2013年1月6日日曜日

今日のソ連邦 第18号 1986年9月15日


どもです。
時間のあるうちに更新しておかないと。で、前回の続きです。
誰も覚えてないグッドウィル・ゲームスがまだ特集されてます。
表紙は平均台の競技。
オクサナ・オメリヤンチクというソ連の選手です。
ロシア語における女性の姓は語尾にaがつく、というのは日本でもそれなりに広まってきた法則ですが、彼女はオメリヤンチカではありません。結構、例外があるのですね。(追記…彼女はウクライナ人らしいです)
ちなみに彼女は女子体操個人総合で3位に入賞しました。


この大会では6つの世界新記録、8つの大陸新記録、90以上の各国の新記録が出たそうで、結果はそれなりだったようです。
ちなみに世界新記録の内訳は
・水泳男子個人800メートル自由形=7分50秒64 ウラジーミル・サリニコフ(ソ連)
・自転車競技男子団体4000メートル追い抜き=4分12秒830 A・クラスノフ、S・フメリニン、V・シプンドフ、V・エキモフ(ソ連)
・陸上競技7種女子=7148点 ジャッキー・ジョイナー=カーシー (米国※日本で有名なフローレンス・ジョイナーさんとは別人です)
・自転車競技男子スプリント200メートル計時=10秒224 ミハエル・ヒュブナー(東独)
・陸上競技男子棒高跳び=6メートル01 セルゲイ・ブブカ(ソ連)
・自転車競技女子スプリント200メートル計時=11秒489 エリカ・サルミャエ(ソ連)
となっております。(国籍は当時のもの)


では、次の特集。
ソ連で盛んな低温工学に関する記事です。相変わらず大雑把な環境で精密な作業をしている感じのソ連の研究所ですが、ホコリとか大丈夫なんかな。
さて、ここで言う低温工学とは「極低温工学」のことでマイナス153度C以下の温度のもとで起こる現象と、そうした環境を作る装置の開発に関する研究のことです。
ソ連ではピョートル・カピッツァなる人物がその嚆矢とされていますが、彼が最初の低温装置を開発したのは1939年から40年にかけて。まさに独ソ戦が始まろうとしている頃です。
装置で作られた液体窒素は冶金工学の分野に変革をもたらしたとあります。
高炉の場合、生産性は1.5倍になり、コークス消費量は25%の削減に成功。ソ連が早くから冶金の分野で発展をとげ、主に戦車の装甲などに生かされたことは有名な話ですが、低温工学の発展が支えていたのかもしれませんね。
なお、この記事では超伝導についても触れられていますが、日本ではこの手の話題は最近、聞かないなぁ。あと「人類は古くから低温の有効性について気づいていた。打撲症の治療で患部を冷やすのは昔から行われていることだ」ともありますが、それって低温工学なんでしょか? まぁ、例えとしてはわかりやすいですけど。

でも永久凍土はずっと温度が上の方なので、この記事には出てきません。ソ連=シベリア=寒い=永久凍土かと思ったんですが。
余談ですが、日本でも永久凍土の研究成果は日常的に利用されています。永久凍土は水を通さない性質があるので、地下鉄工事などでは冷却ボルトを土壌に打ち込み、地面を凍らせてしまいます。そうすることで坑道に水が吹き出す心配をせずに、トンネル掘削ができるというわけです。

お次はリトワ(現在のリトアニア共和国)で復活しつつある農村芸能についての話題。
失われつつある民族文化の復活というのは、どこでも行われていることですが、ソ連でも例外ではなかったようです。でもリトアニアの農村から急速に伝統芸能が廃れていった時期というのが、20世紀初頭って・・・年代をぼやかしてるけど、それって社会主義革命の頃じゃないのかなあ。
農村と農民を急激に集団化していったら、そりゃ伝統芸能も無くなるような気がするんですが、同志スターリン、どうなんでしょう?(命知らず)
それはそうと、この劇団、果たして今もリトアニアで存続しているのでしょうか?

最後は恒例のロシア語散歩。
今回は地名の隠れた意味です。
ソ連にはアクサイという名の川が4つあるそうです。
そのうちの二つは北カフカス、残りはカザフスタンとキルギス。同名の街も3つあり、キリギス、ボルゴグラード(旧スターリングラード)、ロストフ・ナ・ドヌーの近郊です。
どれもチュルク語系の名前で、アクは白、サイは川という意味なのだそう。
川の名前はその特長から名づけられることが多く、チーハヤ(音無川)、ブールナヤ(激流)、スラートカヤ(甘川)などがあります。典型的なのがアクサイのように色から命名される例で、ベーラヤ(白川)、クラースナヤ(赤川)、チョールナヤ(黒川)などがあります。
もっとも水質から来る色とは限らないようで、ベーラヤは濁流であることが多く、チョールナヤは流れがわからないほど穏やかな川か、冬でも凍結しない川のことを指します。白い雪景色をバックにすると、川が黒く見えるからだと言われています。
流れの状況や周囲の景色で命名されるということは、一本の大河が地域によって違う名前になるということでもあります。

