2014年12月6日土曜日

今日のソ連邦  第5号 1988年3月1日

あちゃー・・・ついに師走であります。
 今回は「ソ日経済合同委員会」の特集がメインですが、共同声明とか活動報告ばかりでちょっと地味です。注目すべき点は各省庁や企業が独立して投資を呼び込んだり、貿易を呼びかけたりしてるところでしょうか。日本に対しては極東・シベリアの開発に取り込みたい様子が伺えます。

 個人的に強い興味を惹かれたのは「視点を変えれば」というコラム。これまでにも本誌で「ソ連の生活の質」というタイトルでソ連社会を採点してきた社会学者のビタリー・トレチャコフのコーナーです。
タイトルは「推理小説は文明に必要か」というもの。
別にソ連の公式見解を反映したものではなく、あくまで筆者の個人的な意見ですが、書き出しはすこぶる挑発的です。

「推理小説は“文学”のカテゴリーから抹消するだけでなく、そもそも我々の現代文明から追放する必要があると、私は確信している」

 わ~お。はてさて、これはどうしたことでしょうね?
 日本でもマンガやアニメがしばしば俗悪のレッテルを貼られますし、ラノベなんかも「あんなものは小説じゃない~式」の批判が見られたこともあります。トレチャコフ氏の真意や如何に?

 彼はソ連の推理小説家との対話を通し、作家たちの考え方が「どれをとっても人類の正常な生活の理想と、あらゆる刑事もの(ソ連では民警もの)の物語の理念とが乖離している」と強く実感するに至ったと言います。
 ただ、ここで取り上げられてる推理小説にアガサ・クリスティやコナン・ドイル、ジョルジュ・シムノンなどは含まれません。彼いわく「これらの作家は推理小説家というより風俗社会学者だ」と主張します。「これらの小説かが重視していたのは現代の作家が描いているものではなく、その奥で犯罪が熟している環境の社会的・心理的な描写である」のだとか。
 
 さて、トレチャコフ氏がこのコラムを書こう思い立った直接のきっかけですが、国際推理・政治小説協会なる団体の会長にソ連の推理作家ユリアン・セミョーノフが就任したことのようです。セミョーノフは「推理小説は社会的不正をただす武器である」と述べ、ソ連における推理映画の本数を増やすべきだと主張。「それは若者たちが見たがっているものであり、善意・ヒューマニズム・勇気・名誉心を育むものだ」と言います。
 これがトレチャコフ氏の癇に触ったようです。彼は「これらの主張のすべてに賛成しない」と噛みつきます。1985年、ソ連では12歳から60歳までの男女4247人を対象にアンケート調査が行われました。
 16歳以下では推理小説の人気はSFに次いで2位。30歳以下では3位、31~60歳になるといずれも1位だったそうです。職種で分類してみても一般労働者、技術者、農業従事者、医師、研究者など、多岐に渡って推理小説は好きな小説ジャンルの上位にランキングしています。

 ここでトレチャコフ氏は我々から見るといささか古くさい論理を展開します。
 すなわち「ソ連社会が西側の多くの国々で見られる暴力の波に襲われないで済んでいるのは、“刑事もの”の生産量が、西側諸国に比べて少なかったからだ」というのです。来ましたよ。彼にしてみればセミョーノフの主張は「この“不足分”を補いたがっているのだ」と強く批判しています。
 対する推理作家たちの言い分でよく見られるのは「ドストエフスキーの“罪と罰”や“カラマーゾフの兄弟”だって本質的には推理小説だ」というもの。トレチャコフ氏は「こんなことを言えるのはドストエフスキーを軽んじている者にしかできないことだ」と怒り心頭のようです。
 彼が問題視している点をまとめると、刑事なり、取調官なりの正義を描くためには、犯罪そのものを描写せざるを得ない。つまり正義の宣伝と同じように、暴力や犯罪の手口、時にロマンチックにさえ描かれる犯罪者の贅沢ぶり、倒錯した趣味などを宣伝しているのだ、というものです。
 ソ連の推理小説の現状は「1.暴力礼賛、2.犯罪と犯罪者そのものの美化、3.逮捕に至るプロセスにおける犯罪者に対する暴力の正当化」であふれかえっており、これらが映画やテレビドラマでさらに助長、拡大しているというのです。
 あの・・・なんだか80年代のソ連の推理小説とか刑事ドラマとかめちゃくちゃ見たくなってくるんですが。ここまで批判するからには凄いものを想像しちゃうんですが。

次は気分を変えてミンスク自動車工場(MAZ=マズ)のカラー写真いろいろ。ベロルシア(ベラルーシ)共和国には3つの自動車メーカーがあり、残りふたつはベロルシア自動車工場(BelAZ=ベラズ)、モギリョフ自動車工場(MoAZ=モアズ)と言います。これらは全部で11の関連企業からなる産業複合体で正式名称を「10月大革命記念ベロルシア大型自動車生産合同」と言います。
 
 工場では現在、ペレストロイカによって「労働集団評議会」なるものが設置され、「自分のカネは自分で稼ぐ」方式への転換を進めているとのこと。ただ、既存の組織もまだ残っており、それらを廃止するのが大変です。
 旧組織には10人以上のメンバーで構成される「作業班長評議会」が数百もあり、さらに常設の生産会議があります。内訳は全工場生産会議がひとつ、工場、職場、管理部にそれぞれ30、これに人民監督機関、ボランティアの経済分析ビューロー、科学的労働組織ビューロー、ボランティアの要員評議会が加わり、非公式の自主管理グループに至っては無数にあります。これらの集団に全労働者の半数が何らかの形で参加しており、まさに自動車作ってるのか会議してるのかわからない状態だったとか。確かにこりゃ、すげぇわ・・・。

次は職人の世界のお話。モスクワ郊外のサルティコフカという街にある鍛造科学技術博物館の敷地内で開催された「第2回全ソ美術鍛冶フェスティバル」より、鍛冶屋のコンクールの話題。
 一見するとその辺の森でやっているイベントという感じで、どんな形態の博物館なのか興味があります。鉄製の台には耐火レンカが敷きつめられ、その上でコークスを燃やしているようですが、火力のコントロールとか大変そうです。あと、消火用水のバケツが台の下に置いてありますが、それっていざという時、取り出せないような・・・。

さて、この号が出た1988年はモスクワ芸術座創立90周年にあたります。そこで東京の日生劇場でも記念公演が行われたとか。日本とソ連の演劇界はなかなか密接な関係があるんですな。
 もちろん来日するから日本の演目というわけではなく、モスクワでもいろいろ工夫してます。ロシア人が日本の衣装を着ているのはなかなか面白いですが、まぁ、日本人だって海外のオペラとかではそれなりの衣装を着ますからね。
 
 ところで、さすがにここでは触れられていませんが、ソ連と日本の演劇にまつわる面白いエピソードがあります。
 モスクワに赴任中だった日本の商社の奥さんが、友人のロシア人に声をかけられました。とあるアマチュア劇団が「蝶々夫人」をやるので着物の着付けをしてほしいとのこと。で、いざ出かけてみて仰天。
 主役の蝶々夫人はもちろん、出演者全員が「必勝」と書かれたハチマキをしていたのです。当時、ソ連のメディアが取り上げる日本のニュースは労働争議やデモばかりだったので、劇団の人たちは日本人は皆、必勝のハチマキをしているものだと思い込んでいたのだとか。メイエルホリドが草葉の陰で泣いている・・・と言いたいところですが、私たち日本人もどこでやらかすかわからないので、注意したいところです。

