2014年8月27日水曜日

今日のソ連邦  第1号 1988年1月1日

С Новым Годом!

親愛なる読者の皆さん、新年あけましておめでとうございます!

いや・・・だって仕方ないじゃないですか。1月1日号なんだもん。
というわけで久々の更新です。涼しくなったてホッとしてます。

さて、この号ではソロビヨフ大使の新年のごあいさつから始まり、ゴルバチョフ書記長の著書「ペレストロイカ(講談社 刊)」の序文へと続きます。ソ連の指導者の著作物が日本で出版されるのは、決して特別なことではないのですが、大抵はマイナーな出版社から少部数発行されるのが関の山。でも、ゴルバチョフ関連の書籍は1985年頃から続々と出版されており、当時の日本でもちょっとしたブームだったことが伺えます。

本誌の方に目を向けると、新年のカラフルなイラストがユーモラス。1988年は辰年だったので、今日のソ連邦でも大蛇(ドラゴン)の「ゴルィヌィチ」にご登場願ったというわけです。

3つ首の竜というと日本ではキングギドラを連想する人が多いですが、その原型はソ連映画の「イリヤ・ムウロメツ 巨竜と魔王征服(1956)」に登場した「ギヌチ」です。この時はモンゴルの王が火山の火口から呼び出すのですが、たぶんゴルィヌィチと同じで、ギヌチは字幕の誤りではないかと思われます。

もともとロシアに干支はなく、新年のお祝いも9月から3月にかけてという大雑把なものでした。これは農作業の始めと終わりにあたり、1699年にピョートル一世が1月1日を正式に新年とするまで、農民たちの間に広まっていたものです。ところが(日本からの影響とは明言されていませんが)本誌の記事ではソ連でも新年の干支にちなむお祝いが一種の遊びとして根付いたと書かれています。その年の番人である動物は、プレゼントのモチーフになったり、店頭のデコレーションに応用され、新年特有の「いつもと違ったカーニバル的な時間」を楽しむ材料となったそうです。

話をゴルィヌィチに戻すと、彼(?)は人語を解し、気まぐれな性格。正義と真実を求める主人公を打ち倒すことに情熱を燃やしています。口からは煙や炎を吐き、たとえ切り落としても首は何度も生えてきます。しかし、この“多重コピーシステム”の信頼性は極めて低く、農民の息子はいつもゴルィヌィチに勝利します。青年は美しい乙女をめとり、国王から領土を譲渡されたり、時には新しい玉座に座ることもあります。
ちなみにゴルィヌィチとは“ゴラー(山)の息子”という意味。ロシアでは敬称にあたる父称で呼ばれていることから、単なる邪悪な存在ではなく、英雄譚に不可欠な存在として敬意を払われていることが伺えます。
それにしてもソ連の人たちはウォークマン好きだなあ・・・。

続いての記事はモスクワ市ガガーリン区にある第1623幼稚園の話題。ネーミングがいかにもソ連です。ここには6台のパソコンが設置され、子供たちを対象にしたコンピュータ教育が行われています。もちろん幼稚園児なので、ゲーム感覚でパソコンに親しんでもらうのが目的。おそらくMSX規格だと思われますが、よく見ると手元はタッチパネルのようです。

さて、この年代のソ連の子供たちはマジで天使ですが、成長するにつれて問題も起こすようになります。次の記事は「ドネツクの二つの“奇跡”」という、ちょっとオカルトめいた記事。今なおゴタゴタが続く東ウクライナからのレポートです。

1987年の初め、ドネツク州エナキエボ市で不思議な出来事が起こります。記事で「サーシャ・K」と呼ばれる少年が、超能力を持っていると騒ぎになったのです。少年は13歳。彼が現れると、突然周囲にのものが燃えだすというのです。少年の自宅ではテーブルや椅子、カーペットなど火がつき、洗濯カゴの中の下着さえも燃えました。サーシャ・K自身の私物も燃え、毛皮の帽子は彼がかぶった状態で燃える始末。
やがて噂が広まり、人々は少年に近づくのを避けるようになります。しかも彼の父親はドネツク炭田の炭鉱夫。引火性ガスに気を使う父親の同僚たちは、彼と一緒に坑道に降りることを拒絶するまでになります。
とうとう両親はアパートを出て行かざるをえなくなり、サーシャ・Kとともに叔父さんの家に転がり込みます。しかし、そこでも発火現象が起こったのです。目撃者には消防士や民警も含まれていました。

