2012年11月23日金曜日

今日のソ連邦 第17号 1986年9月1日

なんとか今月の更新にこぎつけました。
表紙は鳥人セルゲイ・ブブカ。今はウクライナ国籍ですが、当時はもちろんソ連代表です。
今回は1986年に開催された第一回グッドウィル・ゲームズの特集が組まれています。グッドウィル・ゲームズを直訳すると親善試合。80ヶ国の3000人がモスクワなどに集まり、夏季大会と冬季大会の2回に分けてアスリートたちが競い合ったとのこと。
メイン会場のモスクワ・レーニン中央スタジアムでは、聖火みたいな炎が燃え盛り、華やかなパレードで開会が宣言されました。うーん、なんだかオリンピックみたいな?

発案者はTBS会長のテッド・ターナー氏。CNNの創業者でもある大富豪です。で、TBSは日本のテレビ局ではなくて、ターナー・ブロードキャスティング・システムというケーブル放送局。後にタイム・ワーナーと合併します。

話を戻しますと、1980年代はオリンピック受難の10年でした。80年のモスクワ五輪は西側がボイコット。84年のロス五輪は東側がボイコット。スポーツと政治は関係ない、とはよく言われますが、現実は厳しいものでした。
ターナー氏は、オリンピックをやり直したかったのかもしれません。この大会にはアメリカの選手団もちゃんと参加してます。日本も柔道やバレーボールの代表チームが参加してます。ちなみにIOC(国際オリンピック委員会)もこの大会を支持していました。

とはいうものの、そこはやはりソ連。そこはかとなく、しかし明白な政治色が漂います。体育学校の生徒たちが動員されてのマスゲーム。急逝したサマンサ・スミスの代理で彼女の母親が登場し、ソ連のサマンサちゃんと呼ばれたカーチャ・ルイチョワが花束を渡します。そして観客席には社会主義国家の十八番「プラカードによる人文字」です。

この人文字、華やかで統制が取れてるだけではありません。いきなりパレードが中断し、スタジアムの照明が落とされると、描き出されたのは、広島に投下された原爆のキノコ雲……。突如として善と悪のせめぎあいが描かれます。

うーむ。原爆糾弾はわかるけど、ここでやることか?
空気を読まないのは奥崎謙三ぐらいかと思っていましたが、国家レベルでやっちまうあたり、ソ連はスゴイです。つーか、アメリカ政府もよく選手団を送ったものです。いや、知らなかったのか? 
この開会式の模様は世界中に中継され、20億人が見たとのことですが、どうやらその中に日本国民は含まれていなかった模様。アメリカも推して知るべしです。

で、ヒロシマ原爆ショー&ハルマゲドンが終わると、今度はいきなり米ソ友好ムード。アポロ・ソユーズ共同飛行の宇宙飛行士たちが登場し、空中ではアポロとソユーズに似せたパルーンが合体!
あ、これはちょっと見てみたかった。
アレクセイ・レオノフは将官用の夏季礼装が似合っているなあ。勲章ジャラジャラの軍人がスポーツのイベントに出てくるとかどうなのよ?と思う人がいるかもしれませんが、これがなければソ連じゃありません。

そんなこんなで幕を開けたグッドウィル・ゲームズですが、結果から言うとTBSは赤字だったそうです。しかしターナー氏は「「アメリカが毎年、軍備増強に費やしてる3000億ドルに比べたら取るに足らない金額である」と言ってのけたとか。ターナーさん、民主党支持だったのかしらん?

しかも、このグッドウィル・ゲームズ、1回で終わりじゃありませんでした。1990年にアメリカのシアトル。94年にはロシアのサンクト・ペテルブルク。98年にはニューヨーク。2001年にはオーストラリアのブリスベンで開かれてます。
しかし、2005年にアリゾナのフェニックスで予定されていた大会は中止。
タイムワーナーが積み重なる赤字に耐えきれず、降りたのでした。中継が3大ネットワークに乗らなかったことと(見られたのはTBSのケーブルに契約してる人だけ)、ブリスベン大会でオーストラリアの選手がメダルをバカスカ取ったことでアメリカの視聴者の関心が薄れたことが原因と言われています。
もしかして、この大会「無かったこと」にされてるんじゃ・・・・・・。


次は雰囲気を変えて、ノボローシスク市の大祖国戦争モニュメントなんぞを。
この街も「英雄都市」に指定されてますが、写真は反撃のきっかけとなった上陸地点に作られたモニュメントです。海からまさに兵士たちが上陸してくる様子がそのまま彫刻になっていて、こういうセンスはやっぱりすごいなあと思います。
ちなみに戦時下のノボローシスク市はナチス・ドイツ軍に占領され、市民は殺されるか、他の都市へ強制労働に狩りだされるかの二者択一でした。しかし、一世帯だけ手つかずで生き延びた家があるのだそうです。
その家の住人は、ドアに「チフス」と書いた木札を立てかけ、感染を恐れたドイツ兵は、その家にだけは入らなかったのだとか。
なんか、おとぎ話みたいな話です。ウルトラハッピーな絵本にしたら星空みゆきちゃんは読んでくれるかな?

最後はロシア語散歩からロシア語で表現される動物や鳥の鳴き声、あるいはオノマトペについてです。
ロシア語でスズメの鳴き声は「チック、チリク、チック・チリク」と表現するそうです。そしてシジュウカラは「シーニィ・ジェニ、シーニィ・ジェニ、」と鳴くのだとか。
これは「青い日」という意味になるそうです。シジュウカラはロシア語で「シニッツァ」。これは「シーニィ(青)」が変化した言葉と言われてるそうで、実際、絵に描かれる時は青く塗られることが多いとか。名前が鳴き声からきたのか、羽根の色からきたのかはわからないそうです。
一方、ヒバリは特定の鳴き声を擬態語に表現することはなく「ズヴェニット」と呼ばれるそう。これは「金属製の音を出す」という言い方になります。
また、雌のウズラは「ピーチ・パダーチ、ピーチ・パダーチ」。なんか日本語の「ピーチク・パーチク」を連想しますが、「飲む、出す。飲む、出す」という意味になるのだとか。なんか意味深な。
ツルは「クルルィ、クルルィ」、カッコウは「ク・クー、ク・クー」」と鳴くそうです。この辺は日本人にもなんとなくわかります。
ちなみにロシアの古い言い伝えでは「自分の寿命を知りたければ、カッコウに聞け」と言うそうです。カッコウが何回「ク・クー」と言ったかを数えればよいのだとか。

