2012年7月23日月曜日

今日のソ連邦 第4号 1986年2月15日 その2

「ソ連大使館ですが、津久田重吾さんをお願いします」

冷戦時代、こんな電話がかかってきたら“オレの人生もここまでだ”と覚悟を決めなきゃいけない気分になったと思いますが、これは、そんなことが本当に起こった女の子の話。

てなわけで前回の続きです。
福田愛子さんはゴルバチョフ書記長に手紙を送った女の子。で、返事が届き、記念品が贈呈されたという記事です。記事のタイトルにある「サマンサちゃん」とは、アメリカ人の女の子「サマンサ・スミス」のこと。
彼女も当時のアンドロポフ書記長に手紙を送り、やはり返事を受け取ります。(ちょっと調べてみたのですが、彼女はそのわずか三年後に飛行機事故で亡くなっております。合掌)

さて、日本の女の子がサマンサ・スミスを意識したのかどうかは確認する術がありませんが、人生の方向性を決めたという点では同じだったようです。
ソ連崩壊後、来日したゴルバチョフ氏と初体面を果たし、その後はウラジオストクの国立極東大学に留学。帰国後は北海道の小樽市でロシア語通訳の仕事に就き、現在は札幌市で子育てに専念しているとのこと。人に歴史ありだなぁ。


次は「バラコボ原発を建設する人々」という記事。
まずは作業現場でリーダーシップを発揮する共産党員「ニコライ・デルカチ」のお話です。
この人、ソ連最高会議幹部会から「社会主義労働英雄」の称号を授与されているというから筋金入りです。
彼は現場の作業員たちを鼓舞し、各セクションの責任者と話し合い、工程表を見直して効率化を図り、バラコボ原発をかつてないスピードで建設していきます。


もうひとりはアメリカの原発建設現場の視察に送り出されたアレクサンドル・マクサコフという若手技師のお話。
“米国で見たものは、別にマクサコフを驚かさなかった。
発見もなかった。しかし、くやしさを感じたことはあった。
リードできるところで、米国人にひけをとっている場合がままあった”

いや、驚きや発見あってこそのくやしさだとは思いますが。
技術屋の意地とプライドが伝わってきますね。実際、彼は帰国後、アメリカの2倍の速度で原発を完成させると息巻くのです。そのための戦略的な方針では、いたずらに作業員を増やしたり、作業工程を切り詰めたりするのではなく、まず労働者の街を作り、そこと建設現場を結ぶ街道を整備するという作戦に出ます。


“良い住宅条件、児童施設、休息基地、立派な予防病院、スポーツ学校…
建設場の食堂、食料品店、日用点-
これらは皆、総攻撃用の信頼できる後方基地である”

その結果、バラコボ原発では、原子炉直下の基礎スラブを120時間で完成させ、マクサコフは4基の発電ユニットを同時に建設するという計画をブチあげるのでした。なんか、すごいぞー。

バラコボ原発・第一発電ユニットの据えつけ。
巨大な構造物が吊り上げられていますが、
下の作業員が誰も見ていないのがちょっと不安。
発電所の党活動家の会議。
労働現場の共産党集会の典型的な光景です。
ここで原発建設の緊急の問題が討議されるとのこと。



ところで、このパラコボ原発。1985年6月27日の1号機の立ち上げ時に、圧力逃し弁が意図せず開き、300度の蒸気が作業区域に流れ込んで、14人の職員が死亡するという事故を起こしています。理由はヒューマンエラー。それも「未熟と軽率が原因」だそうで。
うーむ……写真に写ってる人たちが今も無事だといいのですが。

最後はダゲスタン自治共和国の人民芸術家の紹介。
「女性工匠マゴメドワの華麗の金属工芸」です。


ダゲスタン自治共和国は、チェチェンやグルジア、アゼルバイジャンなどと隣接する山国。今ではダゲスタン共和国となり、ロシア連邦の構成国のひとつです。たまにニュースに出てきますが、例によってイスラム原理主義だの自爆テロだのと、ロクな話題だったためしがありません。

山裾にへばりつくような特徴的な村の風景とか、実際に訪れたらとてもステキな場所だと思うのですが。
このクバチ村、現在のダゲスタン共和国のホームページでも金属工芸の有名な村として紹介されています。