湖はシベリアに何百とありますが、これらはすべてライダ(ヤクート語で湖沼)と呼ばれます。数が多いのでいちいち名前を付けてられないようです。ロシア平原にある湖も単純にオーゼロやオゼルコー、オゼルツォーなどと呼ばれます。
ちなみにバイカル湖はチュルク語で「豊かな湖」という意味。でも地元のブリヤート・モンゴル人は「ダライノール(聖なる湖)」と呼んでるそうです。エベレストとチョモランマの関係みたいなものでしょうか。

ソ連には大河が沢山ありますが、昔は運河がなかったため、船乗りたちは船を陸にあげて別の川に運んでいました。この時の曳き船作業をロシア語でボーロクと言います。ここからボロコラムスク、ボロークなどの街の名前ができました。
また、黒海からバルト海へつながる通商水路が、かつてスモレンスク市の近くにありました。船乗りたちはこの街に到着すると船底にタール(スモール)塗り直すのが恒例だったようで、スモレンスクの名前はここから来ています。
最後に「ウラル」の語源について。
エカテリーナ2世の時代、この地域一帯で大規模な農民蜂起が起こりました。口火を切ったのはヤイク川の近くに住んでいたヤイク・コサックで、指導者はエメリヤン・プガチョフ。有名な「プガチョフの反乱」です。しかし蜂起は失敗に終わり、プガチョフは処刑され、農民たちの多くが流刑されました。
エカテリーナ2世は、この血なまぐさい農民蜂起の記憶をぬぐい去るために、最初の蜂起の場所であるヤイツキー市とヤイク川の改称を命じます。
1775年、ヤイク川はウラル川になり、周辺の山々もウラル山脈となります。この名前はこの地域に住むマンシ族やバシキール族の言葉で、単なる「山」という素っ気ない名前なのだそうです。

今回は、こんな所で。
でわでわ~。


2013年1月1日火曜日

謹賀新年


新年あけましておめでとうございます。
果たしてどなたが見てるやらという感じのページですが、
今年もしばらく今日のソ連邦をご紹介したいと思います。
更新はゆっくりですが、よろしければ本年もよろしくお願いいたします。





2012年11月23日金曜日

今日のソ連邦 第17号 1986年9月1日

なんとか今月の更新にこぎつけました。
表紙は鳥人セルゲイ・ブブカ。今はウクライナ国籍ですが、当時はもちろんソ連代表です。
今回は1986年に開催された第一回グッドウィル・ゲームズの特集が組まれています。グッドウィル・ゲームズを直訳すると親善試合。80ヶ国の3000人がモスクワなどに集まり、夏季大会と冬季大会の2回に分けてアスリートたちが競い合ったとのこと。
メイン会場のモスクワ・レーニン中央スタジアムでは、聖火みたいな炎が燃え盛り、華やかなパレードで開会が宣言されました。うーん、なんだかオリンピックみたいな?

発案者はTBS会長のテッド・ターナー氏。CNNの創業者でもある大富豪です。で、TBSは日本のテレビ局ではなくて、ターナー・ブロードキャスティング・システムというケーブル放送局。後にタイム・ワーナーと合併します。

話を戻しますと、1980年代はオリンピック受難の10年でした。80年のモスクワ五輪は西側がボイコット。84年のロス五輪は東側がボイコット。スポーツと政治は関係ない、とはよく言われますが、現実は厳しいものでした。
ターナー氏は、オリンピックをやり直したかったのかもしれません。この大会にはアメリカの選手団もちゃんと参加してます。日本も柔道やバレーボールの代表チームが参加してます。ちなみにIOC(国際オリンピック委員会)もこの大会を支持していました。

とはいうものの、そこはやはりソ連。そこはかとなく、しかし明白な政治色が漂います。体育学校の生徒たちが動員されてのマスゲーム。急逝したサマンサ・スミスの代理で彼女の母親が登場し、ソ連のサマンサちゃんと呼ばれたカーチャ・ルイチョワが花束を渡します。そして観客席には社会主義国家の十八番「プラカードによる人文字」です。

この人文字、華やかで統制が取れてるだけではありません。いきなりパレードが中断し、スタジアムの照明が落とされると、描き出されたのは、広島に投下された原爆のキノコ雲……。突如として善と悪のせめぎあいが描かれます。

うーむ。原爆糾弾はわかるけど、ここでやることか?
空気を読まないのは奥崎謙三ぐらいかと思っていましたが、国家レベルでやっちまうあたり、ソ連はスゴイです。つーか、アメリカ政府もよく選手団を送ったものです。いや、知らなかったのか? 
この開会式の模様は世界中に中継され、20億人が見たとのことですが、どうやらその中に日本国民は含まれていなかった模様。アメリカも推して知るべしです。