 最後は国際婦人デーにちなんだ特集。
 国際婦人デーは3月8日。1904年、アメリカで婦人参政権を求めるデモが行われたことがきっかけで設立された記念日です。ソ連では2月革命の日だったこともあり、重要な記念日に位置づけられます。といっても、女性解放とか男女平等などの硬派なフェミニズム運動からは次第に遠ざかり、ソ連ではごく普通の記念日になって今に至ります。とはいえ、ロシア女性にとっては誕生日、結婚記念日に次いで重要な日であり、この日に花を送ることを忘れると旦那の査定は確実にマイナス評価となります。夫婦や恋人でなくても、職場の女性に花を贈るのが一般的で、これは日本でもメジャーになっていい習慣なんじゃないかと思います。(別に花キューピットの回し者じゃありません)
 さて、記事は山林監督官レーナ・マーシナの日常です。愛犬バルボスとともにカルバート山脈の自然を守るのが彼女の仕事。なんとモスクワ大学卒業の才媛です。普通ならモスクワで華やかな生活が約束されているのに、ウクライナの国営林業所で働く道を選びました。
 規則では制服を着なければいけませんが無視。なんかソ連って規則一点張りのようで、妙なところが自由なんですよね。
 彼女の仕事でも特に重要なのは密猟の取り締まり。記事では興味深いエピソードが語られます。この地域は公認された狩猟地でもあり、地元のアマチュア狩猟クラブに入れば、イノシシやノロ鹿、ウサギ、キツネ、キジなどの野鳥・小動物狩猟許可証が発行されます。しかし、保護動物であるアカ鹿は一切の許可が出ません。アカ鹿はカルパートの森の王と呼ばれています。
 ある日、レーナはそのアカ鹿を狩っている密漁者の現場に遭遇します。早速、摘発しますが、相手は共産党の高級幹部たちでした。「俺たちが誰だかわからないのか?」とすごまれたレーナですが、怯まずに調書を作って送検。しかし、結果はひどいものでした。
 調書はあっさり握りつぶされ、林業所には上級官庁の調査委員会が査察が入ります。彼らはあらゆる書類をひっくり返し、文字通り重箱の隅をつつくように欠点をあげつらい、厳しく譴責してきました。おかげでレーナは一時期、人間嫌いになってしまったそうです。
 その後、彼女は地元の自然保護協会の地区評議会書記を兼務し(ちゃんと給与が支払われます)、自然保護活動にも力を入れているそうです。この地域でも大規模な開発計画がひしひしと押し寄せ、酸性雨の影響でオークの梢が枯れ始めているとか。
 現在、どうなっているのか、ちょっと気がかりですね。



今回はこんなところで。
でわでわ~



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2014年11月9日日曜日

お知らせ

ここ数日、Bloggerのjpドメインで障害が発生していたらしく、閲覧できない状態でした。
まだ不安定な感じですが、運営からは素っ気ないアナウンスがあるだけです。
とはいえ、この文章が読めるとすれば、復旧していることになります。

お騒がせしました。





時刻表ぴったり!




 

2014年10月26日日曜日

今日のソ連邦  第4号 1988年2月15日

なんとか10月中に更新できそうです。

 前回の1月1日号ではゴルバチョフ書記長の著作「ペレストロイカ」(講談社刊)の序文が紹介されていましたが、この号ではそれを読んだ3人の日本人の感想が紹介されています。 

 九州大学教授の荒巻正憲氏は「全人類への警告と行動の指針」。女性労働問題研究者の柴山恵美子氏は「女性労働者の地位向上に期待」。国際問題評論家の斎藤玄氏は「グローバルな背景に注目」と題してそれぞれ論評しています。(肩書はいずれも本誌掲載当時のもの)
ソ連の広報誌という性格上、批判的なトーンは皆無でゴルバチョフ書記長のリーダーシップに期待する内容が多かったのですが、ソ連崩壊という「オチ」を知っている身としてはなんとも言えない気分です。
 他の記事で目に留まるのは、社会学者ビタリー・トレチャコフ氏によるコラム「ソ連の生活の質」。今回が最終回です。テーマは「雇用問題」。この分野については、さすがにソ連はドヤ顔であります。
 統計によると、1928年4月の都市部における失業者数は157万人もいたのが、1930年10月には24万人に激減し、同年末にはついにゼロとなり、それは現在も続いているとのこと。そうだよなぁ。そのために革命やったようなもんだもんなぁ。

 では、失業がないのに「雇用問題」とは?
 トレチャコフ氏によると、ソ連では潜在的な余剰人員が1000万人います。これらは、本来ひとりで十分なはずの職場に必要以上に配置されている人員で、将来的にソ連経済を脅かすかもしれない存在と見なされています。 
 
 しかし、トレチャコフ氏は楽観的かつ強気です。
 それら余剰人員は工業生産の発達(つまり工場を増やし、機械の稼働率をあげる)ことで400万人を吸収することが可能。さらに現在の貧困なサービス産業を拡充すれば1300万人から1900万人の雇用が創出され、余剰どころか、むしろ人手不足が発生するだろうとまで言っています。 
 
 このコラムではトレチャコフ氏がさまざまな分野を10点満点で採点してますが、雇用については9点を付けています。ちなみに他の分野ですと「健康・7点」「食生活・8点」「衣料・6点」「教育・9点」「家庭の幸福・8点」「サービス部門・3点」「消費と貯蓄・7点」「住宅・6点」「休息と娯楽・6点」「社会保障・7点」「コミュニケーション・6点」となっています。

 さて、3番目の画像ですが、普段はスキャンしてない表2ページの広告です。今は無きソ連物産専門店「白樺(ベリョースカ)」。そこから十月革命記念のルーブルコインが発売されるというもの。なかなかいいお値段ですが、材質が明記されてないのが残念です。切手などもそうですが、ソ連ってこういう外貨稼ぎについてはフットワーク軽いんですよね。

次は表紙にもなっているコワモテのおじさんの特集記事。「脊椎指圧療法の名人カシヤン医師」その人です。
 ニコライ・カシヤンはウクライナのコペリャキ市に診療所を構えています。治療はシンプルそのもの。指先で脊椎を触り、症状を見極めると、圧力を加えるだけ。いわゆる指圧とかカイロプラクティクと呼ばれる治療法です。
 画像は治療の様子。12歳の女の子のエロい背中が見えますが、左右の肩甲骨が明らかに不自然なのがわかります。
 ただ、このカシヤン。一筋縄ではいかない人物でもあります。診療が始まるのは決まって真夜中。医学界からは「ある種の神秘主義ではないのか?」との疑問が出されています。
 これについての彼の答えは明快です。この人、確かに医者なのですが、昼間は別の仕事をしています。正式な職業は「身体障害者専門の寄宿学校における精神科医長」というもの。つまり指圧は副業なのですな。
 それでもカシヤンのところには大勢の患者が押し寄せます。もちろんすべて治せるわけではありません。彼が治すのは脊椎に原因があるものだけ。もし違っていれば「これはわたしのところではない」と即答します。

 カシヤンは若いころ、軍の衛生兵でした。しかし、肺病をわずらい除隊を余儀なくされます。同僚の医師たちも手の施しようがなく、彼は死を覚悟して帰郷するのですが、そんな彼を救ったのが祖母でした。祖母は革命以前の古いロシアの民間療法に精通し、薬草やアナグマの脂肪などを駆使して彼の命を救ったのです。また、カシヤンの父は近所でも評判の「骨接ぎ」でした。ろくに読み書きもできず、医学書とも無縁の人物でしたが、家の中にはそこかしこに人体骨格や頭蓋骨があり、カシヤンはそれを参考書として脊椎の構造を学んだのです。

