなみに艦長たちも捕虜になりますが、終戦後は釈放されています。


その他の展示を見てみましょう。こちらはイタリア王国の陣容。

帝政ロシア海軍からソ連海軍へと所属が変わった戦艦パリスカヤ・コンムナ。風変わりな
船首部分は増設された作業甲板らしく、砕氷機能を付与したのではないかとの話。


同じく帝政ロシア海軍の戦艦インペラトリッツァ・マリーヤ。こちらも船首に
謎のクレーン設備がついています。


ロシア=ソビエトの流れとなると避けて通れないのが二等巡洋艦アウローラ(オーロラ)。
ペトログラード(サンクト・ペテルブルク)で革命の合図となる砲撃を行ったことでソ連では
神格化された存在でした。前述したロイヤルオークのところでも触れましたが、こちらも
博物館でありながら、現役の海軍艦艇として扱われています。

ポスト・ジュトランド型戦艦。ジュトランド沖海戦はその後の海戦に大きな影響を与えました。
従来のタイプの戦艦では戦いに勝てないと実感した列強各国は火力や防御力を高めた
より大型の戦艦建造に乗り出します。今思えば、この時すでに大艦巨砲主義は終焉を
迎えていたと言えるのでしょうけど、この流れは戦艦大和の建造まで続きます。

1/350スケールで作られた馴染み深い戦艦群。


おまけ。ミンダナオ会のメンバーである斎木伸生氏。かれこれ20年以上のつきあいです。
軍事評論家としてソ連やフィンランドに造詣が深く、劇場版アニメ「ガールズ&パンツァー」で
フィンランド語の指導もしています。かくいうわたしも拙書の「ミリタリー服飾用語事典」で
フィンランド軍の監修をしていただきました。

画像はフィンランドの民族楽器「カンテレ」。ガルパンの劇中にも登場し、新宿バルト9での
トークショーでは自ら演奏も披露されたとか。ぼくもいじらせてもらいましたが、シンプルながら
奥の深い楽器です。


今回はこんな感じです。
また来月あたりに「今日のソ連邦」の紹介記事をアップしようと思います。
よろしくお願いします。

でわでわ~。










2016年1月6日水曜日

今日のソ連邦 1988年5月15日 第10号

皆様、新年あけましておめでとうございます。
そして本当にお久しぶりです。なんとか生きてますよー。
なんか忙しさにかませてダラダラしてたら(どっちだよ)、年が明けてしまいました。いや、お恥ずかしい限り。もっともソ連=ロシアでは正教会歴が浸透しており、1月7日に聖降誕祭と新年をお祝いするので、まだまだ正月気分でも良しとしましょう。

というわけで久々の更新。偶然にも新年にふさわしい雰囲気の表紙ですが、今日のソ連邦でこれほど全面に宗教色を出してくるのは珍しいことです。これもゴルバチョフのペレストロイカの影響でしょうな。

ざっと目次を見ますと、米ソ首脳会談の開催を控え、アメリカとの関係を総括するような記事が巻頭を飾っています。米ソが正式な外交関係を樹立したのは1933年ですが、その前の1918年にアメリカはロシア革命を阻止しようとアルハンゲリスクやウラジオストクに軍隊を送り込んでいます。いわゆる干渉戦争で、イギリスやフランスの他、日本も出兵しています。
まぁ、世界初の社会主義国家の成立を、帝国主義陣営が歓迎するはずがなかったわけですが、なんだかんだで記事にはアメリカへの恨み節がネチネチと書きつらねてあります。

しかし、今回のメインはロシア正教1000年祭に関する記事。
本誌が刊行されたのは1988年ですから、ロシアにキリスト教がもたらされたのは西暦988年ということになります。この年、キエフ・ルーシのウラジーミル大公は大がかりな国家改革を実行したのでした。
それ以前のロシアは、古い宗教に基づく族長制。これを当時のヨーロッパの最新国家体制であった封建制君主国へと変貌させるのが目的でした。彼はビザンチン帝国からギリシャ正教の司祭や知識人、哲学者などを呼び寄せます。ギリシャ正教が選ばれたのは、ロシア語による礼拝が可能だったからだそうです。他のキリスト教のことはよくわかりませんが、ラテン語あたりだったのかな?