で、ヒロシマ原爆ショー&ハルマゲドンが終わると、今度はいきなり米ソ友好ムード。アポロ・ソユーズ共同飛行の宇宙飛行士たちが登場し、空中ではアポロとソユーズに似せたパルーンが合体!
あ、これはちょっと見てみたかった。
アレクセイ・レオノフは将官用の夏季礼装が似合っているなあ。勲章ジャラジャラの軍人がスポーツのイベントに出てくるとかどうなのよ?と思う人がいるかもしれませんが、これがなければソ連じゃありません。

そんなこんなで幕を開けたグッドウィル・ゲームズですが、結果から言うとTBSは赤字だったそうです。しかしターナー氏は「「アメリカが毎年、軍備増強に費やしてる3000億ドルに比べたら取るに足らない金額である」と言ってのけたとか。ターナーさん、民主党支持だったのかしらん?

しかも、このグッドウィル・ゲームズ、1回で終わりじゃありませんでした。1990年にアメリカのシアトル。94年にはロシアのサンクト・ペテルブルク。98年にはニューヨーク。2001年にはオーストラリアのブリスベンで開かれてます。
しかし、2005年にアリゾナのフェニックスで予定されていた大会は中止。
タイムワーナーが積み重なる赤字に耐えきれず、降りたのでした。中継が3大ネットワークに乗らなかったことと(見られたのはTBSのケーブルに契約してる人だけ)、ブリスベン大会でオーストラリアの選手がメダルをバカスカ取ったことでアメリカの視聴者の関心が薄れたことが原因と言われています。
もしかして、この大会「無かったこと」にされてるんじゃ・・・・・・。


次は雰囲気を変えて、ノボローシスク市の大祖国戦争モニュメントなんぞを。
この街も「英雄都市」に指定されてますが、写真は反撃のきっかけとなった上陸地点に作られたモニュメントです。海からまさに兵士たちが上陸してくる様子がそのまま彫刻になっていて、こういうセンスはやっぱりすごいなあと思います。
ちなみに戦時下のノボローシスク市はナチス・ドイツ軍に占領され、市民は殺されるか、他の都市へ強制労働に狩りだされるかの二者択一でした。しかし、一世帯だけ手つかずで生き延びた家があるのだそうです。
その家の住人は、ドアに「チフス」と書いた木札を立てかけ、感染を恐れたドイツ兵は、その家にだけは入らなかったのだとか。
なんか、おとぎ話みたいな話です。ウルトラハッピーな絵本にしたら星空みゆきちゃんは読んでくれるかな?

最後はロシア語散歩からロシア語で表現される動物や鳥の鳴き声、あるいはオノマトペについてです。
ロシア語でスズメの鳴き声は「チック、チリク、チック・チリク」と表現するそうです。そしてシジュウカラは「シーニィ・ジェニ、シーニィ・ジェニ、」と鳴くのだとか。
これは「青い日」という意味になるそうです。シジュウカラはロシア語で「シニッツァ」。これは「シーニィ(青)」が変化した言葉と言われてるそうで、実際、絵に描かれる時は青く塗られることが多いとか。名前が鳴き声からきたのか、羽根の色からきたのかはわからないそうです。
一方、ヒバリは特定の鳴き声を擬態語に表現することはなく「ズヴェニット」と呼ばれるそう。これは「金属製の音を出す」という言い方になります。
また、雌のウズラは「ピーチ・パダーチ、ピーチ・パダーチ」。なんか日本語の「ピーチク・パーチク」を連想しますが、「飲む、出す。飲む、出す」という意味になるのだとか。なんか意味深な。
ツルは「クルルィ、クルルィ」、カッコウは「ク・クー、ク・クー」」と鳴くそうです。この辺は日本人にもなんとなくわかります。
ちなみにロシアの古い言い伝えでは「自分の寿命を知りたければ、カッコウに聞け」と言うそうです。カッコウが何回「ク・クー」と言ったかを数えればよいのだとか。

今回はこんなところで。
ではでは~。



2012年10月25日木曜日

今日のソ連邦 第16号 1986年8月15日 その2

さて、前回の続きです。
同じ号ですし、あまり間を空けるのもなんなので。

まずは表紙にもなっている美術教室の記事。5歳から12歳までの児童が200人ほど通っているとのことですが、なかなか見事な出来ばえの作品です。つーか、自分が8歳や9歳の時って、どんな絵を描いてたかなあ。

コンポジションという言葉がちらほら目につきますが、これは音楽や小説の構成と同じ意味で、ソ連・ロシアの絵画芸術でよく出てきます。教室では「構図」「絵画」「陶芸」「美術史」の4科目がありますが、建築家が先生ということで、「建築とのふれあい」が重視されているのが特長なのだとか。