 さて、この記事の最後は興味深い記述で締めくくられています。
 もともとソ連の有名な雜誌「アガニョーク」の記事なのですが、記者はこう言ってるのです。
「この記事が発表されれば、編集部とカシヤンのもとに手紙や依頼が殺到するでしょう。しかし、どうか手紙を出さないでください。カシヤンも編集部もこれ以上の患者を助けられる状況にはありません。かわりにコペリャキ市を管轄する総医長、あるいは地区保健部、または州保健局に、医師の診断書と紹介状を送ってください。手紙が殺到すれば、それが連邦保健省を動かし、この課題に国全体として取り組むようになるはずです」

 つまり、カシヤンの記事は、満足な治療を受けられない人々が大勢いる現実を浮き彫りにし、不十分な医療体制の拡充を訴えるものだったわけです。回りくどい気もしますが、いかにもソ連らしい記事とも言えます。

次はラトビア共和国の首都リガにあるVEF(電機生産合同)の食堂についての記事。VEFはラジオや電話機、小型コンピューター通信ステーション、同時通訳装置などを生産し、世界80カ国に輸出している電機メーカーです。他にもスポーツ競技場の電光掲示板やボブスレーのソリなども作っているとか。
 
 この工場では給食コンビナートの機械化に取り組み、サナトリウムやスポーツ施設、食料品店や幼稚園などを備えた複合施設を整備しました。つまり出勤してくれば、工場内で大抵の用事が済ませられるというわけです。いかにも機械メーカーらしく、関連機器類をすべて自前で設計し、組み立てや設置も社員が行ったとのこと。画像には食堂の様子が映っています。

 入り口は自動改札で60コペイカを入れるとゲートが開く仕組み。これはそのまま社員食堂のランチ代になります。同じ規格の4つのトレーには主菜、副菜、スープ、デザートなどが盛りつけられています。テーブルの中央には回転式のケースがあり、ナイフやフォークなどのカトラリー、その反対側にはパンが入っています。真ん中は紙ナプキン、塩、コショウ、あとはマスタード。ロシアでは黒パンにマスタードを塗って食べることが多いんですよね。
 また、毎日の食事代を給料日に一括して差し引くという人にはカードがあります。端末にはロシア語とラトビア語が併記されています。

続く記事は砂漠の古都ヒワ。ウズベク共和国の首都サマルカンドから北西に630キロほどの場所にあります。ヒワは16世紀に栄えたヒワ汗国の首都で、宮殿と城砦を兼ねた内部都市を持ちます。ここはイチャン・カラと呼ばれ、本来はここがヒワの都市部。現在では革命後に整備された新市街と合わせた全体がヒワの街です。

 ヒワの民族衣裳は独特のカラフルな柄で、これを現代風のワンピースに仕立てたものが主流。スタイルのいい女性が着るとエキゾチックな魅力をかもしだすのですが、この地方では眉墨でマユゲをつなげるのがオシャレなメイクとされているので、個人的にはちょっと残念・・・。所変われば美人の定義も変わります。


 最後はガラリと変わってコミ自治共和国の民族衣裳。バレンツ海に面し、チュメニ州、スベルドロフスク州、アルハンゲリスク州に囲まれたヨーロッパ北東部の少数民族の国です。
 首都はシクチフカ。総人口は100万人ちょっと。面積はフランスよりやや小さいぐらい。ここはウィンタースポーツが盛んで、ソ連のスキー選手の強化キャンプがいくつもあることで有名です。

 コミ人はフィン・ウゴル語派に属し、文字はロシア文字に似たものを使っています。コミ語の出版物で代表的なのは新聞「ユグイド・トゥイ(明るい道)」や雜誌「ボイブィブ・コドズブ(北極星)」など。ちょっと辞書とか欲しくなってきました。ヨーロッパの少数民族も数え上げたらキリがないです。


今回はこんなところで。
最近、滞りがちですが、なるべくがんばって更新しますのでよろしくです。
でわでわ~



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2014年10月11日土曜日

告知です。

大日本絵画さんから出ているスケールアヴィエーションという雜誌に、ノーズアート・クィーンという企画があります。その最新号(2014/11)に衣装とかパーツを提供しました。実際はスタイリストさんが自由にアレンジしたものをモデルさんが着ています。どんな風になっているかは誌面でお楽しみください。当たり前の話ですが、モデルさんはスタイル抜群でとても美しい方です。(なんと、2013年のミス・ユニバース日本代表!)

実際に提供したものの一例。
1988年規定に基づく空軍士官の礼装です。
キャプションは担当編集さんに説明するためのもの。



さて。肝心のブログですが、またしても更新が滞っております。
申し訳ありません。
そろそろ時間がとれそうなので今月中には更新したいところであります。

でわでわ~。

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2014年8月27日水曜日

今日のソ連邦  第1号 1988年1月1日

С Новым Годом!

親愛なる読者の皆さん、新年あけましておめでとうございます!

いや・・・だって仕方ないじゃないですか。1月1日号なんだもん。
というわけで久々の更新です。涼しくなったてホッとしてます。

さて、この号ではソロビヨフ大使の新年のごあいさつから始まり、ゴルバチョフ書記長の著書「ペレストロイカ(講談社 刊)」の序文へと続きます。ソ連の指導者の著作物が日本で出版されるのは、決して特別なことではないのですが、大抵はマイナーな出版社から少部数発行されるのが関の山。でも、ゴルバチョフ関連の書籍は1985年頃から続々と出版されており、当時の日本でもちょっとしたブームだったことが伺えます。

本誌の方に目を向けると、新年のカラフルなイラストがユーモラス。1988年は辰年だったので、今日のソ連邦でも大蛇(ドラゴン)の「ゴルィヌィチ」にご登場願ったというわけです。

3つ首の竜というと日本ではキングギドラを連想する人が多いですが、その原型はソ連映画の「イリヤ・ムウロメツ 巨竜と魔王征服(1956)」に登場した「ギヌチ」です。この時はモンゴルの王が火山の火口から呼び出すのですが、たぶんゴルィヌィチと同じで、ギヌチは字幕の誤りではないかと思われます。

もともとロシアに干支はなく、新年のお祝いも9月から3月にかけてという大雑把なものでした。これは農作業の始めと終わりにあたり、1699年にピョートル一世が1月1日を正式に新年とするまで、農民たちの間に広まっていたものです。ところが(日本からの影響とは明言されていませんが)本誌の記事ではソ連でも新年の干支にちなむお祝いが一種の遊びとして根付いたと書かれています。その年の番人である動物は、プレゼントのモチーフになったり、店頭のデコレーションに応用され、新年特有の「いつもと違ったカーニバル的な時間」を楽しむ材料となったそうです。

話をゴルィヌィチに戻すと、彼(?)は人語を解し、気まぐれな性格。正義と真実を求める主人公を打ち倒すことに情熱を燃やしています。口からは煙や炎を吐き、たとえ切り落としても首は何度も生えてきます。しかし、この“多重コピーシステム”の信頼性は極めて低く、農民の息子はいつもゴルィヌィチに勝利します。青年は美しい乙女をめとり、国王から領土を譲渡されたり、時には新しい玉座に座ることもあります。
ちなみにゴルィヌィチとは“ゴラー(山)の息子”という意味。ロシアでは敬称にあたる父称で呼ばれていることから、単なる邪悪な存在ではなく、英雄譚に不可欠な存在として敬意を払われていることが伺えます。
それにしてもソ連の人たちはウォークマン好きだなあ・・・。

続いての記事はモスクワ市ガガーリン区にある第1623幼稚園の話題。ネーミングがいかにもソ連です。ここには6台のパソコンが設置され、子供たちを対象にしたコンピュータ教育が行われています。もちろん幼稚園児なので、ゲーム感覚でパソコンに親しんでもらうのが目的。おそらくMSX規格だと思われますが、よく見ると手元はタッチパネルのようです。