今回はこんなところで。
ではでは~。



2012年10月25日木曜日

今日のソ連邦 第16号 1986年8月15日 その2

さて、前回の続きです。
同じ号ですし、あまり間を空けるのもなんなので。

まずは表紙にもなっている美術教室の記事。5歳から12歳までの児童が200人ほど通っているとのことですが、なかなか見事な出来ばえの作品です。つーか、自分が8歳や9歳の時って、どんな絵を描いてたかなあ。

コンポジションという言葉がちらほら目につきますが、これは音楽や小説の構成と同じ意味で、ソ連・ロシアの絵画芸術でよく出てきます。教室では「構図」「絵画」「陶芸」「美術史」の4科目がありますが、建築家が先生ということで、「建築とのふれあい」が重視されているのが特長なのだとか。

なんだか堅苦しい教室に聞こえますが、対象となるのはごく普通の子供たちで、別にプロの芸術家や建築家を目指すものではないようです。あくまでも遊びの延長。ちなみに月謝とかの話は出てきません。

次の記事は、モスクワの演劇事情。ソ連の演劇というとチェーホフとかの定番が頭に浮かびますが、現代ソビエトの作品も当然あるわけです。
本誌では4つの劇場・劇団の芝居が紹介されてます。
写真はモスクワ芸術座の「銀婚式」という作品。中心人物は共産党幹部のワジノフとゴロシチャポフ。そして二人を出世させた国家的活動家のブイボルノフの3人です。

母の葬儀のためにモスクワから戻ってきたブイボルノフは、かつての部下たちの仕事ぶりを確かめようと思い立ちますが、そこで見たものは乱脈管理でメチャクチャになった地区の経済。穀物倉庫は空っぽで、決算書には架空のデータと数字が並んでいます。
さらにブイボルノフの旧友であるジャーナリストのポレタエフは、酒に溺れ、すさんだ生活を送っていました。彼はあやふやな嫌疑で刑務所に収監されていたのですが、そこにはワジノフとゴロシチャボフの暗躍がありました。ポレタエフはかねてから地方権力のデタラメぶりを批判しており、彼らにとって目の上のコブだったのです。

劇が進行するにつれ、このふたりが、ブイボルノフの名前を利用して、自分たちだけの独自の権力基盤を築いていたことが明らかになっていきます。
そしてクライマックス。
彼らの元へ、モスクワに戻ったブイボルノフが突如として職務を解任されたというニュースがもたらされます。それが「失脚」なのか、「昇進」なのか、劇では最後まで明らかにされません。
しかし、登場人物たちの行動スタイルと将来の計画は、ブイボルノフの失脚か、昇進かで、まったく違ってくるのです・・・。果たして?

次は、レーニン・コムソモール劇場の「良心の独裁」。
最近、売れ行きが芳しくない、とある青年向け新聞の編集会議が舞台の芝居。1920年代の新聞記事にあった「レーニン裁判(労働者たちが二つの異なる立場で議論する模擬裁判のこと)」を現代に再現しようとする試みの物語。

3本目はエルモロワ記念劇場の「話したまえ!」
フルシチョフのスターリン批判直後の、とある地区委員会が舞台のドラマ。権力にしがみつく老害に立ち向かう、若い党員の物語。タイトルの「話しなさい!」は、誰かにメモを渡されて、しどろもどろの労働者(搾乳婦の女性)に、新たに着任した党書記が言うセリフです。
「話しなさい! 話したいことがあるのでしょう? 話しなさい!」
さて、結果は?

最後は中央児童劇場の「おとしあな №46。 第2の成長」
ふたつの対立する中学生グループのお話。対立の原因は応援してるサッカーチームが違うというだけの他愛ないもの。しかし、ここに第3のグループ(党幹部の子弟たちで、特権階級)が加わり、悲劇が起こります。ハッピーエンドの鍵は一組の恋人。

どれもなかなか興味深いですが、今のロシアでは、ソビエト演劇ってどういう評価なんでしょうかね。

次の記事は、ソ連のアマチュア芸術家の話題。ここに紹介されてる草花は、すべて人工物。79歳のニコライ・コチン(右)が暇つぶしに始めた趣味です。

ちなみに中央の花の鮮やかな青は、KGBなどのソ連の治安機関のシンボルカラーとして有名です。西側の文献ではロイヤルブルーとかペールブルーと表現されていますが、正確には「ヤグルマギク色」なのです。それにしても、ロシアのお年寄りは風格ありすぎだ。

最後の記事はロシア語散歩から「クマをなぜ“蜂蜜食い”と呼ぶか?」です。
これ、大好きな話。

えーと、ロシア語でクマのことをメドベージ(Медведь)と言います。
これ本当は「蜂蜜を食う奴」という意味。現ロシア首相のメドベージェフさんの名前でもありますが、彼も、「熊おじさん」ではなく、本当は「蜂蜜大好きおじさん」なのです。そういえば大統領はプーさんだ。

ではなぜ、こう呼ぶようになったか?
ロシアでは熊は畏敬の対象でした。森の中で出会ったら、100パーセント助からないからです。だから彼らが森の中で、その名を口にすることは絶対にありませんでした。うっかり言ったら「呼んでしまう」からです。とはいえ、名無しというのも不都合です。そこでロシア人たちは「蜂蜜=мед(ミョード)を食べる奴」というニックネームをつけたのでした。

ちなみに、この習慣は森の外でも人々に染みついていました。おそらくロシアの子供たちは「いい子にしてないとメドベージに食べられるぞ」などと言われたに違いありません。それは都市でも変わらず・・・近代化しても変わらず・・・革命が起きても、ソ連が崩壊しても変わらず・・・。

気づいた時には「熊」という言葉は消滅していました。

今、ロシア語の辞書で「熊」を調べても「メドベージ」しか出てきません。知り合いのロシア人たちに聞いたことがありますが、彼らも「熊」という単語を知りません。「メドベージ」だけが残ったのです。

禁忌が消滅させた言葉。
わたしには、この上なく魅力的な物語に感じられます。

しかし! この話には続きがあります。
熊という単語は、本当に消滅してしまったのか? この単純な疑問に果敢に挑んだ言語学者がいたそうです。彼は文字通りロシアじゅうを歩き回り、そしてシベリアのド僻地で、ついにその単語が生き残っていたことを突き止めたのだそうです!