なんだか堅苦しい教室に聞こえますが、対象となるのはごく普通の子供たちで、別にプロの芸術家や建築家を目指すものではないようです。あくまでも遊びの延長。ちなみに月謝とかの話は出てきません。

次の記事は、モスクワの演劇事情。ソ連の演劇というとチェーホフとかの定番が頭に浮かびますが、現代ソビエトの作品も当然あるわけです。
本誌では4つの劇場・劇団の芝居が紹介されてます。
写真はモスクワ芸術座の「銀婚式」という作品。中心人物は共産党幹部のワジノフとゴロシチャポフ。そして二人を出世させた国家的活動家のブイボルノフの3人です。

母の葬儀のためにモスクワから戻ってきたブイボルノフは、かつての部下たちの仕事ぶりを確かめようと思い立ちますが、そこで見たものは乱脈管理でメチャクチャになった地区の経済。穀物倉庫は空っぽで、決算書には架空のデータと数字が並んでいます。
さらにブイボルノフの旧友であるジャーナリストのポレタエフは、酒に溺れ、すさんだ生活を送っていました。彼はあやふやな嫌疑で刑務所に収監されていたのですが、そこにはワジノフとゴロシチャボフの暗躍がありました。ポレタエフはかねてから地方権力のデタラメぶりを批判しており、彼らにとって目の上のコブだったのです。

劇が進行するにつれ、このふたりが、ブイボルノフの名前を利用して、自分たちだけの独自の権力基盤を築いていたことが明らかになっていきます。
そしてクライマックス。
彼らの元へ、モスクワに戻ったブイボルノフが突如として職務を解任されたというニュースがもたらされます。それが「失脚」なのか、「昇進」なのか、劇では最後まで明らかにされません。
しかし、登場人物たちの行動スタイルと将来の計画は、ブイボルノフの失脚か、昇進かで、まったく違ってくるのです・・・。果たして?

次は、レーニン・コムソモール劇場の「良心の独裁」。
最近、売れ行きが芳しくない、とある青年向け新聞の編集会議が舞台の芝居。1920年代の新聞記事にあった「レーニン裁判(労働者たちが二つの異なる立場で議論する模擬裁判のこと)」を現代に再現しようとする試みの物語。

3本目はエルモロワ記念劇場の「話したまえ!」
フルシチョフのスターリン批判直後の、とある地区委員会が舞台のドラマ。権力にしがみつく老害に立ち向かう、若い党員の物語。タイトルの「話しなさい!」は、誰かにメモを渡されて、しどろもどろの労働者(搾乳婦の女性)に、新たに着任した党書記が言うセリフです。
「話しなさい! 話したいことがあるのでしょう? 話しなさい!」
さて、結果は?

最後は中央児童劇場の「おとしあな №46。 第2の成長」
ふたつの対立する中学生グループのお話。対立の原因は応援してるサッカーチームが違うというだけの他愛ないもの。しかし、ここに第3のグループ(党幹部の子弟たちで、特権階級)が加わり、悲劇が起こります。ハッピーエンドの鍵は一組の恋人。

どれもなかなか興味深いですが、今のロシアでは、ソビエト演劇ってどういう評価なんでしょうかね。

次の記事は、ソ連のアマチュア芸術家の話題。ここに紹介されてる草花は、すべて人工物。79歳のニコライ・コチン(右)が暇つぶしに始めた趣味です。

ちなみに中央の花の鮮やかな青は、KGBなどのソ連の治安機関のシンボルカラーとして有名です。西側の文献ではロイヤルブルーとかペールブルーと表現されていますが、正確には「ヤグルマギク色」なのです。それにしても、ロシアのお年寄りは風格ありすぎだ。

最後の記事はロシア語散歩から「クマをなぜ“蜂蜜食い”と呼ぶか?」です。
これ、大好きな話。

えーと、ロシア語でクマのことをメドベージ(Медведь)と言います。
これ本当は「蜂蜜を食う奴」という意味。現ロシア首相のメドベージェフさんの名前でもありますが、彼も、「熊おじさん」ではなく、本当は「蜂蜜大好きおじさん」なのです。そういえば大統領はプーさんだ。

ではなぜ、こう呼ぶようになったか?
ロシアでは熊は畏敬の対象でした。森の中で出会ったら、100パーセント助からないからです。だから彼らが森の中で、その名を口にすることは絶対にありませんでした。うっかり言ったら「呼んでしまう」からです。とはいえ、名無しというのも不都合です。そこでロシア人たちは「蜂蜜=мед(ミョード)を食べる奴」というニックネームをつけたのでした。