さて、この年代のソ連の子供たちはマジで天使ですが、成長するにつれて問題も起こすようになります。次の記事は「ドネツクの二つの“奇跡”」という、ちょっとオカルトめいた記事。今なおゴタゴタが続く東ウクライナからのレポートです。

1987年の初め、ドネツク州エナキエボ市で不思議な出来事が起こります。記事で「サーシャ・K」と呼ばれる少年が、超能力を持っていると騒ぎになったのです。少年は13歳。彼が現れると、突然周囲にのものが燃えだすというのです。少年の自宅ではテーブルや椅子、カーペットなど火がつき、洗濯カゴの中の下着さえも燃えました。サーシャ・K自身の私物も燃え、毛皮の帽子は彼がかぶった状態で燃える始末。
やがて噂が広まり、人々は少年に近づくのを避けるようになります。しかも彼の父親はドネツク炭田の炭鉱夫。引火性ガスに気を使う父親の同僚たちは、彼と一緒に坑道に降りることを拒絶するまでになります。
とうとう両親はアパートを出て行かざるをえなくなり、サーシャ・Kとともに叔父さんの家に転がり込みます。しかし、そこでも発火現象が起こったのです。目撃者には消防士や民警も含まれていました。

この話を「ソ連人民代議員ソビエト機関誌イズベスチア」が取り上げると、ソ連全土でセンセーションが巻き起こります。他の新聞も追随し、記者たちは燃えたアパートの中を調べ、近隣住民にインタビューしました。すると発火現象だけでなく、電球やガラス瓶が破裂したり、家具が横転するなどの被害が出てることも判明。さらに焼け焦げた壁紙には「口にしたり記事に書くのがはばかられるような文字」が浮き上がっていることもわかりました。文面の筆跡はすべて同一で、いずれもサーシャ・Kの母親に対する脅迫だったと言います。

ついにサーシャ・Kは「放火マニア的性格による神経症的反応」と診断され、小児病院に送り込まれますが、騒ぎは収まりません。イズベスチア紙の記者たちは「社会主義工業新聞」や「労働組合機関誌トルード」から批判され、イズベスチア紙も負けずに反論。ポルターガイストやら地球外生命体やらを巻き込む大騒動になります。

しかし、オチはあっけないものでした。エナキエボ市の民警が科学捜査班を出動させ、あっさりトリックを見破ったのです。壁紙の罵詈雑言はサーシャ・Kの筆跡と断定されました。発火のトリックも、酸素と反応する可燃性の粉末を使ったものと断定されました。なによりも強い説得力を持つのは、この一連の現象がある日を境にピタリと止んだことです。それはサーシャ・Kの14歳の誕生日。ソ連では14歳になると不良行為に対する刑事責任が発生するのです。

二つ目の奇跡は透視能力を持つという女性の話。やはりドネツク州での話です。
37歳のユリア・ポロビヨワは10年前の土曜日の夜、雷に打たれて即死。死体は遺体安置所に収容されます。月曜日、司法解剖をしようと法医学者がロッカーを開けると、ユリアが飛び起きたというのです。それからでした。彼女が透視能力を持つようになったのは。彼女は医者に見放された患者を透視能力で診察し、的確なアドバイスをすると評判になりました。

ここで、またしてもイズベスチヤ紙が関わってきます。
ユリアの元を訪れた記者は彼女から「あなたの胃のあたりに淡赤色の液体が見える」と告げられ、ショックを受けます。彼は前の晩にツルコケモモのジュースを飲んでいたのです。しかし、この記事はまたもや批判にさらされます。
噛みついたのは、こちらも社会主義工業新聞。もしかしてイズベスチヤ紙と仲が悪いんかな?
記者は専門家の見解として「ジュースが3時間以上、胃にとどまることはない」との記事を掲載し、イズベスチア紙の記事はあまりにも不注意と酷評。さらにユリアの既往症の履歴を調べ上げ、そもそも10年前に落雷事故など起きていなかったことを突き止めます。ユリアの「診断」とやらも、実際には彼女はあれこれ理由を付けてはやっていないことが判明。二つの奇跡はあっけなく幕を閉じたのです。

ふっふっふ・・・。社会主義国家と言っても、可愛いものではありませんか。

次の記事は表紙にもなっている「画一性に反対する建築家」の記事。ゴルバチョフ書記長のペレストロイカを反映してか、この種の記事はどんどん増えています。
表紙はシベリアのクラスノヤルスク市で活躍する建築家オレグ・デミルハノフ。自らが設計したボリショイ・コンサートホールの舞台に立っています。左の画像はその外観です。ソ連建築の典型ですが、内外の照明などに独自の工夫が見られます。ただ、ソ連時代は慢性的な電力不足もあり、こうした公共施設がすべての照明を点灯することはとても珍しいことでした。だから現地に行って見てみると、貧相でガッカリということがままあります。

記事ではシベリアのアパートの設計が画一的であることに批判が向けられています。なにしろ同じデザインの建物が100棟も建つというのですから、なるほどウンザリする気持ちもわかります。デザインは1965年に「標準設計」として確立されたもので、半完成品のコンクリートパネルを組み合わせるプレハブ工法。建築家はその規格を採用すれば、あれこれ悩まずに建物を設計できます。なによりもシベリアの建築物はマイナス40度の寒さから住人を守らなければならず、違う設計をするたびに暖房効率などを再計算する手間が省けるというメリットがありました。しかし、これが行き過ぎると、ソ連のあらゆる都市が同じ風景になってしまうという状況が生れます。都市問題の典型的な事例はソ連でも例外ではなかったようです。

次の記事は画一性とは正反対。ソ連どころか日本でも稀な4世帯同居の大家族の話。グルジア共和国の中にあるアジャール自治共和国の首都バツミ近郊のマフビラウリ村に住むトゥルマニゼ一家のお話です。
家長カジムと妻のウミアン。3人の息子レワズ、シュクリ、テムリとその嫁、娘、息子たち。カジムと息子たちは全員、大工。おかげで家は自分たちで建てることができました。地区コルホーズの取り決めで、家の大きさには制限がありません。平屋でも3階建てでも希望通りに建てることができます。
ただし、建て坪は144平方メートル(12メートル×120メートル)を越えてはいけないません。トゥルマニゼ一家の家は3階建てで、述べ床面積は335平方メートルに及びます。ちなみに建設費用は12,000ルーブル。一家の年収の半分にあたります。専門の大工に頼まなくて済んだので、この値段で収まったというわけです。
写真では一家総出の食事風景。すべて家庭菜園で採れたもの。新鮮や野菜やチーズ、羊肉はグルジアの名物です。

次の話題は陶芸家アレクセイ・ソトーニコフ(83)の世界。「小さな塑像の大家」とか「陶器の記念像の創始者」と呼ばれる人民芸術家です。
クバン・コサックの首都クラスノダール市の美術・教育中等専門学校で学び、その後、モスクワ美術・工芸大学に進学。そこで彼は、あのウラジーミル・タトリンの弟子となります。
子ひつじ(1937)などは、時代的にそろそろアンティークの領域。でも戦勝記念の花瓶やボグダン・フメリニツキー像などは、スターリン時代のソ連らしく、芸術家といえども国家に奉仕する愛国者でなければならないことを痛感させられます。でもコルホーズの婚礼はどことなくブリューゲルの作品を連想したり。