ただ、残念なことに、その肝心の単語がわかりません。ぐぬぬぬ・・・・。
確かにニュースになったそうなのですが、ロシアでも関心は低かったみたいです。使い慣れた言葉を今さら変えても……ということなんでしょうか。
わたしも、知りたいような知りたくないような・・・・。

今回はこんな感じで。
でわでわ~。



2012年10月19日金曜日

今日のソ連邦 第16号 1986年8月15日 その1

今日のソ連邦。今回はなにやらカラフルで楽しげな表紙ですが、この詳細は次へということで。あと、帯に書かれた「第12次 五ヶ年計画とソ連極東」や「ドン河畔のまちロストフ」の特集記事も、内容が地味なのでカットします。
今日のソ連邦という広報誌、表紙での扱いが中身に反映されるのかというと、必ずしもそういうわけでもないようです。

さて、今回まず目に飛び込んでくるのは、1985年からソ連が一方的に中止を宣言した「核実験モラトリアム」の記事。これはあらゆる種類の核爆発を中止し、く核廃絶への道筋をつけようという、ゴルバチョフ書記長の政策です。

当初は「アメリカが核実験をしない限り、ソ連も核実験はしない」という主張でしたが、アメリカはその後も核実験を続けました。ソ連はそんなアメリカの姿勢を非難するとともに、3回に渡ってモラトリアムを延長。核廃絶に真剣に取り組んでいる、という姿勢をアピールしたのです。

“ソ連は、兵器に頼らずに、平和を愛する手本を示して、他国の立場に影響を及ぼすために、あらゆるチャンスを生かそうという意図や善意を改めて発揮した”

もっともこの時、すでにソ連経済はガタガタで、核実験どころではありませんでした。ソ連は平和外交に転じることでアメリカにも軍縮を促し、相対的に戦力差を縮めようと考えていたわけです。

ところで、この記事にはもうひとつの側面があります。ページをめくって次に現れるのが、この年の4月に起きた「チェルノブイリ」関連の記事なのです。

本誌では事故の経緯やその後の対応が紹介されていますが、その前に、核実験モラトリアムの記事をもってくる構成にすることで、事故がもたらしたソ連へのマイナスイメージを弱めようという、編集意図が見て取れます。ついでに言うと、チェルノブイリの記事の次は、広島原爆に関する記事です。

ざっと見たところ、事実関係に関しては、今とさほどの差異は感じないという印象です。ソ連当局としては、事故はあくまでも「不幸な偶然」によるもので、技術に欠陥があるわけではない、と主張していることがわかります。興味深いのは、アメリカの原子力機関の研究員の証言を持ち出して、主張の補完をしている点。ほんの数ページ前ではアメリカを非難していたのに・・・。

では、ここで本誌が紹介しているソ連の当時の対応策を見てみます。

まず、原発周辺30㎞地帯からの人々の疎開計画が緊急立案された。実際には、この地域の人々に直接の脅威はなく、放射線計測値は毎時10-15ミリレントゲンであったものの、万一に備えて疎開させることが決定された。

日常生活では融通性が足りないといって、
しばしば辛辣に批判されていた組織中央集権制が、
この場合はモノを言った。

最短時間内に、2172台のバス、1786台のトラックが確保され、約4000人の運転手が動員された。疎開者の新しい土地での受け入れが組織され、ホテル、国民宿舎、サナトリウムが確保された。その結果、チェルノブイリから近いプリピャチ市の4万人の市民は、約3時間で疎開を完了した。

町や村からの疎開はもっと複雑だった。農民は春の農作業の盛りに村を去ることを望まなかった。それでも放射線の高い地帯に入っていた50の町村から、26,000人が疎開した。

新しい場所では転入者のために住居、3回の無料の食事が提供され、各人に200ルーブルの手当てが当てられた(当時のソ連では1ルーブル=1000円ぐらいの見当です)。

村では菜園用の土地が割り当てられた。疎開者の大多数は、最初の数日間で現地当局が提供した仕事に就いた。疎開した人々はだれも疎開のために1コペイカも支払わなかった。

しかし、非常事態によってもたらされた様々な要求を、すべての指導者が満たすことができたわけではなかった。結論は、事故と関連したすべての問題と同様、速やかに断固として下された。
ふたりの企業の指導者が解任され、ひとりは党から除名された。もうひとりは党の厳しい処分を受けた。確かに場所によっては足並みの乱れもあった。しかし、これらの手落ちは中央集権的指導部のおかげで直ちに正された。

一方、事故の収拾はどのように行われたのでしょう?
記事では「4号炉に対する攻撃」という表現で説明されています。

空には内部に鉛の板を張ったヘリコプターが飛び回り、地上では放射線防護機能を持つ装甲車が走り回っていた。原発から12㎞のところにヘリポートが設けられた。
毎日、日の明るい間じゅう、パイロットたちは事故を起こした原子炉の噴火口を塞ぐために200メートルの高度から、砂、大理石の粉末、白雲石、鉛、ホウ素の入った袋で原子炉を“爆撃”した。

いささか長い引用になってしまいました。
疑おうと思えば、いくらでも疑える記事ですが、信憑性については、今なら十分に検証可能だと思います。それにしても、有無を言わさぬ中央集権体制が、強制的に事態を収拾していくくだりは、思わず納得してしまうものがあります。ソ連共産党すごい。

加えて言うなら、ソ連は軍事超大国として、つねに核戦争を意識していました。
工業地帯や都市が核攻撃された場合、さらには原子力発電所そのものが核攻撃された場合の想定などが、なかば強迫観念のように整備されていたはずです。

チェルノブイリ事故の対応策は、その場でいきなり考え出されたものではなく、あらかじめ準備されていた核戦争のマニュアルを応用したと考えるべきでしょう。世の中、何が役に立つかわからない、という話ですが、元をたどっていくとなんとも複雑な気分です。


今回の更新は、いささか堅苦しい内容になってしまいましたが、
「その2」はもっと気楽なものにしますです。

でわでわ~。

2012年9月28日金曜日

今日のソ連邦 第14号 1986年7月15日

9月ももう終わりですが、なんとか2度目の更新。
いきなり宇宙飛行士が表紙ですが、今回は宇宙開発ネタではありません。詳しくは後段に讓るといたしまして、またアレコレとネタを拾い読み。

まずは「アジア平和の船」がナホトカを訪れたとの記事。
なんとなくピースボートを連想してしまいますが、代表の岩井章氏で調べると、小田実氏とか、ベ平連つながりの人たちが企画したもののようです。ソ連極東・北朝鮮・中国をめぐるというもので、230人という大所帯。

今日のソ連邦では、日本とのさまざまな交流が記事になるのですが、よほどの有名人か、要人でもからんでない限り、一般のマスコミが取り上げることはまずありませんでした。

対するソ連も、労働争議や平和団体のデモなどは、どんなに規模の小さなものでも報道していたそうで、当時のソ連の人たちの多くが「日本はデモと争議の国」と思っていたそうです。まぁ、広い意味でのイベントと思えば、当たらずとも遠からずか?