ちなみに、この習慣は森の外でも人々に染みついていました。おそらくロシアの子供たちは「いい子にしてないとメドベージに食べられるぞ」などと言われたに違いありません。それは都市でも変わらず・・・近代化しても変わらず・・・革命が起きても、ソ連が崩壊しても変わらず・・・。

気づいた時には「熊」という言葉は消滅していました。

今、ロシア語の辞書で「熊」を調べても「メドベージ」しか出てきません。知り合いのロシア人たちに聞いたことがありますが、彼らも「熊」という単語を知りません。「メドベージ」だけが残ったのです。

禁忌が消滅させた言葉。
わたしには、この上なく魅力的な物語に感じられます。

しかし! この話には続きがあります。
熊という単語は、本当に消滅してしまったのか? この単純な疑問に果敢に挑んだ言語学者がいたそうです。彼は文字通りロシアじゅうを歩き回り、そしてシベリアのド僻地で、ついにその単語が生き残っていたことを突き止めたのだそうです!

ただ、残念なことに、その肝心の単語がわかりません。ぐぬぬぬ・・・・。
確かにニュースになったそうなのですが、ロシアでも関心は低かったみたいです。使い慣れた言葉を今さら変えても……ということなんでしょうか。
わたしも、知りたいような知りたくないような・・・・。

今回はこんな感じで。
でわでわ~。



2012年10月19日金曜日

今日のソ連邦 第16号 1986年8月15日 その1

今日のソ連邦。今回はなにやらカラフルで楽しげな表紙ですが、この詳細は次へということで。あと、帯に書かれた「第12次 五ヶ年計画とソ連極東」や「ドン河畔のまちロストフ」の特集記事も、内容が地味なのでカットします。
今日のソ連邦という広報誌、表紙での扱いが中身に反映されるのかというと、必ずしもそういうわけでもないようです。

さて、今回まず目に飛び込んでくるのは、1985年からソ連が一方的に中止を宣言した「核実験モラトリアム」の記事。これはあらゆる種類の核爆発を中止し、く核廃絶への道筋をつけようという、ゴルバチョフ書記長の政策です。

当初は「アメリカが核実験をしない限り、ソ連も核実験はしない」という主張でしたが、アメリカはその後も核実験を続けました。ソ連はそんなアメリカの姿勢を非難するとともに、3回に渡ってモラトリアムを延長。核廃絶に真剣に取り組んでいる、という姿勢をアピールしたのです。

“ソ連は、兵器に頼らずに、平和を愛する手本を示して、他国の立場に影響を及ぼすために、あらゆるチャンスを生かそうという意図や善意を改めて発揮した”

もっともこの時、すでにソ連経済はガタガタで、核実験どころではありませんでした。ソ連は平和外交に転じることでアメリカにも軍縮を促し、相対的に戦力差を縮めようと考えていたわけです。

ところで、この記事にはもうひとつの側面があります。ページをめくって次に現れるのが、この年の4月に起きた「チェルノブイリ」関連の記事なのです。

本誌では事故の経緯やその後の対応が紹介されていますが、その前に、核実験モラトリアムの記事をもってくる構成にすることで、事故がもたらしたソ連へのマイナスイメージを弱めようという、編集意図が見て取れます。ついでに言うと、チェルノブイリの記事の次は、広島原爆に関する記事です。

ざっと見たところ、事実関係に関しては、今とさほどの差異は感じないという印象です。ソ連当局としては、事故はあくまでも「不幸な偶然」によるもので、技術に欠陥があるわけではない、と主張していることがわかります。興味深いのは、アメリカの原子力機関の研究員の証言を持ち出して、主張の補完をしている点。ほんの数ページ前ではアメリカを非難していたのに・・・。

では、ここで本誌が紹介しているソ連の当時の対応策を見てみます。

まず、原発周辺30㎞地帯からの人々の疎開計画が緊急立案された。実際には、この地域の人々に直接の脅威はなく、放射線計測値は毎時10-15ミリレントゲンであったものの、万一に備えて疎開させることが決定された。

日常生活では融通性が足りないといって、
しばしば辛辣に批判されていた組織中央集権制が、
この場合はモノを言った。

最短時間内に、2172台のバス、1786台のトラックが確保され、約4000人の運転手が動員された。疎開者の新しい土地での受け入れが組織され、ホテル、国民宿舎、サナトリウムが確保された。その結果、チェルノブイリから近いプリピャチ市の4万人の市民は、約3時間で疎開を完了した。

町や村からの疎開はもっと複雑だった。農民は春の農作業の盛りに村を去ることを望まなかった。それでも放射線の高い地帯に入っていた50の町村から、26,000人が疎開した。