しかし、偉大な芸術家や科学者であっても、突然、収容所送りになるのがスターリン時代。理論物理学者ランダウの記事は暗黒面を語っています。
ランダウは液体ヘリウムの超流動の権威で、超伝導の研究にも大きな足跡を残しています。ところが、この研究が佳境に入っていた1937年。彼は突然逮捕されたのでした。容疑は「ファシスト・ドイツのためのスパイ行為」。
彼の上司であり、親友であり、ソ連科学アカデミー物理問題研究所長でもあるピョートル・カピツァ(1978年ノーベル賞受賞)は、スターリンに手紙を送りますが、なしのつぶて。そこで彼はモロトフに手紙をしたためます。

この手紙が功を奏したのか、カピツァは内務人民委員部の“最高首脳部”に呼び出されます。が、そこで彼が見せられたのはランダウに関する分厚い調書。中身を見たカピツァは仰天します。どれもこれもナンセンスで馬鹿げた罪状であるにも関わらず、そのすべてにランダウは署名していたのです。
しかし、ここでカピツァは気づきます。
「これらすべてを1ページずつ論破していったら、奴らの思うつぼだ。
最後のページにたどり着くころにはランダウは処刑されてしまうだろう・・・」

カピツァはあくまでも自分の個人的な責任のもとにランダウを釈放するよう求め、それはなんとかうまくいったのでした。
どうしてランダウが逮捕されたのかについては諸説ありますが、敵が多かったのは事実なようです。もともと子供っぽい性格と言われ、冗談好き。学生時代は風刺詩やパロディを収録した手描きの同人誌を発行したりしていました。
こうした天真爛漫さは多くの人に愛されましたが、その一方で権威主義を嫌い、アカデミーの長老たちに不敬ととられる態度を取っていたようです。物理学者としての才能は疑うべくもなかったので、多少の馬鹿騒ぎが大目に見られていたことも、「彼が増長している」と思われる原因だったのではと、カピツァは回想しています。
とはいえ、釈放後のランダウは精力的に研究にいそしみ、超流動の理論を確立させます。1962年にはノーベル物理学賞を受賞。しかし、この時、ランダウには大きな不幸が襲っていました。同じ年の1月に交通事故に遭い、脳に深刻な障害を負っていたのです。カピツァと研究仲間たちはもちろん世界の物理学者が、ランダウの治療のための協力を惜しみませんでしたが、一度も現場に復帰することなく1968年にこの世を去ります。59歳の若さでした。


今回はこのぐらいにしましょうか。
暑さがぶり返すかもしれませんから、皆様、体調管理にはくれぐれもお気をつけください。
でわでわ~



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2014年7月12日土曜日

あれこれ滞っております。



申し訳ありません。
現在、いろいろとバタバタしており更新に手間取っております。
まぁ、アイスでも食いながら待っててくれ。


ゲームラボ誌上での「ソ連邦です。問題ありません」は問題なく好評連載中であります。



2014年6月6日金曜日

今日のソ連邦  第24号 1987年12月15日

あちゃー。6月になっちゃったよ。
まぁ、これがウチの平常運転ということで。

 梅雨入りでテンション下がり気味なこの時期ですが、今回の表紙はなんとも晴れやかで景気いい感じです。10月革命70周年を祝う人々で埋めつくされた赤の広場です。毎年の恒例行事ではありますが、やはりキリのいい数字は盛り上げ方が違います。
基本的な部分をおさえておくと、 記念日は11月7日。これは現在の西暦がグレゴリオ歴だから。当時はユリウス歴なので日付がズレてるんですな。でも、これが事実上、ソ連最後の輝きでした。

 さて、70周年の祝賀行事は11月2日にクレムリンの大会宮殿で行われた記念式典から始まります。これはペレストロイカを掲げるゴルバチョフ書記長の最初の大舞台でした。ここでの演説がソ連全土に大きな影響を与えることになるからです。その後も2日、3日にわたってソ連共産党中央委員会、ソ連最高会議およびロシア連邦共和国最高会議の共同開催による記念式典が挙行されました。もちろん他の15の共和国でも、それぞれの最高会議が主催する式典が行われています。
 ここには世界各国から合計178の政党、団体、運動の代表者が参加し、さながら「世界のアカ大集合」の様相を呈しています。日本からも当然のことながら日本共産党が参加しています。

しかし、なんといっても最大のイベントは11月7日に赤の広場で行われるパレードです。当時の西側各国のソ連ウォッチャーは、レーニン廟に並ぶ閣僚の順番からクレムリン内部のパワーバランスを推測し、軍事専門家はパレードにどんな兵器が登場するかでソ連軍の実態に迫ろうとしていました。

 とはいえ、今回の式典は軍事面ではちょっと拍子抜けだったようです。ゴルバチョフ書記長は準備に手間と金がかかるパレードに実戦部隊を投入することに消極的で、なおかつ軍事一辺倒のイメージを払拭したいと考えていたようです。結果、パレードは「赤軍の歴史をたどる」というソフト路線になります。
 記事には写真がほとんどないので、動画のリンクを見つけました。1時間以上ありますが、パレードが始まるのは37分ぐらいからです。後にゴルバチョフを裏切ることになるヤゾフ国防相とか、興味深い顔ぶれも出ています。  

 最初に登場するのは「ロシア社会民主労働党」の旗。続いて、1920年代の「国内戦」と、それに続く諸外国からの「干渉戦争」に対して功績のあった部隊や兵団およそ150の旗が続きます。行進しているのは現役の兵士たちですが、衣装は当時を再現したもの。黒い上下の革製ユニフォームに赤い腕章。ベルトにはストックを兼用した木製ホルスターにマウザー拳銃を吊り下げています。時代が第一次世界大戦になるとロングコートに毛皮帽の一団、マキシム機関銃の弾帯をたすきがけにした海軍水兵が登場。

 その次はソ連邦成立の黎明期に移り、初期の赤軍が登場。ブジョンノフカと呼ばれる布製の戦闘帽に、矢印型の派手な胸飾りのついたロングコートの軍隊が現れます。中でもマキシム機関銃を乗せた四頭立ての馬車「チャタンカ」は、観衆から注目を集めていました。

 次に登場するのは大祖国戦争の兵士たち。1945年にベルリンの国会議事堂に翻った「勝利の旗」の実物が博物館からわざわざ持ち出され、部隊を先導します。続く軍旗はやはり150本。兵士たちはPPsh-41短機関銃を構えて行進します。
 ニヤリとさせられるのは全員がポンチョをマントのように羽織り、たなびかせていたこと。このパレードを構成した人は色々わかってる人です。ちなみに行進している彼らはクイビシェフ工兵学校の学生たち。

 その後は現役部隊の分列行進が続きますが、ほとんどは軍大学や高等士官学校の学生。空挺部隊もリャザン空挺学校の候補生たちです。最後を飾るのは伝統に従い「ロシア連邦共和国最高会議記念モスクワ一般兵科指揮高等士官学校」の学生たちです。

 この軍事パレードは厳密なスケジュールで管理され、時間は44分30秒、行進する兵士の歩数はきっかり226歩と決められていたそうです。赤の広場の長さ自体は700メートル近いので、これはレーニン廟の前後を特徴的なグースステップで行進する範囲のことだと思われます。ちなみに戦闘車両は26秒で横切ります。
 余談ですが、中国の人民解放軍も天安門広場でパレードを行いますが、こちらは96歩だそうです。やはり閲兵のみの範囲で、前後の移動距離は含まれません。大雑把に計算してみると天安門の建物の横幅とほぼ同じ距離のようです。

 さて、次はガラリと趣向を変えて、ソ連のロックシーンについてです。ビートルズを生み出したイギリスはもちろん、アメリカや日本でもあった「ロックは不良の音楽」という問題が、ソ連でも表面化して論争が起きているとのこと。