記事の集会の様子も楽しげで、どこかお祭のようです。
ハチマキ・腕章・横断幕の三点セットで「団結、がんばろう!」のシュプレヒコールは日本の労働組合の定番。


メガネのフレームとかに時代を感じてしまいます。写ってる人には悪いですが、雰囲気的に秋葉原で荒稼ぎしているカラシニコフによく似た名前のアイドル軍団のファンに見えなくもありません。

ちなみに塩とパンの歓迎はロシアの伝統。捧げられたら、ほんの少し口に入れて、お礼を言うのが礼儀なのです。

続く話題は、またしても第27回ソ連共産党大会ネタ。
トリアッチ市のボルガ自動車工場(VAZ)で働くバラショフさん一家の物語です。残念ながら一家の記事は割愛。
なかなか立派な工場の画像。レトロなゲームセンター。そして、どことなく野暮ったいマネキン。といっても、これは服を売ってるわけではなく、ホームメイドのお店。
モノ不足のソ連では、型紙の本が結構なベストセラーで、女性たちはオシャレのために腕を奮ったのです。

広い敷地に並んでるクルマは大衆車のジグリ、その輸出モデルのラーダ。在モスクワの日本人たちにも、安いジグリを愛用する人たちが少なくなかったとか。ただ、一度故障すると、困るのがスペアパーツ。これが大都市モスクワでも手に入らなくて、大変苦労したそう。

そこで編み出された裏技が、隣国フィンランド。ソ連はフィンランドにクルマを輸出していたのですが、それには一定数のスペアパーツも用意する必要があり、ソ連では手に入らないパーツも、フィンランドのディーラーにテレックスを打てば、すぐに調達できたそうです。

ちなみにキャプションにあるニーワとは「ラーダ・ニーヴァ」のこと。
右の広告は、今日のソ連邦ではなく、80年代の東京モーターショーで配布されていたものです。ニーヴァは当時のソ連車の中では例外的に評価が高く、今も日本で時々見かけます。

でもUAZやGAZとはちがい、軍とはあまり縁がないメーカーのようで。
ロイ・シャイダー主演の「対決」という映画があって、そこにソ連軍っぽく塗装したニーヴァが出てたのですが、これが似合わないなんてもんじゃありませんでした。
逆に考えると、ニーヴァはソ連の基準では垢抜けていたデザインだったのかもしれません。

次は表紙になっているキエフの電気溶接研究所の特集。

幹線石油パイプラインは溶接部に沿って壊れた。
割れ目は超音速の速さで広がる。その結果、この区間全体がだめになり、供給が途絶し、大きな損失が出る”
 
“容積3000立方メートルのタンクの溶接継手が壊れた。侵食環境……タンクにはアルカリが貯蔵されていた……に耐えられなかったのだ。その結果は貴重な原料が失われ、環境に損害を与え、大きな損失が出る”

音速を超えて亀裂が走るというのはすごいですが、これらの問題を解決したのが、キエフのE・O・バトン記念電気溶接研究所。表紙のは宇宙飛行士は真空チェンバーの中で宇宙空間用の溶接機を試験している様子です。
当時のソ連は電子機器をはじめ、工作機械や土木機械などを西側から輸入することができませんでした。そんな時に直面した問題を解決したのがこの研究所で、ゴルバチョフ書記長も視察しています。
溶接機K-700-1はガンダムのビームサーベルを開発しているところにしか見えないなぁ。


最後はヤクーチア特集からカラーページを。
札幌で開催されたヤクーチア展にあわせた企画です。

あとなにげに極地発電船がカッコいい。



























最後は第27回ソ連共産党大会をイメージしたロゴでも。
特に意味はありませんが、なんとなく。

それではまた~。


2012年9月14日金曜日

今日のソ連邦 第10号 1986年5月15日

ご無沙汰しております。
8月をまるごと空けてしまいました。といっても華麗に夏のバカンスを楽しんでいたわけではなく、バタバタしてるうちに夏カゼをこじらせて、ぐったりしていたという情けない話であります。涼しくなってきたらなんとか平常運転に戻したいと思いますが。

さて、今回の表紙はなんとも地味です。日ソの国旗を前に、おじさんふたりがにこやかに談笑。優雅なデザインのグラスと、これまた地味なデザインのミネラルウォーターの瓶が、いい対称になってます。

今回もなかなか盛り沢山なのですが、この時期のソ連にとって一番重要だったのは、なんといっても2月末から3月初旬にかけて開催された「第27回・ソ連共産党大会」( Имени XXVII съезда КПСС = イメーニ XXVII セズダ・カーペーエスエス) です。この号にも関連した記事が沢山出ています。


しかし、それとは別に突発事態も発生するわけで・・・・。それが4月14日から15日にかけて発生したアメリカ軍のリビア空爆でした。

85年12月にローマとウィーンの空港で爆弾テロが起き、86年3月には西ベルリンのディスコで爆弾テロが発生。これらをリビアの仕業と断定したアメリカが空母部隊を差し向けて、空爆に至ったというものです。

作戦はカダフィ大佐本人の殺害を目的としたものだと言われています。わずか15分間の攻撃で、レーザー誘導爆弾を含む300発の爆弾が投下され、48発のミサイルが発射されたとのこと。

当然、ソ連を始め、東側諸国は激しく反発したのですが、ゴルバチョフ書記長は政府声明と親書を出しただけで、米ソ関係が深刻に損なわれるようなことにはなりませんでした。そういえば「親書」なんて言葉も、ちょっと前に話題になってたなあ。

今、カダフィ大佐はこの世にいません。ソ連も崩壊し、ゴルバチョフ氏もただの人。しかし、アメリカとリビアの関係とはいうと・・・・。こんな時に、この記事を紹介することになろうとは、なんとも複雑な気分ですね。