新しい場所では転入者のために住居、3回の無料の食事が提供され、各人に200ルーブルの手当てが当てられた(当時のソ連では1ルーブル=1000円ぐらいの見当です)。

村では菜園用の土地が割り当てられた。疎開者の大多数は、最初の数日間で現地当局が提供した仕事に就いた。疎開した人々はだれも疎開のために1コペイカも支払わなかった。

しかし、非常事態によってもたらされた様々な要求を、すべての指導者が満たすことができたわけではなかった。結論は、事故と関連したすべての問題と同様、速やかに断固として下された。
ふたりの企業の指導者が解任され、ひとりは党から除名された。もうひとりは党の厳しい処分を受けた。確かに場所によっては足並みの乱れもあった。しかし、これらの手落ちは中央集権的指導部のおかげで直ちに正された。

一方、事故の収拾はどのように行われたのでしょう?
記事では「4号炉に対する攻撃」という表現で説明されています。

空には内部に鉛の板を張ったヘリコプターが飛び回り、地上では放射線防護機能を持つ装甲車が走り回っていた。原発から12㎞のところにヘリポートが設けられた。
毎日、日の明るい間じゅう、パイロットたちは事故を起こした原子炉の噴火口を塞ぐために200メートルの高度から、砂、大理石の粉末、白雲石、鉛、ホウ素の入った袋で原子炉を“爆撃”した。

いささか長い引用になってしまいました。
疑おうと思えば、いくらでも疑える記事ですが、信憑性については、今なら十分に検証可能だと思います。それにしても、有無を言わさぬ中央集権体制が、強制的に事態を収拾していくくだりは、思わず納得してしまうものがあります。ソ連共産党すごい。

加えて言うなら、ソ連は軍事超大国として、つねに核戦争を意識していました。
工業地帯や都市が核攻撃された場合、さらには原子力発電所そのものが核攻撃された場合の想定などが、なかば強迫観念のように整備されていたはずです。

チェルノブイリ事故の対応策は、その場でいきなり考え出されたものではなく、あらかじめ準備されていた核戦争のマニュアルを応用したと考えるべきでしょう。世の中、何が役に立つかわからない、という話ですが、元をたどっていくとなんとも複雑な気分です。


今回の更新は、いささか堅苦しい内容になってしまいましたが、
「その2」はもっと気楽なものにしますです。

でわでわ~。

2012年9月28日金曜日

今日のソ連邦 第14号 1986年7月15日

9月ももう終わりですが、なんとか2度目の更新。
いきなり宇宙飛行士が表紙ですが、今回は宇宙開発ネタではありません。詳しくは後段に讓るといたしまして、またアレコレとネタを拾い読み。

まずは「アジア平和の船」がナホトカを訪れたとの記事。
なんとなくピースボートを連想してしまいますが、代表の岩井章氏で調べると、小田実氏とか、ベ平連つながりの人たちが企画したもののようです。ソ連極東・北朝鮮・中国をめぐるというもので、230人という大所帯。

今日のソ連邦では、日本とのさまざまな交流が記事になるのですが、よほどの有名人か、要人でもからんでない限り、一般のマスコミが取り上げることはまずありませんでした。

対するソ連も、労働争議や平和団体のデモなどは、どんなに規模の小さなものでも報道していたそうで、当時のソ連の人たちの多くが「日本はデモと争議の国」と思っていたそうです。まぁ、広い意味でのイベントと思えば、当たらずとも遠からずか?


記事の集会の様子も楽しげで、どこかお祭のようです。
ハチマキ・腕章・横断幕の三点セットで「団結、がんばろう!」のシュプレヒコールは日本の労働組合の定番。


メガネのフレームとかに時代を感じてしまいます。写ってる人には悪いですが、雰囲気的に秋葉原で荒稼ぎしているカラシニコフによく似た名前のアイドル軍団のファンに見えなくもありません。

ちなみに塩とパンの歓迎はロシアの伝統。捧げられたら、ほんの少し口に入れて、お礼を言うのが礼儀なのです。

続く話題は、またしても第27回ソ連共産党大会ネタ。
トリアッチ市のボルガ自動車工場(VAZ)で働くバラショフさん一家の物語です。残念ながら一家の記事は割愛。
なかなか立派な工場の画像。レトロなゲームセンター。そして、どことなく野暮ったいマネキン。といっても、これは服を売ってるわけではなく、ホームメイドのお店。
モノ不足のソ連では、型紙の本が結構なベストセラーで、女性たちはオシャレのために腕を奮ったのです。

広い敷地に並んでるクルマは大衆車のジグリ、その輸出モデルのラーダ。在モスクワの日本人たちにも、安いジグリを愛用する人たちが少なくなかったとか。ただ、一度故障すると、困るのがスペアパーツ。これが大都市モスクワでも手に入らなくて、大変苦労したそう。

そこで編み出された裏技が、隣国フィンランド。ソ連はフィンランドにクルマを輸出していたのですが、それには一定数のスペアパーツも用意する必要があり、ソ連では手に入らないパーツも、フィンランドのディーラーにテレックスを打てば、すぐに調達できたそうです。