 ソ連ではこれまでにも色々な音楽が攻撃されてきました。「ジャズ=デブの音楽」、「ロックンロール=わざと乱暴に相手を無視する醜い踊り」、「ツイスト=健康によくない」などなど。そして今回はロックが攻撃目標に選ばれたというわけです。

 記事によると、新聞にはロックを批判する投書であふれています。いわゆる学術派のプロ音楽家、学校の教師、そして親たちが「暴力的で意味不明の歌詞」「理解不能レベルの大音量」などに憤慨しているというわけです。面白いところでは「ボルガ川沿岸のある町の研究所のスタッフは人間の労働能力に対するメタルロックの影響を実験的に解明している。その結果はまことに物騒なものだ」などと「科学的視点での批判」もあったり。

 ところで紙面で紹介されてるソ連のロックグループは、調べてみると今でも活動中のものが少なくないようです。もちろんメンバーは入れ替わったりしてますが。例えばデーモン閣下のようなメイクの「金属の腐食」はロシア語で【Коррозия металла】というグループ。1984年に結成され、アパートの地下室で無許可のライブをやらかして民警に踏み込まれるなど、なかなかの武勇伝を持つ札付きの正統派のロックグループです。「アクアリウム」のリーダー、ボリス・グレベンシコフは西側でもメジャーデビューした人。ペレストロックなどと銘打って日本でも「ラジオ・サイレンス」というアルバムをリリースしています。

最後は「一家揃って寒中水泳」という記事。ソ連では「セイウチ式寒中水泳」なるものが普及し始めており、その是非をめぐって議論があるそうです。これは冬に川や海の氷をわざわざ割って自然のプールを作り、その中で泳ぐというもの。日本でも元旦の海に飛び込む人たちがニュースになってますが、果たして本当に健康にいいのか?というお話。

 登場するのはドゥビーニン一家。夫のミハイルは42歳。職業はプロ・カメラマン。妻のタチアナは35歳の主婦。ふたりは4人の子持ちでソ連の基準でも大家族です。長男コースチャは13歳。次男マクシム12歳。一人娘のカーチャは9歳。そして三男のデニスカ1歳。お揃いのトレーニングウェアが、なんともいえない雰囲気で、「変わり者一家」に見えてしまいます。雪原で授乳するタチアナ母子の写真も芸術っぽさを意識しすぎてか、わざとらしい印象も。これダンナが撮影したんでしょうか? あとカーチャの写真は児童ポルノになるんかな? だとしても苦情はモスクワへお願いね。

 一家は雨の日も雪の日も公園で朝のランニングをしています。晴れた日はたっぷり日光浴をしてから冷たい水の中で泳ぎます。しかし、少なからぬ人々が、子供たちが本当にそんなトレーニングを心から楽しんでいるのか疑っていると言います。
 これに対し、記事はことのほか肯定的で「笑顔で水に入れてくれとせがむデニスカ坊やを見れば、全員が楽しんでいるのは明らかだ」と言っています。タチアナはデニスカを出産する直前まで寒中水泳をやっており、一家も5年間、医者にかかったことがないとのこと。
 もちろん寒中水泳だけが一家の健康法というわけではなく、バランスの取れた食事やその他の筋力トレーニング、サウナでしっかり身体を暖めることなども重要だと言っています。

 とはいえ医学界の反応はかんばしくありません。
 確かにシベリアのヤクート人やオスチャク人、ツングース人などの間では、新生児を雪でマッサージしたり、幼児に冷水を浴びせる健康法が「古来からの習慣」として存在します。しかし、実際の効果は個人差が大きく、未発達の児童に行うには不適当だとの見解です。「アマチュア集団の極端な健康法の最大の欠点は、一部の成功例のみを根拠にして、それが万人に効く特効薬であるかのように錯覚してしまうことだ」と厳しいものです。
 もちろん、これはドゥビーニン一家を槍玉にあげたものではなく、一般論としててのコメントですが、まぁ、医師としては客観的データのない民間療法を、おいそれと認めるわけにはいかないのは理解できます。
 
 今回もあれこれ脈絡のない紹介ですが、気にしません。
 とりあえずはこんなところで。でわでわ~。

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2014年4月26日土曜日

今日のソ連邦  第23号 1987年12月1日

やれやれ。4月中に更新できて一安心。
さて、今回の表紙は最初に見た時に思わず目を疑ったものです。例によってゴルバチョフ政権の「グラスノスチ(情報公開)」の一端なわけですが、さすがに化学兵器基地の公開というのは、当時のソ連の秘密主義からはにわかに信じられないレベルだったのです。

場所は「シハノフ基地」。サラトフ州の州都で同名のサラトフ市から陸路で北東方面に150キロほど進んだ高地で、ボルガ川沿いにあります。
ここは現在もロシア連邦軍の第1NBC防護機動旅団が駐屯している他、国防省管轄の研究所、臨床病院などがあり、関係者とその家族が住む街はボリスク-18【Вольск-18(シハヌイ-2【Шиханы-2】)と呼ばれる立ち入り制限区域に指定されています。いわゆる「秘密都市」です。

公開に先立ち招かれたのはジュネーブの化学兵器禁止条約交渉に参加している40ヶ国の代表団、国連代表、そしてソ連および諸外国のジャーナリストで、日本からも朝日新聞の記者が招かれています。参加者全員にガスマスクが配布される物々しさで、ソ連軍が保有する各種化学兵器の標準サンプルの公開と化学兵器を実際に解体・破棄する一連いの作業のデモンストレーションが行われました。

展示された兵器は野砲用とロケットランチャー用の化学装薬。戦術ミサイル用化学弾頭。航空機搭載用の化学爆弾。各種の化学薬品散布装置、それに化学手榴弾など。大きなものでは重量1500キログラム、小さいものでは250グラムと様々な種類です。

基地の将校たちは各種兵器の詳細な戦闘目的、爆弾のゲージ、爆弾の中に装填された各種有害物質のコード名や化学式、特性、信管のタイプ、充填されている化学物質そのものの総量などを説明したとありますが、残念ながら記事には載っていません。

解体デモンストレーションでは「サリン」を充填した250キロの航空爆弾がサンプルに使われ、サリンの無毒化と爆弾そのものの解体が公開されました。この一連の作業で使われたのが「化学兵器解体・廃棄用の移動式コンプレクス」なるもの。コンプレクスとは一連のシステムを構成する各種機材をまとめたもので、ソ連の科学技術分野では頻繁に登場する名称です。

コンプレクスは何台もの軍用車両に牽引されるトレーラーとそこに載せられたコンテナ群で構成されています。各種コンテナには実験室、有毒物質を無毒化するニッケル製の化学反応装置、1000度の高温で廃棄物を焼却する装置などが搭載され、これからの部隊の展開・稼働には3時間あれば十分とのこと。

作業は表紙にも写っている作業台で行われます。化学部隊の専門家がドリルで爆弾に穴を開け、特殊な注射器を装着して中の化学物質を抜き取ります。数十分後、中和反応機の中でサリンは致死性を失い、別の物質に変化します。
ただし、一滴だけは有毒のまま残されました。
取材陣に「解体した爆弾が本物の化学兵器であることを証明する」ために、密閉空間に閉じ込められた哀れなウサギに注射するためです。もちろんウサギは即死。続いて別のウサギが持ち込まれ、今度は反応中和機の内部で無毒化された液体が注射されます。こちらは少なくともデモンストレーション中に死ぬようなことはありませんでした。