さて、気を取り直して次の記事。表紙にも見出しが出ている「モスクワで近視が直った」という話題です。ちょっとグロ気味の写真が出てますが、どうかご勘弁を

視力矯正手術というと、今ではレーシックが主流みたいですが、この頃は「放射状角膜切開術」というものが行われていました。RK手術と言った方がわかりやすいかもしれません。


この道の第一人者がフョードロフ博士。
後にソ連の人民代議員になり、ソ連崩壊後は客船をまるごと病院にして世界各地で手術を行うという豪快なことをしていた人です。この人の技術は「つくば科学万博」でも紹介され、それに目をつけた日本の商社が「視力矯正手術ツアー」なるものを企画。表紙のおふたりは商社の社長さんとフョードロフ博士です。

今回の記事はその第一号となった人たちの話をレポート。
12日間のツアーは検査・手術費用を含めて91万5000円。対象年齢は18歳から40歳(40歳以上の人でも回復程度について合意すれば可能)まで。ただし、近視が急速に進行している人、角膜炎、白内障、網膜損傷がある人、その他、内科的な疾患、精神的な疾患がある人は不可となっています。特に糖尿病の人はダメと記事では念押ししてます。

手順は問診から始まり、検眼計を使って目の表面の湾曲度を計測。自動検眼計でジオプトリーを計測。さらに視野、角膜の厚さ、眼内圧などが検査されます。食事に制限はないが、当然、アルコールは禁止。それ以外は普通に観光を楽しむこともOK。手術本番は、フョードロフ博士が考案した「コンベヤー・システム」で実施されます。

この「コンベヤーシステム」というのは画像に出てる通り、ベッドに寝た患者が5人の外科医から順番に処置を受けるというもの。5人の医師は「切り込み箇所指定」「周辺部切り込み」「中心部切り込み」「刻み目の深さ調整」「洗浄と抗生物質注射」の5つの工程を役割分担しており、手術時間は10分程度で終わります。医師がヘッドフォンをつけていますが、実はこれ音楽を聞いているのだとか。

で、これでなんで視力が回復するのかというと、切り込みを施された部分が眼内圧によって曲がり、その結果、角膜を通過する光線の屈折率が変わって、像が網膜に正しく焦点を結ぶから、なのだそうです。よくもまぁ、考えたものです。

手術直後は、霧がかかったように見えるが、1~3週間で視力は回復し、矯正もされているとのこと(注:ここに書いた内容は、あくまでも当時の記事にもとづくものです) 
今では日本でも視力矯正手術は特に珍しくもないですが、最初はこんな感じだったんですねぇ。

以前、ウラジオストックに旅行にいった時、わたしを除く全員がメガネをかけていたため、ロシア人のガイドさんから「どうして手術しないの?」と聞かれたことがあります。その人も手術経験者。目をよーく見せてもらいましたが、光の加減で、かすかに切れこみの痕が目の表面に見えたことを覚えています。



次の記事は、カーチャ・ルイチョワという女の子の話題。前回「日本のサマンサちゃん」と呼ばれた女の子の記事を紹介しましたが、この子は「ソ連のサマンサちゃん」です。
その下は、原子力砕氷ラッシュ船の記事。ソ連の商船隊(モルフロート)も原子力船を運用しており、船体に原子核をデザインしたマーキングをしてあります。

ついでにコロメンスコエの歴史建造物の特集記事なんぞも。あと巻末にはロシア人の名前に関するコラムがあったので、内容をかいつまんで。


昔のロシアでは女の子には花の名前を、男の子には動物の名前をつけたそう。たとえば「レフ」は「ライオン」のこと。「ウォルフ(オオカミ)」も好まれた名前で、強そうだから病気や事故から守ってくれるだろうという願いが込められてるとか。目の大きな子は「グラース(目)」、あまり泣かない静かな赤ちゃんには「スミーレン(おとなしい」など、外見の印象が名前になることもあります。

子だくさんの家庭では日本と同様に「ペールヴィ(一郎)」、「フタローイ(二郎)」、「トレチャーク(三郎)」と名付けました。また、厄除けで悪魔や悪霊が無視してくれるように娘に「ニェクラチシーワ」とか「ウローダ」と名付けることもあったそうです。どちらも「醜い女」という意味だとか。

もちろん美しさを意味する立派な名前もあり、それは主に貴族の間でよくつけられました。「リュバーワ(愛しい)」、「ルイベチ(白鳥)」、「ナジェーヤ(希望)」「ラーダ(可愛い)」など。
男の子には「ボグダン(神によって授かった)」、「リュボミール(世界で愛される)」、「ウラジーミル(世界を支配する)」、「スヴャトスラーフ(聖なる栄光)」などがあります。

また、太陽崇拝は古代スラブ人も例外ではなく「ヤール(太陽)」から「ヤロスラーフ(太陽に栄光あれ)」、「ヤロポールク(太陽の戦士)」などがあり、「クラスノヤルスク(美しい太陽)」のように地名になったものもあります。

それ以外だとは、ロシア正教の聖人の名前がよく名付けられたそうですが、ソ連成立後は外国語起源のものも多く、日本人にとってポピュラーな「イワン」も、実際はドイツ人の「ヨハン」やスペイン人の「ファン」、チェコ人の「ヤン」やフランス人の「ジャン」、英米人の「ジョン」やグルジア人の「ワノ」などの同類で、起源をたどると、すべて古代フェニキア人の同じ名前に行き着くのだそうです。

では、また~。

2012年7月23日月曜日

今日のソ連邦 第4号 1986年2月15日 その2

「ソ連大使館ですが、津久田重吾さんをお願いします」

冷戦時代、こんな電話がかかってきたら“オレの人生もここまでだ”と覚悟を決めなきゃいけない気分になったと思いますが、これは、そんなことが本当に起こった女の子の話。

てなわけで前回の続きです。
福田愛子さんはゴルバチョフ書記長に手紙を送った女の子。で、返事が届き、記念品が贈呈されたという記事です。記事のタイトルにある「サマンサちゃん」とは、アメリカ人の女の子「サマンサ・スミス」のこと。
彼女も当時のアンドロポフ書記長に手紙を送り、やはり返事を受け取ります。(ちょっと調べてみたのですが、彼女はそのわずか三年後に飛行機事故で亡くなっております。合掌)