ともあれ古代ロシアのすべての部族に統一された様式をもつ宗教が導入されました。ここにどんなメリットがあったのかといえば、当時の「未開国」と「文明国」を明確に分かつ基準がキリスト教だったからです。ロシアの商人たちはヨーロッパやビザンチンに出かけても、もはや野蛮人扱いされません。東方イスラム社会においても世界的な宗教の信徒として扱われ、それなりの待遇に格上げされたのです。

もちろんすべてが一夜にして変わったわけではありません。記事ではおよそ100年かかっただろうと言われています。でも、これロシアの国土面積を考えたらすごい早さであります。ほぼ同時期にキリスト教を受け入れたスウェーデンでは250年。ノルウェーでは150年かかったと記事は指摘しています。
とはいえロシアにも独自の大きな問題がありました。奴隷制度です。
この時代、特に珍しいものではありませんが、ロシアの場合、同じ民族を奴隷にして売買していることが教会から問題視されました。
ちろみに英語、ドイツ語、フランス語などで奴隷(スレーヴ)を意味する単語はスラヴ民族(ロシア人)が語源です。彼らはロシアから売り飛ばされてきた奴隷なわけですが、同じ宗教の信徒となればこれは認められないことになります。もっとも「農奴」はその後も延々と残るのですが。

ともあれキリスト教の導入はロシアに大変革をもたらしました。建築技術や芸術が発展し、金貨の鋳造も始まります。識字率が向上し、ロシア語で書かれた法典が整備され、農業においては野菜の栽培が始まりました。わたしも知らなかったのですが、それまでのロシアでは野菜や果実は採取するもので、作物ではなかったのですな。
このような輸入文化に、それまでのロシア独自の文化が混ざり合い、今日のロシア文化の基礎が出来上がります。その中心はキエフでした。ウラジーミル公は既にこの世にいませんでしたが、息子のヤロスラフ賢公ががんばります。彼はキエフをコンスタンチノープルに負けない大都会にしました。
しかし、それ以上に大きな目標は「ロシア国内で教育を受けたロシア人の知識階級」を生み出すことだったと言われます。というのも、ビザンチンはロシアの身元保証人のような地位にあり、しばしば干渉してきたからです。
ロシア正教会はギリシャ正教会の一府主教管区にすぎず、ロシアはビザンチンの属国でした。1051年までロシアでもっとも地位の高い府主教はギリシャ人が務めていたのです。彼が死ぬとヤロスラフ賢公は、ビザンチン(ローマ)皇帝にもコンスタンチノープル総主教にも相談することなく、全ロシアの主教を招集し、ベレストボ村のロシア人司祭イラリオンを府主教に据えます。かくしてロシア正教会は確固たる足場を固めたというわけでした。なるほどなぁ。


さて、写真はゴロドニャの聖母誕生教会のアレクセイ・ズロビン神父。父親は軍の将校で共産党員でもあったそうですが、祖母の影響で信仰の道に進んだのだとか。記事では一切、言及されてませんが、いろいろ苦労があったんじゃなかろうか。
ゴロドニャはモスクワの北西150キロ、カリーニン市近郊にある小さな町です。創建600年の名刹で16世紀に建てられた教会は国の保護文化財に指定されています。
修復と保存の作業はカリーニン市の宗教局(公的機関なのかは言及がありません)が資金を提供し、ソ連文化省の全ソ生産科学修復委員会が実作業を担当しました。なんでこんな大事になったのかというと、床下と地下の物置で大量のフレスコ画の破片が発見されたからです。
18世紀に食堂を増築した時、本堂との間にアーチ状の構造物が作られ、その際、不要となった壁が取り払われたのですが、その破片が捨てられずに残されていたというわけです。破片の一部は復元され、カリーニン市の美術館に保存されているそうです。
他にも面白い発見がありました。壁を修復するために劣化したモルタルを剥がすと、そこから絵があらわれたのです。画像右下の線画です。教会の壁なのに宗教とはまったく無関係な絵柄で、髭を生やした農民や馬、若い女性の絵などが描かれていたそう。職人のラクガキだったのでしょうか?