ウサギの尊い犠牲に哀悼の意を表しつつ、次のコーナー。モクスワの創建840周年のイベントです。見開きのパノラマは位置関係から見てロシア・ホテルの最上階にあったバーからの撮影でしょうか。現在は取り壊されてありません。
この日はモスクワのあちこちでイベントやパレードが行われ、様々な時代の衣装で着飾った人々が街をねり歩きます。もちろん軍装の人々も。仮装行列のようなものですね。

ちなみにこのイベントを企画したのはソ連共産党モスクワ市委員会第一書記。名前をボリス・エリツィンと言います。後にロシア連邦初代大統領になる酔っぱらいです。

さて、モスクワつながりで他の記事を見ますと「赤ちゃんの名付け式」というタイトルがありました。モスクワに限りませんがソ連では行政区ごとに「ザークス(身分事項登録機関)」という役所があります。戸籍を扱う部署です。「赤ちゃんの名付け式」というのは、新生児と両親、その他の家族が集まって地区ソビエト代議員立ち会いのもと、厳かな雰囲気で出生登録をし、新しいソビエト市民の誕生をお祝いするというもの。いかにも社会主義国家らしいお祝いのやり方です。

ソ連にはそれぞれの共和国ごとに「共和国結婚家族法」という法律が整備されており、「出生登録は子の出生地または親の住所地のザークスで行う。ザークスは出生登録の儀式的な状況を保証する(ロシア連邦共和国結婚家族法典 第一四八条 第一項および第二項)」とあり、書類を提出してハイおしまい、というだけではなさそうです。ザークスによれば儀式形式の登録を希望するのは登録に訪れる家族のおよそ半数とのこと。

定刻の三時になるとバイオリン、ビオラ、チェロ、ハープのアンサンブルによる音楽の生演奏が始まり、ホールの扉が開いて赤ちゃんを抱いた父親、母親が入場し、後ろからぞろぞろと祖父母や兄弟などが続くと言いますから、まんま結婚式です。
ホールの中央には大きなテーブルがあり、ロングドレスに大きな胸飾りをつけた女性が立っています。この胸飾りは単なる宝飾品ではなく、15の共和国の紋章をかたどったもので、身分事項登録官の正式装備なのだとか。
ここで厳かに結婚のお祝いと身分登録の手続きが宣言され、生演奏をバックに両親が出生登録簿に署名をするという流れです。

ちなみに名付け式が終わるとお母さんには数冊の本が手渡されます。「赤ちゃんの健康を守るには」「赤ちゃんの心の発達」「離乳食の作り方」「赤ちゃん体操のさせかた」などなど。面白いのは「お母さんの美容のために」という本もあること。出産後の化粧の仕方や顔の小じわを伸ばすマッサージのやり方などが図解入りで説明されてるのだそうです。

続いての記事は「ソ連緒民族の祭り・伝統・風俗」から。東シベリアのハカス自治州の紹介です。ハカス自治州(ハカシア)はシベリア南東部に位置し、行政区分ではロシアのクラスノヤルスク地方の一部ということになります。
人口は50万人あまり。州都はアバカン。シベリアらしく冬は長く厳しい寒さが続きます。天然資源に恵まれ、様々な鉱物や建築材料を産出しているのもシベリアならでは。

特筆すべきは人口密度でハカス自治州はシベリアでもっとも高い人口密度を誇ります。なんと1平方キロメートルあたり8.6人! さすがに東京23区の14389人にはわずかに及びませんが、それでもシベリア基準では満員電車のようなものなのではないでしょうか。

ハカス人はテュルク語系の民族で、アルタイ人やショール人と同系民族です。革命以前はミヌシンスキー・タタール人とかアバカンスキー・タタール人、あるいはひとまとめにテュルク人と呼ばれていました。彼らの民族的創造性は文学とポエジー、演劇、民族音楽などです。1980年にはハカスの民間伝承をモチーフにしたオペラ「鷹の息子」が初演されています。

次の記事は「第一感ソ米子供キャンプ」のレポート。ソ連にはピオニール・キャンプが、アメリカではサマーキャンプがありますが、それを共同で行おうという企画です。正式には「社会的発明者・21世紀の創造者としての子供たち」という仰々しい名称。
 
本文の記事によると「子供たちは本来が正直で、生活苦や人生の悲劇にさらされていないので、ある意味、大人たちより物事の本質に迫ることができるかもしれないから」とのことで、「子供たちのコミュニケージョン能力で新しいものを吸収する速さなどを学ぶ必要がある」からだとか。

こう述べるのは主催者のひとりピチリム師。ロシア正教会府主教です。
彼が言うには「キリストは子供のようになりなさい。子供のようにならないなら天国に入っては行けませんと言っています。天への道、清らかで平和な天への道は、我々の未来の社会的発明者である子供たちが開いてくれる、と私は考えています」とのことで、まさか今日のソ連邦でキリストの言葉が引用されるとは思いませんでしたよ。果たして、この府主教さまも党員なのかしらん?

さて、最後は1988年度のソ連国家予算の概要です。
2ページに分かれていたのを無理矢理つなげました。国防予算も公表されていますが、ソ連の国防費は他の省庁の予算に紛れ込んでいるものも多く、その本当の予算規模を知るのは難しいと言われています。
とはいえ公式な数字を見ないことには、そんな分析もできないわけで、退屈な数字の羅列ですが、まぁ、一回ぐらいはこんな記事を載せるのも良いでしょう。



話題があちこちに飛んでチクハグな感じの紹介になりましたが、今回はこんなところで。
でわでわ~。



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2014年4月1日火曜日

2014年4月1日



曰本中央兢馬会のプレスリリースによりますと、今年の春の天皇賞は騎手全員が大礼服で騎乗するそうです。競馬には興味がないのですが、このレースは観に行こうと思ってます。



※この投稿はフィクションであり、現実に無断で存在できません。


2014年3月22日土曜日

今日のソ連邦  第19号 1987年10月1日

今回の表紙はモスクワ北西部に完成した日本庭園の様子です。1970年代に駐ソ日本大使を勤めた重光晶氏と夫人が提唱し、日本万博基金が計画した施設です。ソ連科学アカデミー中央植物園が敷地を提供し、日本の造園家・中島健氏が設計しました。

冬場、時にはマイナス20度にもなるモスクワで日本庭園が成立するのか不安ですが、元々あったシラカバやカシに、日本のエゾヤマザクラなどを組み合わせた北国仕様になっているようです。

さて、〆切の関係からか、この号には8月の話題が多いです。
まずは8月6日の広島原爆の日に合わせて開催されたモスクワの反戦集会が紹介されています。
主催はモスクワの「勤労者代表」や「ドナウ=レナ川’87調査団(科学系なのか政治系なのか、よくわからない団体です)」、そして「ソ米ボルガ平和クルーズ」の参加者。場所は「ソ連平和擁護委員会」の建物前の広場です。
わざわざソ連にやってきてアメリカの核政策を非難しているアメリカ人が本国でどういう扱いを受けてるのか、ちょっと心配ですが、ソ連側も「集会にアメリカ人が混ざっている」というだけで微妙に一般市民から隔離された集会にしているフシが伺えます。

本誌での扱いも巻頭にこそ掲載されていますが、見開き2ページのみと素っ気ないもの。あと気になったのは本文にある「平和な日本の都市に米国の原子爆弾が投下された・・・」との記述。平時にいきなり核攻撃したみたいです。原爆投下を正当化するつもりはないですが、日米が戦争状態だったことを無理に省略しなくてもいいんじゃないかしらん。まぁ、それだと文脈がおかしくなるか。