さて、日本の女の子がサマンサ・スミスを意識したのかどうかは確認する術がありませんが、人生の方向性を決めたという点では同じだったようです。
ソ連崩壊後、来日したゴルバチョフ氏と初体面を果たし、その後はウラジオストクの国立極東大学に留学。帰国後は北海道の小樽市でロシア語通訳の仕事に就き、現在は札幌市で子育てに専念しているとのこと。人に歴史ありだなぁ。


次は「バラコボ原発を建設する人々」という記事。
まずは作業現場でリーダーシップを発揮する共産党員「ニコライ・デルカチ」のお話です。
この人、ソ連最高会議幹部会から「社会主義労働英雄」の称号を授与されているというから筋金入りです。
彼は現場の作業員たちを鼓舞し、各セクションの責任者と話し合い、工程表を見直して効率化を図り、バラコボ原発をかつてないスピードで建設していきます。


もうひとりはアメリカの原発建設現場の視察に送り出されたアレクサンドル・マクサコフという若手技師のお話。
“米国で見たものは、別にマクサコフを驚かさなかった。
発見もなかった。しかし、くやしさを感じたことはあった。
リードできるところで、米国人にひけをとっている場合がままあった”

いや、驚きや発見あってこそのくやしさだとは思いますが。
技術屋の意地とプライドが伝わってきますね。実際、彼は帰国後、アメリカの2倍の速度で原発を完成させると息巻くのです。そのための戦略的な方針では、いたずらに作業員を増やしたり、作業工程を切り詰めたりするのではなく、まず労働者の街を作り、そこと建設現場を結ぶ街道を整備するという作戦に出ます。


“良い住宅条件、児童施設、休息基地、立派な予防病院、スポーツ学校…
建設場の食堂、食料品店、日用点-
これらは皆、総攻撃用の信頼できる後方基地である”

その結果、バラコボ原発では、原子炉直下の基礎スラブを120時間で完成させ、マクサコフは4基の発電ユニットを同時に建設するという計画をブチあげるのでした。なんか、すごいぞー。

バラコボ原発・第一発電ユニットの据えつけ。
巨大な構造物が吊り上げられていますが、
下の作業員が誰も見ていないのがちょっと不安。
発電所の党活動家の会議。
労働現場の共産党集会の典型的な光景です。
ここで原発建設の緊急の問題が討議されるとのこと。



ところで、このパラコボ原発。1985年6月27日の1号機の立ち上げ時に、圧力逃し弁が意図せず開き、300度の蒸気が作業区域に流れ込んで、14人の職員が死亡するという事故を起こしています。理由はヒューマンエラー。それも「未熟と軽率が原因」だそうで。
うーむ……写真に写ってる人たちが今も無事だといいのですが。

最後はダゲスタン自治共和国の人民芸術家の紹介。
「女性工匠マゴメドワの華麗の金属工芸」です。


ダゲスタン自治共和国は、チェチェンやグルジア、アゼルバイジャンなどと隣接する山国。今ではダゲスタン共和国となり、ロシア連邦の構成国のひとつです。たまにニュースに出てきますが、例によってイスラム原理主義だの自爆テロだのと、ロクな話題だったためしがありません。

山裾にへばりつくような特徴的な村の風景とか、実際に訪れたらとてもステキな場所だと思うのですが。
このクバチ村、現在のダゲスタン共和国のホームページでも金属工芸の有名な村として紹介されています。

でも外務省の渡航情報じゃ 「渡航の延期をお勧めします。」(既に滞在中の方は,退避手段等につきあらかじめ検討してください。) になってるのよねぇ・・・・。



今回はこんなところで。
でわでわ~。





2012年7月12日木曜日

今日のソ連邦 第4号 1986年2月15日 その1

やってしまいました。
なにかおかしいと思っていたのです。
1986年のバックナンバーが1冊だけとかヘンだぞ・・・と。

案の定、本棚を調べてみたら、わらわら出てきました。というわけで、時計の針をいささか戻すことをお許しください。
てなわけで、「今日のソ連邦」の第4号です。

表紙を飾るのは安倍外務大臣(当時)とソ連のシェワルナゼ外務大臣。安倍さんは、えーと、何年か前に首相をやっていた人の父親です。
シェワルナゼさんは、ゴルバチョフ書記長に抜擢された改革派の人。グルジア人で、モスクワ入りする前には、グルジア共和国KGB議長をやっていた人です。ゴルバチョフさんは、アンドロポフ書記長(元KGB議長)と関係が深かったですから、その流れでの抜擢でしょうね。
しかし、シェワルナゼ氏は、一向に成果の上がらないペレストロイカに失望し、後に「独裁が近づいている」という言葉を残して、モスクワを去ることになります。それから間もなくクーデターが起きて、ソ連崩壊の幕が上がるのでした。
もちろん、この写真が撮影された時点で、そんなことを予測できた人間は地球上のどこにもいなかったでしょうけど。

ところで、このシェワルナゼさん。眼光鋭い風貌から、油断のならない人物というイメージがありますが、実際にはソフトな物腰で、ソ連のイメージアップに貢献した重要な人物です。
なにしろ前任者は、年がら年中しかめっ面で、ノー(ニエット)としか言わないことから「ミスター・ニエット」の綽名がついたグロムイコ氏です。
率直な物言いのシェワルナゼさんに、西側は「やっと、まともに話ができる政治家が現れた」と期待を寄せたわけです。

東京について早々、屋外でスピーチするというのも異例で、この辺は当時のマスコミなどでも驚きをもって報道されていたようです。
わずか4日間の滞在でしたが、日本政府の首脳と会談するだけでなく、日本庭園を訪れたり、ソニーのショールームや日産の座間工場を見学したり、広島&長崎の市長と会談したり、と大忙し。
日本を離れる直前に、日本記者クラブで記者会見するなど、従来のソ連の指導部からは考えられない行動力を見せたのでした。


さて、うっかりパックナンバーをすっ飛ばしてしまったわけですが、偶然にもこの号でもチェスのカスパロフの記事が載っています。前回は世界タイトル防衛の話でしたが、今回は初の世界チャンピオンになったという記事。ソ連の若きヒーローです。
相手は同じソ連のアナトリー・カルポフ。彼は10年以上も世界チャンピオンの座に君臨していた人物で、それを22歳の若者が破ったわけですから、まぁ、当時のソ連市民の興奮ぶりがわかります。