次は西ウクライナ・リボフ市の北東にある男子修道院の話題。テルノボリ州ポチェエフ市にあるポチャエフ聖母昇天祭修道院です。ごらんの通り、見栄えのよい立地に荘厳な建物。というわけで修道僧や信徒に関係なく、観光客も大勢訪れる場所だそう。
修道士は現在、50人ほどが在籍。毎朝5時に起床し、礼拝や信徒との相手の他、庭仕事や台所、ガレージ、見学者の案内などを役割分担しています。食事は日に2度。12時10分と20時15分。あとはひたすら修行の日々です。
上述したアレクセイ神父もそうですが、ソ連市民でありながら修道院に入るというのはどんな事情があるのか気になります。修道院長によれば「修道僧たちは俗世間への軽侮があるわけではなく、ソ連社会から孤立しているわけでもない。日々、全世界の平和。祖国の幸福と繁栄、そこに住むすべての人の救済を願い祈りを捧げています」とのこと。

今回の号では、ソ連の他の宗教も紹介されています。といってもざっくりとした内容ですが。
まずはカトリック。ソ連では主にバルト三国(ラトビア・リトアニア・エストニア)で信仰されています。
春の祭りというのは特定の宗教名とは思えませんが、タジキスタンの新年のお祝い。イスラム教ともまた違うもののようです。
福音パプテストはプロテスタントの一種。ソ連では1944年に誕生した宗派です。プロテスタントだからといってドイツと関わりを短絡的に結びつけるのもアレな気がしますが、1944年という時代背景や信徒が極東、中央アジア、シベリアと散り散りになっているあたり、グルジア出身のオッサンの影を意識してしまいます。
イスラム教徒はソ連ではロシア正教に次ぐ宗教人口。ソビエト時代になってからもコーランが7回刊行されるなど、当局もそれなりに気をつかっています。記事には書かれていませんが、ソ連では毎年、チャーター機でメッカに信徒を送迎したりもしていました。
仏教の代表はラマ教。写真はソ連仏教徒中央宗務局議長であるバンジド・ハンボラマ・ジャムジャムソ・ズルドイネーエフ師。ブリヤート自治共和国の出身だそうです。
最後はユダヤ教。シナゴーグ(教会)ではマッツォと呼ばれる発酵させないパンを売っています。信徒でなくても買えるので教団の貴重な収入源なんだとか。また、教会の座席をチケット制にして年間リザーブシートとして信徒に販売し、それも収入源になっているとか。つーか、なんでユダヤ教の紹介記事だけ「お金の話」が強調されているんでしょ?

最後に、いかにもソ連らしい記事から。
ズバリ「教会に通うのを禁止できるか?」というタイトルです。
もちろんソ連でも憲法第52条で「宗教・信仰の自由」が保証されています。しかし、実際には抜け道がいくつもありました。たとえば子供の洗礼の際、両親は教会に身分証明書を提出しなければなりませんでした。もちろん、この記録は当局が自由に閲覧することができます。そうすることで教会に通う人間を把握し、彼らに簡単に圧力を加えることができるというわけです。これは1980年代に入り、正式に裁判で「違法である」と公言されました。
逆にいえば、それまでは苦難の歴史だったわけです。たとえば西ウクライナのイワノフランコスク州では、1962年から1987年までの間、新しい教会がほとんど作られませんでした。その一方で州政府当局は次々と教会を取り壊していきます。閉鎖されたまま朽ち果てたり、ダム湖の底に沈んだ教会もありました。
記事では「行政機関の職員が宗教に関する法律に精通していない」「信者をイデオロギー敵として扱い、不信の目で見ている」など指摘。続いて「我々は西側の真のイデオロギー敵とは普通の人間の言葉で話すのに慣れているのに、社会主義の国に生まれ育った自分たちの市民に対しては、必ずしも自国のきわめて人間的な法律を適用していない」と皮肉っています。
まぁ、これもひとえにペレストロイカで風向きが変わったからなわけですが、ソ連崩壊後、心の拠り所を無くした人々の心にカルト宗教が蔓延していくのも事実なので、なんとも難しい問題です。