ちなみにキャプションにあるニーワとは「ラーダ・ニーヴァ」のこと。
右の広告は、今日のソ連邦ではなく、80年代の東京モーターショーで配布されていたものです。ニーヴァは当時のソ連車の中では例外的に評価が高く、今も日本で時々見かけます。

でもUAZやGAZとはちがい、軍とはあまり縁がないメーカーのようで。
ロイ・シャイダー主演の「対決」という映画があって、そこにソ連軍っぽく塗装したニーヴァが出てたのですが、これが似合わないなんてもんじゃありませんでした。
逆に考えると、ニーヴァはソ連の基準では垢抜けていたデザインだったのかもしれません。

次は表紙になっているキエフの電気溶接研究所の特集。

幹線石油パイプラインは溶接部に沿って壊れた。
割れ目は超音速の速さで広がる。その結果、この区間全体がだめになり、供給が途絶し、大きな損失が出る”
 
“容積3000立方メートルのタンクの溶接継手が壊れた。侵食環境……タンクにはアルカリが貯蔵されていた……に耐えられなかったのだ。その結果は貴重な原料が失われ、環境に損害を与え、大きな損失が出る”

音速を超えて亀裂が走るというのはすごいですが、これらの問題を解決したのが、キエフのE・O・バトン記念電気溶接研究所。表紙のは宇宙飛行士は真空チェンバーの中で宇宙空間用の溶接機を試験している様子です。
当時のソ連は電子機器をはじめ、工作機械や土木機械などを西側から輸入することができませんでした。そんな時に直面した問題を解決したのがこの研究所で、ゴルバチョフ書記長も視察しています。
溶接機K-700-1はガンダムのビームサーベルを開発しているところにしか見えないなぁ。


最後はヤクーチア特集からカラーページを。
札幌で開催されたヤクーチア展にあわせた企画です。

あとなにげに極地発電船がカッコいい。



























最後は第27回ソ連共産党大会をイメージしたロゴでも。
特に意味はありませんが、なんとなく。

それではまた~。


2012年9月14日金曜日

今日のソ連邦 第10号 1986年5月15日

ご無沙汰しております。
8月をまるごと空けてしまいました。といっても華麗に夏のバカンスを楽しんでいたわけではなく、バタバタしてるうちに夏カゼをこじらせて、ぐったりしていたという情けない話であります。涼しくなってきたらなんとか平常運転に戻したいと思いますが。

さて、今回の表紙はなんとも地味です。日ソの国旗を前に、おじさんふたりがにこやかに談笑。優雅なデザインのグラスと、これまた地味なデザインのミネラルウォーターの瓶が、いい対称になってます。

今回もなかなか盛り沢山なのですが、この時期のソ連にとって一番重要だったのは、なんといっても2月末から3月初旬にかけて開催された「第27回・ソ連共産党大会」( Имени XXVII съезда КПСС = イメーニ XXVII セズダ・カーペーエスエス) です。この号にも関連した記事が沢山出ています。


しかし、それとは別に突発事態も発生するわけで・・・・。それが4月14日から15日にかけて発生したアメリカ軍のリビア空爆でした。

85年12月にローマとウィーンの空港で爆弾テロが起き、86年3月には西ベルリンのディスコで爆弾テロが発生。これらをリビアの仕業と断定したアメリカが空母部隊を差し向けて、空爆に至ったというものです。

作戦はカダフィ大佐本人の殺害を目的としたものだと言われています。わずか15分間の攻撃で、レーザー誘導爆弾を含む300発の爆弾が投下され、48発のミサイルが発射されたとのこと。

当然、ソ連を始め、東側諸国は激しく反発したのですが、ゴルバチョフ書記長は政府声明と親書を出しただけで、米ソ関係が深刻に損なわれるようなことにはなりませんでした。そういえば「親書」なんて言葉も、ちょっと前に話題になってたなあ。

今、カダフィ大佐はこの世にいません。ソ連も崩壊し、ゴルバチョフ氏もただの人。しかし、アメリカとリビアの関係とはいうと・・・・。こんな時に、この記事を紹介することになろうとは、なんとも複雑な気分ですね。


さて、気を取り直して次の記事。表紙にも見出しが出ている「モスクワで近視が直った」という話題です。ちょっとグロ気味の写真が出てますが、どうかご勘弁を

視力矯正手術というと、今ではレーシックが主流みたいですが、この頃は「放射状角膜切開術」というものが行われていました。RK手術と言った方がわかりやすいかもしれません。


この道の第一人者がフョードロフ博士。
後にソ連の人民代議員になり、ソ連崩壊後は客船をまるごと病院にして世界各地で手術を行うという豪快なことをしていた人です。この人の技術は「つくば科学万博」でも紹介され、それに目をつけた日本の商社が「視力矯正手術ツアー」なるものを企画。表紙のおふたりは商社の社長さんとフョードロフ博士です。