それはさておき、カスパロフの対戦相手のカルポフには、なかなか奥深い裏話があります。
カルポフの長年の対戦相手に、ヴィクトル・コルチノイなる人物がいました。ユダヤ人です。しかも、ソ連から亡命したロシア系ユダヤ人。
当時のソ連では、亡命した者を「裏切り者」と呼んでいました。その上、ユダヤ人なのですから、話はややこしいです。そんな両者が真っ向からぶつかるのがチェスの試合だったのです。
しかも、当時のコルチノイは、自分自身は亡命したものの、妻子はソ連に置いたままという心理的ハンデがありました。
ソ連当局は、なにがなんでもカルポフを勝たせるべく、KGBの超能力者部隊(!)を、ひそかに観客席に配置し、コルチノフの集中力を妨げている、などというトンデモ話までがささやかれていたのでした。(後々、説明することになると思いますが、ソ連はなにげにオカルト大国です)。


まぁ、結果的にコルチノフは負けてしまうわけですが。ユダヤ人とロシア人の関係は、1冊や2冊の本を読んだぐらいでは太刀打ちできない、ややこしい背景があります。

そんな中から勝ち抜けた若いカスパロフは、しがらみを断ち切る新しい世代として期待されていたのかもしれません。

今回は、こんなところで。
でわでわ~


2012年6月23日土曜日

今日のソ連邦 第23号 1986年12月1日

今日のソ連邦。今回の表紙はソ連が世界に誇るチェスの世界チャンピオン、ガリー・カスパロフです。うわぁ、若い。

カスパロフは、当時まだ23歳。史上最年少のチェス世界チャンピオンとして有名でした。ソ連に限らず西欧ではチェスはスポーツの一種と見なされ、世界王座をかけた対局となるとワールドカップのように中継されます。
今日のソ連邦でも、今回の「世界チェス選手権リターンマッチ」の様子が記事になっていますが、いつになく力のこもった内容で、ノーボスチ通信の記者も、熱くなってレポートしていることが伺えます。

この時の対戦相手は、こちらもソ連のグランドマスターで、前世界チャンピオンのアナトリー・カルポフ(35)。全部で24対局という試合は、レニングラードとロンドンで行われ、7月28日から10月9日までの2ヶ月におよんだのでした。


ちなみにカスパロフ、その後はIBMのコンピュータ「ディープ・ブルー」と戦ったりしてます。現在ではチェスを引退し、ロシアで政治家に転身。民主化運動に取り組んでいるそうです。
それにしても、表紙写真の背景のアルミホイルが気になります。どういう演出なんでしょね? 

さて、今回もいろいろと盛りだくさんなのですが、話題が多様すぎてなかなかうまくまとまりません。
ハバフロスク観光にどうぞと言われてもなあ・・・。わたしも行ったことありますが、正直、あまりパッとしない街なんですよね。シベリア旅行のベースキャンプとしては便利なんでしょうけど。


とりあえず見栄え優先で「ソ連の膜工学」に関する記事をご紹介。
「膜工学って何?」と思いますが、要するにフィルター技術のことですね。水を濾過するとか、部屋の匂いを取るとか、そういう技術のハイテク版です。
相変わらず、キレイだけど肝心な部分はさっぱりわからない写し方がステキな写真です。


ソ連では生体膜というバイオテクノロジーに基づいたフィルター技術に力を入れていて、超純粋薬物やワクチンを生産していました。
当局の発表によると「製造工程に利用されるフィルター1トンに対して、3000トンの薬品材料、230トンの溶媒、172トンの界面活性剤、150トンの活性炭、260億キロカロリーの熱が節約され、同時に10万立方メートルの有害物質を水系に放出しなくて済む」とのこと。
う~む・・・・。ソ連の記事は、データだけは景気いいんですが・・・・。

その他の利用方法としては、やはり食品の保存や加工の分野が目立ちます。フィルターで酸素を除去して窒素を増やした空気を倉庫に満たし、収穫物の鮮度を保つとか、酸素濃度を高めた水による魚の養殖とか、生乳をフィルターに通して一度に数十種類の乳製品を作ることなどが行われているようです。

ついでに「科学技術ニュース」も。
【腎臓の血管の修復】は、一度、腎臓を取り出して、修復した後に体内に戻すとか。なんかブラックジャックで似たような手術があったような。
【深い地下用の作業衣】は、空調機能のある作業衣の紹介。これも似たような服を日本のメーカーでも作ってましたね。広江礼威氏がコミケで着てました。
【空気で電力を貯める】は今の日本でも応用できるかな? 堅い岩盤の中に高圧空気を閉じ込めて、必要になったら取り出して発電するというものです。水力発電の空気版ですね。
脳の中心部への旅】は、なんだかスタートレックに出てきそうな脳手術の話。超音波で頭蓋骨を通り越して患部を治療するのだそうです。
脚が出る水陸両用船】は、こういうのどうして写真を出してくれないんだよ、と文句を言いたくなる記事。詳しくは本文を参照してください。



最後は写真3点。
ボルゴグラード(旧スターリングラード)のママエフの丘にある祖国の母の像のメンテナンスに関する記事。クレーンや足場を使う代わりに山登りのスペシャリストたちに手伝ってもらったという記事です。


次は日本文学の翻訳者ボリス・ラスキン氏の記事から。ビリヤードに似た、ラトビアのゲームというのが興味深いです。日本でできるところあるのですかね?
ちなみにラスキン氏、短波ラジオを持っていて、日本のラジオ放送を聞いたりもするのだそうです。共産主義国家で海外のラジオを堂々と聞ける身分というのは、実はすごかったりします。



最後は、夢に出そうな恐いモニュメント。
初代の駐日ロシア総領事ゴシケビチの軌跡をたどる記事にあった一枚です。
このハティニ村は映画「炎628」のモデルになった村だと言われています。見てない人は見るべし。相応の覚悟を決めて。


なんか脈絡のないブログになっちまいましたが、まぁ、これがうちの通常営業ということで。
でわでわ~。

2012年6月9日土曜日

映画 アイアン・スカイ

映画「アイアン・スカイ」のプレス試写にお呼ばれして行きました。
月面ナチスの地球侵攻作戦を描いたトンデモ映画です。
ナチスの残党が南極やら火星やらで、どーたらこーたらというネタは、ミリオタやオカルト好きなら一度は妄想するバカ話ですが、まさか本気で作る奴がいるとは思いませんでした。