次の特集は「バラライカの100年」。ロアナプラに住んでる恐ろしい女性のことではありません。楽器のバラライカです。三角形の特徴的な胴。3本の弦を指でつまびくピチカート奏法で演奏します。
ルーツはよくわかっていませんが、現代の形になったのはワシーリー・アンドレーエフなる人物が深く関わっています。彼は作曲家であり、優れた演奏家でした。それまで土着の民族楽器だったパラライカを洗練された楽器へと昇華し、ソロコンサートやオーケストラとの共演にも耐えうる楽器にしました。そのアンドレーエフが初めてソロコンサートを行ったのが1886年。ペテルブルクでのことでした。

アンドレーエフはその後も楽器の改良を続け、通常のバラライカ(別名ピッコロ)、プリマ、セクンダ、アルト、バス、コントラバスの6種類を考案します。それぞれ音域が違い、これらを組み合わせることでオーケストラ・アンサンブルを生み出せるようになったわけです。ちなみに普通のパラライカは全長60~70センチですが、コントラバス・バラライカは全長170センチもある巨大なものです。初めてみた時はコンコルドの模型かと思いましたよ。

アンドレーエフと彼のアンサンブルは、1908~1911年にかけて断続的に演奏旅行を行い、アメリカ、ドイツ、イギリス、フランスなどで成功を収めました。それまでバラライカには舞踏曲しかなかったのですが、彼はゆったりとしたテンポのロシア民謡などもレパートリーに取り入れ、大層な人気だったそうです。ヨーロッパの社交界はちょっとしたロシアブームになり、バラライカの楽曲から名前をとった香水まで売り出されたというから大したものです。

今回はこんなところで。



追記:おかげさまで「ミリタリー服飾用語事典」は各方面からご好評いただいております。ただ「イラストが少ない」と指摘されることもしばしばで申し訳ないです。ビジュアル面も充実させたかったのですが、総ページ数との兼ね合いもあり、あのような形に相成りました。

【Tips】
その代わりと言ってはなんですが、各章のトビラにある各国軍の正式名称とアイテム名のふたつのキーワードで画像検索すると、そこそこの確率で該当する軍装品の画像が出るとのことですので、ご活用いただければ幸いです。
引き続き、よろしくお願いいたします。





改めまして、本年もよろしくお願いいたします。
でわでわ~。



2015年7月19日日曜日

津久田重吾の本が出ます。ちょっと追加情報。

毎日、暑い日が続いております。
皆様にはいかがお過ごしでしょうか。ずいぶんと長い間、ブログを放置してしまい申し訳ありませんでした。
忙しかった原因のひとつがコレです。

「ミリタリー服飾用語事典」

本文328ページ
本体価格3000円(税別)
ISBN978-4-7753-1015-1

新紀元社より発売中です。

日本、ドイツ、フランス,イギリス、アメリカ、イタリア、ソ連、フィンランドの8か国の軍服の、それぞれの国における正式名称をまとめたものです。時代的には概ね1930年代から2000年代までを網羅しています。

インターネットで軍服類の資料を調べる時、曖昧なキーワードでは思うように目指す資料にたどりつけず、なんとかならないものかと思っていたのですが、結局、自分で作る羽目になりました。書き終わった今、わたしはあらゆる軍服を憎んでおります(笑)。めんどくさすぎ。種類多すぎ。おまえら全員、ジャージで戦え。
※7月28日テキスト追加。










まぁ、中身が中身ですので、相当に読者を選ぶ本ではないかと覚悟しておりますが、手にとって頂ければ幸いでございます。全国の図書館に置いてもらえないかしらん(妄言)。

三才ブックス刊ゲームラボでの連載も無事終了し、現在、単行本化作業に邁進しております。
てゆーか、なんでスケジュールが重なるのぉ・・・。まぁ、日頃の行いの報いでしょうか。
こちらの方も、詳細が出ましたら告知させていただきます。
昨日のソ連邦の再開は・・・もうちょっと待ってくださいね。

見捨てないでね。お願い。

でわでわ~。