今回の記事はその第一号となった人たちの話をレポート。
12日間のツアーは検査・手術費用を含めて91万5000円。対象年齢は18歳から40歳(40歳以上の人でも回復程度について合意すれば可能)まで。ただし、近視が急速に進行している人、角膜炎、白内障、網膜損傷がある人、その他、内科的な疾患、精神的な疾患がある人は不可となっています。特に糖尿病の人はダメと記事では念押ししてます。

手順は問診から始まり、検眼計を使って目の表面の湾曲度を計測。自動検眼計でジオプトリーを計測。さらに視野、角膜の厚さ、眼内圧などが検査されます。食事に制限はないが、当然、アルコールは禁止。それ以外は普通に観光を楽しむこともOK。手術本番は、フョードロフ博士が考案した「コンベヤー・システム」で実施されます。

この「コンベヤーシステム」というのは画像に出てる通り、ベッドに寝た患者が5人の外科医から順番に処置を受けるというもの。5人の医師は「切り込み箇所指定」「周辺部切り込み」「中心部切り込み」「刻み目の深さ調整」「洗浄と抗生物質注射」の5つの工程を役割分担しており、手術時間は10分程度で終わります。医師がヘッドフォンをつけていますが、実はこれ音楽を聞いているのだとか。

で、これでなんで視力が回復するのかというと、切り込みを施された部分が眼内圧によって曲がり、その結果、角膜を通過する光線の屈折率が変わって、像が網膜に正しく焦点を結ぶから、なのだそうです。よくもまぁ、考えたものです。

手術直後は、霧がかかったように見えるが、1~3週間で視力は回復し、矯正もされているとのこと(注:ここに書いた内容は、あくまでも当時の記事にもとづくものです) 
今では日本でも視力矯正手術は特に珍しくもないですが、最初はこんな感じだったんですねぇ。

以前、ウラジオストックに旅行にいった時、わたしを除く全員がメガネをかけていたため、ロシア人のガイドさんから「どうして手術しないの?」と聞かれたことがあります。その人も手術経験者。目をよーく見せてもらいましたが、光の加減で、かすかに切れこみの痕が目の表面に見えたことを覚えています。



次の記事は、カーチャ・ルイチョワという女の子の話題。前回「日本のサマンサちゃん」と呼ばれた女の子の記事を紹介しましたが、この子は「ソ連のサマンサちゃん」です。
その下は、原子力砕氷ラッシュ船の記事。ソ連の商船隊(モルフロート)も原子力船を運用しており、船体に原子核をデザインしたマーキングをしてあります。

ついでにコロメンスコエの歴史建造物の特集記事なんぞも。あと巻末にはロシア人の名前に関するコラムがあったので、内容をかいつまんで。


昔のロシアでは女の子には花の名前を、男の子には動物の名前をつけたそう。たとえば「レフ」は「ライオン」のこと。「ウォルフ(オオカミ)」も好まれた名前で、強そうだから病気や事故から守ってくれるだろうという願いが込められてるとか。目の大きな子は「グラース(目)」、あまり泣かない静かな赤ちゃんには「スミーレン(おとなしい」など、外見の印象が名前になることもあります。

子だくさんの家庭では日本と同様に「ペールヴィ(一郎)」、「フタローイ(二郎)」、「トレチャーク(三郎)」と名付けました。また、厄除けで悪魔や悪霊が無視してくれるように娘に「ニェクラチシーワ」とか「ウローダ」と名付けることもあったそうです。どちらも「醜い女」という意味だとか。

もちろん美しさを意味する立派な名前もあり、それは主に貴族の間でよくつけられました。「リュバーワ(愛しい)」、「ルイベチ(白鳥)」、「ナジェーヤ(希望)」「ラーダ(可愛い)」など。
男の子には「ボグダン(神によって授かった)」、「リュボミール(世界で愛される)」、「ウラジーミル(世界を支配する)」、「スヴャトスラーフ(聖なる栄光)」などがあります。

また、太陽崇拝は古代スラブ人も例外ではなく「ヤール(太陽)」から「ヤロスラーフ(太陽に栄光あれ)」、「ヤロポールク(太陽の戦士)」などがあり、「クラスノヤルスク(美しい太陽)」のように地名になったものもあります。

それ以外だとは、ロシア正教の聖人の名前がよく名付けられたそうですが、ソ連成立後は外国語起源のものも多く、日本人にとってポピュラーな「イワン」も、実際はドイツ人の「ヨハン」やスペイン人の「ファン」、チェコ人の「ヤン」やフランス人の「ジャン」、英米人の「ジョン」やグルジア人の「ワノ」などの同類で、起源をたどると、すべて古代フェニキア人の同じ名前に行き着くのだそうです。

では、また~。