いや、面白かったです。
手加減するということを知らないフィンランドのユーモア・センスに、クソ真面目なジャーマン・リアリズムのテイスト、そこに底意地の悪さで知られるオーストラリアが加わって、ナチス・ネタと来れば、無事に済むはずがないのです。(一部、筆者の偏見が混ざっております)

時は2018年、アメリカ大統領選挙のキャンペーンだけのために立案された月面着陸プロジェクトが頓挫するところからストーリーは始まります。そこで宇宙飛行士が見たものは、1945年に滅びたはずのナチス第三帝国。彼らは月の裏側に秘密基地を作り、逆襲の機会を虎視眈々と狙っていたのでした。

極悪非道のナチスが、ついにその牙をむく!
しかし、心配ご無用。地球にはこれまた残虐無比で・・・でも、近頃はちょっと落ち目のアメリカ合衆国がふんぞり返っていたのでした。

この映画に出てくる合衆国大統領は、アメリカのジリノフスキー、サラ・ペイリンがモデル。そのクズっぷりは、映画史に残る史上最低の人物です。他にもさまざまなキャラが登場しますが、マトモな奴がいねぇ。
そう、ナチスはバカだが、アメリカはウルトラ・バカ。国連にもロクな奴がいません。でも、ヒロインのレナーテ・リヒター(ユリア・ディーツェ)は、かわいいぞ。

もちろん、史実にもとづくナチス・ネタや、それ以外のパロディなども満載され、SF的なガジェットもてんこ盛り。決して潤沢な予算で作られているわけではないので、時折、チープな部分もありますが、ここまでやれば大したものです。というか、「その辺でやめておけ」とツッコミ入れたくなることも。

日本では9月公開。見る人を選ぶ映画であることは確かですが、こんな酔狂なブログにおいでくださる方々にはオススメです。あ、劇場へお越しの際は、是非とも茶色のシャツに黒いネクタイを・・・ゲフンゲフン!

公式日本語サイトはこちら



2012年5月31日木曜日

今日のソ連邦 第19号 1986年10月1日 その2

えーと、続きです。今回はモルダビアのコルホーズ市場の話題。モルダビアは現在のモルドバ共和国ですね。
さて、ここで紹介されているコルホーズ市場とは、別名“Рынок”(ルイノク)と呼ばれているもので、日本語では自由市場などとも訳されています。

このページに載っている豊かな食料品は当局のヤラセでも誇張でもありません。ソ連だって「ある所にはある」のです。品質もよく、新鮮で、当時のソ連が、実は肥沃な大地に恵まれていたことを物語るものです。

しかし、ここで売られてるものは、バカ高いことでも有名でした。手元の資料(80年代初頭)によると、冬場のモスクワで品薄の時期は、トマトやキュウリが1キログラムで8ルーブルから10ルーブル(2500~3000円)。ホウレンソウ一把が3ルーブル(1000円)と、日本の基準でもとんでもない値段だということがわかります。
モスクワなど都市部の住人の中には、急病人が出た時しか、ルイノクは利用しないと決めていた人もいたのだそうです。

こうした新鮮な農作物は、コルホーズで働く人々の“自由耕作地”で生産されたものです。もしかしたら…とグーグルアースで調べてみたら、ありました。
ウスリースクの近くですが、道路に沿って並んでいる家がわかりますか? その後ろに広がる小さな短冊状の土地が、自由耕作地の名残です。いや、今もあるんだなあ。

平均すると0.5ヘクタールぐらいで、一応、国家から借りている土地ということになります。ソ連全体から見たら、全耕地面積の3%にも満たない、この狭い土地が、当時のソ連人民の胃袋を支えていました。一説によるとジャガイモは総生産量の61%。野菜や肉、牛乳もそれぞれ29%、卵は34%もの比率を占めていたというからハンパじゃありません。

ちなみに国営商店は“Магазин”(マガジン)と呼ばれています。パン、肉、野菜、酒類、牛乳・乳製品といったように、カテゴリーごとに分かれていて、まとめて買おうにも一軒ずつ回らなくてはいけないという不便さ。しかも品切れ状態は当たり前で、運良くあっても品質の悪いものだったりしたそうです。
ソ連では輸送や保管の分野が制度的にも設備的にも遅れていて、どんなに豊作でも、都市部に着くころには30%が腐ってしまうという報告もされていました。

今のロシアでは、ルイノクというと株式市場とか金融市場のこと。マガジンはスーパーマーケットやショッピングセンターのことになっています。時代は変わるものですね。

次の話題は、モスクワのポクロン丘に建設が予定されている大祖国戦争戦勝メモリアルの記事です。なんと1958年から計画されていたのですが、ようやく具体化。と思ったら・・・ソ連崩壊です。

完成したのは1995年。一応、対独戦勝50周年に間に合ったからいいけど、気の長いプロジェクトだったんだなーと。

正式名称は“Мемориал победы на Поклонной горе“で、この計画がどんな風に実現したのかを見比べてみるのも面白いかと思います。ちなみにこの施設、記事で紹介されている時には無かったものが追加されています。

それはロシア正教の聖ゲオルギー教会。(金色のネギ坊主です)
大祖国戦争の英霊たちも、まさか50年目にして教会に見守られて眠ることになるとは、思わなかったでしょうね。

*   *   *

最後は画像なしですが、「ソ連自然保護の旅」という記事から。
ソ連もそれなりに環境保護には力を入れてまして、それによると「ソ連国家水質気象・自然環境監視委員会」なるものが存在するとのこと。略称“Госкомгидоромет”「ゴスコムギドロメト」って、悪の組織か怪獣の名前だぞ。

面白いのは責任の範囲で、ゴスコムギドロメトでは水と大気の状態をモニタリングしてますが、土壌汚染の監視は農業省の管轄なのだと。
出たな、お役所。
農業省は家畜の他に野生動物の保護も担当しており、絶滅危惧種を調査した「レッドデータ」も農業省が発行しているのだそうですが、ゴスコムギドロメトの担当者いわく「農業省の仕事は不十分」とチクリ。

ちなみにソ連では「自然環境」と「(自分の)周囲の環境」というふたつの用語があるそうですが、後者には「騒音」が含まれ、「この問題はゴスコムギドロメトの管轄ではない」とのこと。
ソ連の官僚機構の実体が垣間見える記事でした。

それでは、また~。