でも外務省の渡航情報じゃ 「渡航の延期をお勧めします。」(既に滞在中の方は,退避手段等につきあらかじめ検討してください。) になってるのよねぇ・・・・。



今回はこんなところで。
でわでわ~。





2012年7月12日木曜日

今日のソ連邦 第4号 1986年2月15日 その1

やってしまいました。
なにかおかしいと思っていたのです。
1986年のバックナンバーが1冊だけとかヘンだぞ・・・と。

案の定、本棚を調べてみたら、わらわら出てきました。というわけで、時計の針をいささか戻すことをお許しください。
てなわけで、「今日のソ連邦」の第4号です。

表紙を飾るのは安倍外務大臣(当時)とソ連のシェワルナゼ外務大臣。安倍さんは、えーと、何年か前に首相をやっていた人の父親です。
シェワルナゼさんは、ゴルバチョフ書記長に抜擢された改革派の人。グルジア人で、モスクワ入りする前には、グルジア共和国KGB議長をやっていた人です。ゴルバチョフさんは、アンドロポフ書記長(元KGB議長)と関係が深かったですから、その流れでの抜擢でしょうね。
しかし、シェワルナゼ氏は、一向に成果の上がらないペレストロイカに失望し、後に「独裁が近づいている」という言葉を残して、モスクワを去ることになります。それから間もなくクーデターが起きて、ソ連崩壊の幕が上がるのでした。
もちろん、この写真が撮影された時点で、そんなことを予測できた人間は地球上のどこにもいなかったでしょうけど。

ところで、このシェワルナゼさん。眼光鋭い風貌から、油断のならない人物というイメージがありますが、実際にはソフトな物腰で、ソ連のイメージアップに貢献した重要な人物です。
なにしろ前任者は、年がら年中しかめっ面で、ノー(ニエット)としか言わないことから「ミスター・ニエット」の綽名がついたグロムイコ氏です。
率直な物言いのシェワルナゼさんに、西側は「やっと、まともに話ができる政治家が現れた」と期待を寄せたわけです。

東京について早々、屋外でスピーチするというのも異例で、この辺は当時のマスコミなどでも驚きをもって報道されていたようです。
わずか4日間の滞在でしたが、日本政府の首脳と会談するだけでなく、日本庭園を訪れたり、ソニーのショールームや日産の座間工場を見学したり、広島&長崎の市長と会談したり、と大忙し。
日本を離れる直前に、日本記者クラブで記者会見するなど、従来のソ連の指導部からは考えられない行動力を見せたのでした。


さて、うっかりパックナンバーをすっ飛ばしてしまったわけですが、偶然にもこの号でもチェスのカスパロフの記事が載っています。前回は世界タイトル防衛の話でしたが、今回は初の世界チャンピオンになったという記事。ソ連の若きヒーローです。
相手は同じソ連のアナトリー・カルポフ。彼は10年以上も世界チャンピオンの座に君臨していた人物で、それを22歳の若者が破ったわけですから、まぁ、当時のソ連市民の興奮ぶりがわかります。

それはさておき、カスパロフの対戦相手のカルポフには、なかなか奥深い裏話があります。
カルポフの長年の対戦相手に、ヴィクトル・コルチノイなる人物がいました。ユダヤ人です。しかも、ソ連から亡命したロシア系ユダヤ人。
当時のソ連では、亡命した者を「裏切り者」と呼んでいました。その上、ユダヤ人なのですから、話はややこしいです。そんな両者が真っ向からぶつかるのがチェスの試合だったのです。
しかも、当時のコルチノイは、自分自身は亡命したものの、妻子はソ連に置いたままという心理的ハンデがありました。
ソ連当局は、なにがなんでもカルポフを勝たせるべく、KGBの超能力者部隊(!)を、ひそかに観客席に配置し、コルチノフの集中力を妨げている、などというトンデモ話までがささやかれていたのでした。(後々、説明することになると思いますが、ソ連はなにげにオカルト大国です)。


まぁ、結果的にコルチノフは負けてしまうわけですが。ユダヤ人とロシア人の関係は、1冊や2冊の本を読んだぐらいでは太刀打ちできない、ややこしい背景があります。

そんな中から勝ち抜けた若いカスパロフは、しがらみを断ち切る新しい世代として期待されていたのかもしれません。

今回は、こんなところで。
でわでわ~