この話を「ソ連人民代議員ソビエト機関誌イズベスチア」が取り上げると、ソ連全土でセンセーションが巻き起こります。他の新聞も追随し、記者たちは燃えたアパートの中を調べ、近隣住民にインタビューしました。すると発火現象だけでなく、電球やガラス瓶が破裂したり、家具が横転するなどの被害が出てることも判明。さらに焼け焦げた壁紙には「口にしたり記事に書くのがはばかられるような文字」が浮き上がっていることもわかりました。文面の筆跡はすべて同一で、いずれもサーシャ・Kの母親に対する脅迫だったと言います。

ついにサーシャ・Kは「放火マニア的性格による神経症的反応」と診断され、小児病院に送り込まれますが、騒ぎは収まりません。イズベスチア紙の記者たちは「社会主義工業新聞」や「労働組合機関誌トルード」から批判され、イズベスチア紙も負けずに反論。ポルターガイストやら地球外生命体やらを巻き込む大騒動になります。

しかし、オチはあっけないものでした。エナキエボ市の民警が科学捜査班を出動させ、あっさりトリックを見破ったのです。壁紙の罵詈雑言はサーシャ・Kの筆跡と断定されました。発火のトリックも、酸素と反応する可燃性の粉末を使ったものと断定されました。なによりも強い説得力を持つのは、この一連の現象がある日を境にピタリと止んだことです。それはサーシャ・Kの14歳の誕生日。ソ連では14歳になると不良行為に対する刑事責任が発生するのです。

二つ目の奇跡は透視能力を持つという女性の話。やはりドネツク州での話です。
37歳のユリア・ポロビヨワは10年前の土曜日の夜、雷に打たれて即死。死体は遺体安置所に収容されます。月曜日、司法解剖をしようと法医学者がロッカーを開けると、ユリアが飛び起きたというのです。それからでした。彼女が透視能力を持つようになったのは。彼女は医者に見放された患者を透視能力で診察し、的確なアドバイスをすると評判になりました。

ここで、またしてもイズベスチヤ紙が関わってきます。
ユリアの元を訪れた記者は彼女から「あなたの胃のあたりに淡赤色の液体が見える」と告げられ、ショックを受けます。彼は前の晩にツルコケモモのジュースを飲んでいたのです。しかし、この記事はまたもや批判にさらされます。
噛みついたのは、こちらも社会主義工業新聞。もしかしてイズベスチヤ紙と仲が悪いんかな?
記者は専門家の見解として「ジュースが3時間以上、胃にとどまることはない」との記事を掲載し、イズベスチア紙の記事はあまりにも不注意と酷評。さらにユリアの既往症の履歴を調べ上げ、そもそも10年前に落雷事故など起きていなかったことを突き止めます。ユリアの「診断」とやらも、実際には彼女はあれこれ理由を付けてはやっていないことが判明。二つの奇跡はあっけなく幕を閉じたのです。

ふっふっふ・・・。社会主義国家と言っても、可愛いものではありませんか。

次の記事は表紙にもなっている「画一性に反対する建築家」の記事。ゴルバチョフ書記長のペレストロイカを反映してか、この種の記事はどんどん増えています。
表紙はシベリアのクラスノヤルスク市で活躍する建築家オレグ・デミルハノフ。自らが設計したボリショイ・コンサートホールの舞台に立っています。左の画像はその外観です。ソ連建築の典型ですが、内外の照明などに独自の工夫が見られます。ただ、ソ連時代は慢性的な電力不足もあり、こうした公共施設がすべての照明を点灯することはとても珍しいことでした。だから現地に行って見てみると、貧相でガッカリということがままあります。

記事ではシベリアのアパートの設計が画一的であることに批判が向けられています。なにしろ同じデザインの建物が100棟も建つというのですから、なるほどウンザリする気持ちもわかります。デザインは1965年に「標準設計」として確立されたもので、半完成品のコンクリートパネルを組み合わせるプレハブ工法。建築家はその規格を採用すれば、あれこれ悩まずに建物を設計できます。なによりもシベリアの建築物はマイナス40度の寒さから住人を守らなければならず、違う設計をするたびに暖房効率などを再計算する手間が省けるというメリットがありました。しかし、これが行き過ぎると、ソ連のあらゆる都市が同じ風景になってしまうという状況が生れます。都市問題の典型的な事例はソ連でも例外ではなかったようです。