続いては「ロシアの帆船の歴史」です。
やはり8月に「平和の白い帆」というヨットレースが日本海で開催されました。オーストラリア、英国、ブルガリア、ポーランド、ソ連、そして日本から合計14隻が参加し、室蘭からナホトカまでのコースでタイムを競ったそうです。
実はかれこれ4回目になる恒例行事だそうですが、地元はともかく東京じゃニュースを見た記憶が無いなぁ。
記事はこのレースにからめてロシアの古い船を美しいカラーイラストで紹介しています。
ロシア人と海との関わりはかなり古く、7世紀には東スラブ人(ロシア人の祖先)が、黒海を通って地中海まで往復する技術を持っていたことがわかっています。9世紀、キエフ・ルーシの時代にはスラブ商人の権益を保護するために戦闘集団を載せた艦隊がビザンティン帝国沿岸まで進出したことがありました。

当時の代表的な船は「ロジャー」と呼ばれるもので、大きな丸太をくり抜き、側面に板を打ちつけて舷側を高くした巨大なボートです。13~15世紀になるとロシアはタタール・モンゴルの襲来を受け、黒海やアゾフ海、カスピ海などに通じる地域を分断されてしまいます。しかし、ボルガ川上流のノブゴロド公国の商人たちは北方ルートを切り開き、西欧との交易を続けていました。
彼らの船は甲板を備え、独立した船室や船倉を持ち、武装も強力だったため海賊に十分対抗することができました。
ノブゴロド人の船にはバリエーションがあり、「シニャーカ」は全長8~11メートル。当時としては大型の部類で甲板はなく、2本のマストを備えていました。10~20トンの積み荷を運ぶことができたそうです。それよりやや小型で1本マストの船は「ノサーダ」。近海や河川の航行に適した「ウシクーイ」も持っていました。また、彼らは氷の海を渡るための特殊な構造の船も作っています。
これは喫水線の下が丸くなっていて、海が氷結して船体が締めつけられると、氷の上に持ち上がるようになっており、潰される心配が無いというものです。

なお、イラストには別ページに詳細な説明がありますので、テキスト大盛りにて。
1番は「北方型コーチ」。全長18~19メートル。幅4~4.5メートル。通常、10~15人で操船し、32トンまでの積み荷あるいは30人から50人の乗客を運べました。2番は前述したロジャー。3番はウシクーイです。いずれも7~25メートルまで各種のサイズがあり、大型のものは100人もの人間を乗せられたそうです。
4番は1669年に建造されたオリョール号。ロシア初の2層甲板帆走戦艦です。全長25メートル。幅6メートル。喫水1.6メートル。大砲6門。乗員55名。
5番はポルタワ号。1712年に建造されたパルト艦隊最初の戦列艦です。全長42メートル。大砲54門。
6番は聖ピョートル号。1740年に極東のオホーツクで建造された郵便旅客船で同型艦に聖パーベル号があります。全長24.4メートル。幅6.7メートル。喫水2.8メートル。積載量は96トン。もともとは探検船でアジアとアメリカの間に海峡が存在するかどうかを調査するのが目的でした。この時の指揮官がビーツス・ベーリング。ベーリング海峡の元になった人物です。
7番はゴト・プレディスチナツィア号。1700年に建造されたロシア最初の戦列艦です。全長36メートル。幅9.5メートル。乗員253名。大砲58門。アゾフ海でトルコ海軍と戦いますが、結局ロシアは敗北し、この艦はトルコ側に賠償として引き渡されてしまいました。
8番目はガレー船プリンツィピウム号。1696年に25隻建造されたうちの一隻です。全長38メートル。幅6メートル。34対のオールまたは帆走で航行しました。ゴト・プレディスチナツィア号とともにアゾフ海の戦いに参加しています。
9番は戦列艦インゲルマンランド号。1715年にペテルブルグで進水。3本マストの2層甲板船で全長46メートル。幅12.8メートル。喫水5.6メートル。大砲64門。
10番は戦列艦聖パーベル号。1794年建造。全長55メートル。幅15メートル。大砲84門。ナポレオン戦争の際、地中海遠征に参加しています。
11番は1841年に建造された十二使途号。同型艦にパリ号、コンスタンチン大公号があります。排水量5500トンに及ぶ大型艦で全長63メートル。幅18メートル。大砲130門。速力10ノット。
12番はロシア艦隊の3女神と呼ばれたフリゲート。同型艦にアウロラ号、ディアナ号、バルラダ号の3隻があることが由来です。帆船時代の最後を飾る船たちです。このうちバルラダ号は1832年建造。全長53メートル。幅13メートル。喫水6メートル。大砲56門。1853年にプチャーチン率いる外交使節団が日本を訪問した時に乗っていた船です。
13番はボートですが、ピョートル1世号と立派な名前がついています。ピョートルは若い頃、納屋で偶然このボートを発見して帆の扱い方を覚えたことから、ロシアを海洋国家にする夢を抱いたと言われています。ボートはその後、ロシア艦隊の神聖なイコンとなり、現在もレニングラード(サンクト・ペテルブルク)の中央海軍博物館に保存されているそうです。全長6メートル。幅2メートル。重さは1.28トンで儀礼用の礼砲4門を備えています。

さて次は、どう見ても目が死んでる警官のドアップから始まる「交通安全のため」という記事。国家自動車監督局(ГАИ=ガイー)の特集です。
ソ連では警察を「Милиция=ミリツィヤ」と呼び、日本では「民警」と訳されます。最近のロシアでは西欧風に「Полиция=ポリツィヤ」と言うようになり、嘆かわしい限り。それはさておき、なかなか興味深い記事と写真です。

今のロシアとは、比べ物にならないぐらいクルマの数は少ないのですが、それでも事故は起こります。わたしのお気に入りは2番目の画像にある「違反は違反・・・」と冷酷無比なキャプションがついた一枚。なんというか、もう・・・キップを切られてるドライバーの絶望感がハンパないです。

ちなみに、わたしもモスクワで交通事故にあったことがあります。友人が運転するクルマが無理矢理右折しようとして直進してきたクルマとガチャン。この時は警察のお世話にならず、そそくさとドライバー同士で示談金の相談をしておりました。申し訳ないので自分も一部負担した思い出があります。3枚目の画像は本来裏表だったページを無理矢理、見開きに再構成しました。なお、今回の記事の取材先がウクライナ共和国なのはまったくの偶然です。
最後はいつものソ連の民族特集。
今回は「ヤクート自治ソビエト社会主義共和国」です。
東シベリア北東部、レナ川の流域にあります。首都はヤクーツク。面積はソ連で3番目という広大な国ですが、人口は100万人ちょっとしかいません。
厳しい自然環境なので当然といえば当然。ちなみに世界でもっとも低い気温を記録したオイミャコン村もヤクート自治共和国にあります。

ヤクート人は背が高く、色は浅黒く、髪は黒い直毛で目は黒くて細く、頬骨が突き出ています。言語的にはチュルク語系民族のひとつとされ、控えめでマジメ。落ち着いた、堅実な民族とされています。まぁ、北国の人の一般的なパーソナリティと思えなくもありません。
客もてなしのよいことで知られ、旅人の訪問は見知らぬ人であってもめでたいことだと考えられています。客はまず最初にごちそうを振る舞われ、旅の目的などを質問されるのはその後です。

ヤクートは「柔らかい黄金(毛皮)」、「ダイヤモンドの宝庫」「青い火(天然ガス)」の守護者と言われ、他にも多くの天然資源に恵まれてます。これについては帝政ロシア時代から伝わる伝説があります。

神は地球を作った時、地下資源を均等に分配することにしたのだが、ヤクーチア上空を飛んでいる時、あまりの寒さに手が凍えて、宝物が入った袋を落としてしまった。このため宝物はヤクーチア全域にばらまかれたのである。

今回はこんなところで。
でわでわ~。

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