次の記事は画一性とは正反対。ソ連どころか日本でも稀な4世帯同居の大家族の話。グルジア共和国の中にあるアジャール自治共和国の首都バツミ近郊のマフビラウリ村に住むトゥルマニゼ一家のお話です。
家長カジムと妻のウミアン。3人の息子レワズ、シュクリ、テムリとその嫁、娘、息子たち。カジムと息子たちは全員、大工。おかげで家は自分たちで建てることができました。地区コルホーズの取り決めで、家の大きさには制限がありません。平屋でも3階建てでも希望通りに建てることができます。
ただし、建て坪は144平方メートル(12メートル×120メートル)を越えてはいけないません。トゥルマニゼ一家の家は3階建てで、述べ床面積は335平方メートルに及びます。ちなみに建設費用は12,000ルーブル。一家の年収の半分にあたります。専門の大工に頼まなくて済んだので、この値段で収まったというわけです。
写真では一家総出の食事風景。すべて家庭菜園で採れたもの。新鮮や野菜やチーズ、羊肉はグルジアの名物です。

次の話題は陶芸家アレクセイ・ソトーニコフ(83)の世界。「小さな塑像の大家」とか「陶器の記念像の創始者」と呼ばれる人民芸術家です。
クバン・コサックの首都クラスノダール市の美術・教育中等専門学校で学び、その後、モスクワ美術・工芸大学に進学。そこで彼は、あのウラジーミル・タトリンの弟子となります。
子ひつじ(1937)などは、時代的にそろそろアンティークの領域。でも戦勝記念の花瓶やボグダン・フメリニツキー像などは、スターリン時代のソ連らしく、芸術家といえども国家に奉仕する愛国者でなければならないことを痛感させられます。でもコルホーズの婚礼はどことなくブリューゲルの作品を連想したり。

しかし、偉大な芸術家や科学者であっても、突然、収容所送りになるのがスターリン時代。理論物理学者ランダウの記事は暗黒面を語っています。
ランダウは液体ヘリウムの超流動の権威で、超伝導の研究にも大きな足跡を残しています。ところが、この研究が佳境に入っていた1937年。彼は突然逮捕されたのでした。容疑は「ファシスト・ドイツのためのスパイ行為」。
彼の上司であり、親友であり、ソ連科学アカデミー物理問題研究所長でもあるピョートル・カピツァ(1978年ノーベル賞受賞)は、スターリンに手紙を送りますが、なしのつぶて。そこで彼はモロトフに手紙をしたためます。

この手紙が功を奏したのか、カピツァは内務人民委員部の“最高首脳部”に呼び出されます。が、そこで彼が見せられたのはランダウに関する分厚い調書。中身を見たカピツァは仰天します。どれもこれもナンセンスで馬鹿げた罪状であるにも関わらず、そのすべてにランダウは署名していたのです。
しかし、ここでカピツァは気づきます。
「これらすべてを1ページずつ論破していったら、奴らの思うつぼだ。
最後のページにたどり着くころにはランダウは処刑されてしまうだろう・・・」

カピツァはあくまでも自分の個人的な責任のもとにランダウを釈放するよう求め、それはなんとかうまくいったのでした。
どうしてランダウが逮捕されたのかについては諸説ありますが、敵が多かったのは事実なようです。もともと子供っぽい性格と言われ、冗談好き。学生時代は風刺詩やパロディを収録した手描きの同人誌を発行したりしていました。
こうした天真爛漫さは多くの人に愛されましたが、その一方で権威主義を嫌い、アカデミーの長老たちに不敬ととられる態度を取っていたようです。物理学者としての才能は疑うべくもなかったので、多少の馬鹿騒ぎが大目に見られていたことも、「彼が増長している」と思われる原因だったのではと、カピツァは回想しています。
とはいえ、釈放後のランダウは精力的に研究にいそしみ、超流動の理論を確立させます。1962年にはノーベル物理学賞を受賞。しかし、この時、ランダウには大きな不幸が襲っていました。同じ年の1月に交通事故に遭い、脳に深刻な障害を負っていたのです。カピツァと研究仲間たちはもちろん世界の物理学者が、ランダウの治療のための協力を惜しみませんでしたが、一度も現場に復帰することなく1968年にこの世を去ります。59歳の若さでした。


今回はこのぐらいにしましょうか。
暑さがぶり返すかもしれませんから、皆様、体調管理にはくれぐれもお気をつけください。
でわでわ~



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